シナリオ通り
『兎束を頼む』
その言いつけ通り、私は展示会二日目も、三日目もなるべく彼女のそばにいることを心がけた。
少しずつではあるが表情から硬さが抜け、以前のように会話が続くようになってきた。
三日目の警備も何事もなく終え、残すところはあと一日である。
背中を伸ばしながらホテルの廊下を歩き、部屋のドアを開けた。
「あ、お疲れ」
既にきなこは戻っていたらしく、自身の荷物の整理をしながらテレビに見入っていた。
「思ったよりあっという間だったね。明日の夜に帰れるのかあ」
ひとまずベットに腰を下ろし、私は息をつく。
きなこはバッグに手を突っ込みながら振り返った。
「なーに言ってんのよ、明日が正念場なんだから。油断してるとかっ攫われるわよ」
彼女いわく、ナイチンゲールがこちらの警備に大人しく引き下がるわけがない、絶対にやって来る、ということらしい。
勿論私だって気を緩めるつもりはないが、今日まで何の変化もないのを見ると、本当に奴はやって来るのだろうかと疑ってしまう。
「盗まれたルビーの代わりに、今回はトルマリンが展示されてる。一番高価だし、恐らく奴が狙ってるでしょうね」
きなこが腕を組んで唸った。
少しやり過ぎなのではないだろうかと思うくらいに厳戒態勢で守られている宝玉。
今日の警備中、私もそれを見かけた。
透き通った薄紅色が何とも愛らしく、日本人の好みそうなピンクトルマリンである。
大勢の若い女性がうっとりとその前で足を止めていた。
「そんなに盗んでどうすんのかね。売り飛ばすのかな?」
「さあ。知りたかないわよ犯罪者の意図なんて」
純粋に気になったのでそこまで正答を期待せず聞いてみると、案の定きなこは肩をすくめる。
確かにそうだ。
以前かち合った犯人だって、殺人犯かと思いきや「コレクション」などと宣う変物だったのだ。
普通に宝石を売り捌いて儲けようという犯人なら、こんなに手こずるはずもない。
「そういや、あんたのとこの相棒寂しがってたけど?」
唐突にノーガードの所を突かれた。そんな心地だった。
私は喉の奥から声にもならない音を出し、きなこを見つめる。
「警学生の女の子につきっきりなんだって? まあ事情が事情だし仕方ないわよね」
その口調から察するに、兎束さんのことは既に耳に入っているのだろう。
デリケートな問題なので切り出すにしても具合が分からず、結局こちらからは一言も話さずにいた。
向こうから差し出された話題だったので、兎束さんに影響が及ばない程度に答えることにする。
「うん……相当堪えてたよ。可哀想なくらい」
「わたしもちらっと見たけど、大人しそうな子だもんね。トラウマにならなきゃいいけど」
女性にとってあの恐怖体験は一生ものになりかねない。
きなこだって以前の任務でかなり際どい目に遭っていたし、今こんなにケロッとしているのが不思議なくらいだ。
それなのに男どもときたら。
一昨日の光景を思い出して、思わず唇を噛んだ。
「ほんと、無神経だったよ。震えてる女の子目の前にして『面倒』だの『大人しくしてろ』だの……腹立ったっていうよりも呆れたわ」
「あー、まあ、それは災難だったわね」
珍しく歯切れの悪い返事で済ませた彼女に、私は眉根を寄せた。
それを自分への批判と取ったのか、きなこは「違う違う」と手を振る。
「あげはの言ってることは確かに正しいわよ。わたしだって多分そう思う」
何か含みを持たせるような言い方に、首を傾げる。
彼女は困ったように目を伏せると、声を低めた。
「でも正直、男社会の中では迷惑でしかないのよ。どんなに優秀でも、一つのことで評価が変わる。ほら見ろ、だから言ったんだって」
「そんなの、」
「分かるわよ。理不尽よね。でも、少なくとも今の組織はそうだわ」
女は使えない。時折思い出したように突きつけられる。
私はそんな組織が、心底、嫌いだ。
「まあそれはこの組織に限ったことじゃないし、今回そこまで気に止めることじゃない。問題は、あんたが警察の肩を持ったってことね」
弾かれたように顔を上げ、彼女と視線を交わす。
きなこはやや気まずそうに目を逸らしてから続けた。
「探偵側のあんたが警察側を庇って、尚且つ今も警学生とずっと一緒にいる。それって事情知らない人から見たら、結構マズいと思うのよ」
今の自分の行動を悔やむことはない。間違っていたとも思わない。
だが、周りがそれを許さないとは。流石にそこまでは頭が回らなかった。
「よく吟味せずに、警察は憎むべきものだって決めつけてる人もいる。過激派も組織内に存在するから」
だから、気を付けて。
そう話を終わらせた彼女に、頷くしかない。
この組織は正義の味方などではなかった。
きっと警察だって、百パーセント正しいとは言えないんだろう。
憧れて、焦がれて、夢見た正義のヒーロー。
それは画面の向こうだから信じ続けられるのであって、この世界に何もかもを圧する正義は存在しない。
正義に見せかけた、力尽くの善意だ。
「私、負けない」
強さが欲しい。
正しいことを当たり前に正しいと言える強さが。
いつか絶対にこの組織を変えてみせる。
どんなに悪党を捕まえたって、この組織から狡さは消えない。
きなこは私の言葉に頷くことも、答えることもせずにただ聞いていた。
彼女はずっと前から分かっていたに違いない。女性の肩身の狭さも、内部の醜さも。
だって、決めたじゃないの。
ひばりとちゃんとバディとしてやっていくって。
ナイチンゲールを絶対に捕まえるって。
だから負けない。負けてたまるか。
『速報です。都内の高級住宅地で窃盗事件が発生しました。連日宝石店を荒らされた事件と同一犯の可能性があるとして――』
テレビから流れる音声に、私たちは目を見開いた。
呆然とニュースに見入っていると、ドアの向こうが何やら騒がしい。
ノックが聞こえ、急いで開けると正探偵の男性が一人、噛み付くように言い放った。
「今すぐ一階に集まれ。招集がかかった」
「分かりました」
きなこと二人で部屋を飛び出し、下へ急ぐ。
一階は既に駆けつけた者たちの熱気でむせかえりそうだった。
素早く整列し部屋ごとの点呼が終わると、本部長が前に出てくる。
もう一人、その隣に立つのは、警察側の男性だ。恐らくこちらでいう本部長ぐらい偉い人なんだろう。
「各自ニュースは確認しただろうが、都内で事件が発生した。現場には既に人員は派遣してあるが、これは完全に犯人の作戦だろう」
警察の男性が朗々と全員に言い渡す。
場が少しざわついたところで、鎮静させるかのように彼が続けた。
「しかし、明日ここが狙われないとも限らない。これ以上被害が拡大しないよう、最終日はさらに警戒して取り組んでもらいたい」
簡潔にそう前置いて、明日の配置の確認や担当箇所等を見直した改定案が全体に説明された後、解散となった。
説明の途中、追加情報としてニュースの速報が入ってきた。
盗まれたのはエメラルドのブローチ。都内の豪邸に何者かが侵入し、綺麗に持ち去ったという。
最新の防犯設備は犯人をその場に留めることも、正体を突き止めることもできずに、ただの機械に成り下がった。
そんな華麗に盗み出すなんて、やはりナイチンゲールしか有り得ない。そう思いたい。
奴以外に凶悪な窃盗犯がいるだなんて、考えたくはなかった。
話を聞いている最中はそれに必死で感情が追いつかなかった。
だが、理解し終わってからようやく瞼を瞑る。
――やられたんだ。
私たちは完全に負けた。ナイチンゲールに。
この博物館に警備の目を光らせておいて、今度は逆に市街地での犯行に及んだ。またしても盲点を突かれたのだ。
どこまでが計画だったのか、と以前なら思っただろう。
だが鹿取くんの話を聞いた今――事は全て奴のシナリオ通りに進んでいて、私たちは掌で転がされているに違いない。そう思った。
「なんつー顔してんだよ」
頭上から綺麗な鳴き声が降ってきた。
久しぶりにそれを耳に入れたような気がして、少しだけ泣きそうになった。
ひばりは苦笑してみせると、私の顔を覗き込みながら手を伸ばしてくる。
「そんな怖い顔すんな。捕まえるんだろ、奴を」
とん、とん、と叩かれた頭から熱が流れてくるような気がした。
そのリズムと鼓動が重なって、体の芯が滾る。
『捕まえよう。いつか、必ず』
自分の声が脳裏でこだまする。
その時、ああそうか、と目の前の彼を見上げた。
私はあの時、ひばりに言ったんだ。
彼はとても痛々しくて、傷ついていて、何かに囚われているような気がして。
今の私は、あの日のひばりだ。
そう思ったのと同時に、あの日彼に向けた言葉はちゃんと届いていたんだと安心した。
「絶対、捕まえる」
私たちがどれほど侮辱されたのか。
こんなに大勢で必死に守ってきたというのに、奴は一晩でそれを無に帰した。
なんてことないように。子供の悪戯のように。
どんなに頭がいいのか知らないが、こんな悪事を働く脳みそなど一円の価値もない。
馬鹿にするなよ、と。
自分の中のプライドが叫んだ。
「あれ、なんか違うような……」
最終日も間もなく終わるといった頃。
ピンクトルマリンを少し離れた所から見つめてそう呟いたのは、管理人のおじさんだった。
近くにいた警官が怪訝そうに首を傾げる。
「何が違うんです」
「いやあ、なんというかね。こう、輝きが違うっていうのか……」
どうやら彼には、その宝玉の輝きが鈍って見えるらしい。
いくら事件に精通しているとはいえ、宝石の見極めができるほど警察は万能ではない。
正直素人が見ても、そこにあるのは変わらず美しい薄紅色のお宝だ。
念の為に専門家を呼んで鑑定してもらうことにして、閉館時間を待った。
その後も特に問題なく警備を終え、被害に遭うことなく展示会は幕を閉じた。
展示されていた宝石は丁寧に梱包され、次の博物館へ運ばれる。
業者や関係者が次々と館内にやって来て、素早く作業が進んでいく。
そのかたわらで、専門家がトルマリンの鑑定を行っていた。
「どうです。本物で間違いないですか」
管理人が待ちきれないといった様子で問うのを、「もう少し待ってください」と専門家が制す。
白い手袋をはめ、その宝玉を目から遠ざけたり近付けたり、光に当てて確認してみたり、そんな調子で鑑定が一通り終わったらしい。
トルマリンを静かに台座に置いた男性が、目を伏せて口を開いた。
「――こちらの品はレプリカです」
現場がざわついた。
そんなはずがないと言いたげに、管理人が目を見開く。
レプリカ? 一体なぜ。
運び込まれる際の手違いだろうか。
「馬鹿な……まさかそんなわけが……」
これが偽物だったのなら、私たちはこの四日間何をしていたのか。
本物の何分の一にも満たないそれを、組織を総動員して守っていたというのか。
「やられたのか?」
「いつ盗ったっていうんだよ、ずっと警備はついてたのに」
「じゃあ最初から偽物が展示されてたのかよ」
周囲からそんな声が聞こえてくる。
警備は完璧だった。誰一人として怪しい人影を目撃していない。
盗まれるはずがない。
やはり運搬の時からレプリカが――いや、運搬の時にやられたのか?
「……馬鹿な」
冗談でしょう。
ただでさえ昨晩、奴が悪事を働いたというのに。欺かれたというのに。
その上私たちは、レプリカを「守らされていた」のか?
ルビー、エメラルド、トルマリン。
奴はこの短期間で容易く三つもの宝石を盗み出した。
正体も手がかりも、何一つ掴めていない。
これがナイチンゲールの真骨頂なのか。
私たちは手も足も出ないまま、また奴を野放しにするのか。
無力だ。とてつもなく、無力だ――。
混沌とした現場をおさめられる者は、最早ここには存在していなかった。