懸念
「随分立派ねえ……」
目の前にそびえ立つ博物館に、私は感嘆のため息をこぼした。
展示会は四日間に渡って行われる。
かつてない大規模な警備体制で臨む今回の任務は、三泊四日の予定だ。
「あ、久しぶり」
「きなこ!」
少し遅れてやってきたのは、きなこと蛇草くんである。
どうやら二人もこの任務に駆り出されたらしい。
「ほんとに久しぶりじゃん! 良かったー、知ってる人がいて」
「まあ担当箇所は違うんだろうけどね。宿泊部屋は融通きくみたいよ?」
私たちに用意されているホテルは予算の都合上二人部屋からである。
組織内の女性は特に少ないため、面識のない人と同室にならざるを得ない場合も懸念していた。
とりあえず任務外の時間は気を張らなくて済みそうだ。
胸を撫で下ろし、改めて気合いを入れ直す。
「さ、行きますか!」
ひばりが言いつつ先陣を切った。
それにならって荷物を抱え直し、私は口を開く。
「ねえ。きなこは見たことある?」
「何を」
「ナイチンゲール」
彼女は眉尻を下げて首を振った。
少し間を空けてから、言葉を慎重に選ぶようにして話し出す。
「ネットやテレビで色々情報は拾ったから大体は把握したけど。あげはは見たんでしょ?」
聞き返されて、私はゆるく頷いた。
あの日を境にメディアが取り上げる話題は一変した。
街に出没した謎の影。市民を脅かす怪盗の正体。
世間では、ナイチンゲールがまた暴れ始めたと噂になっている。
「奴がイケメンなんじゃないかとか、実は女なんじゃないかとか、まあつまんない憶測ばっかりだわ。一番つまんないのは何も本当の情報を掴めないことなんだけどね」
「そうだね……」
これだけ調査をしても、何一つ情報が落ちてこない。
自分たちの無力さを見せつけられているようで歯痒かった。
とはいえ、まずはこの任務をしっかり遂行することだ。
運が良ければ再び奴の正体を知る機会が訪れるかもしれない。
「そっちはどう? 警察とは上手くやってる?」
早々に重たい議題をすり替え、きなこが問うてくる。
白く曇った空に視線を投げつつ私はぼやいた。
「それがかなり厄介なのよねえ」
程なくして、展示会初日が幕を開けた。
私は兎束さんと行動を共にすることになり、指示を受けた時は少しだけ安心した。
鹿取くんと組むことにならずに済んだのはかなり有難いが、まだ兎束さんとも完全に打ち解けたとは言えない。
初日は館内の地図を頭に入れることも兼ねて、歩いて回りながら警備を行うようにとの指示だった。
「ママ、マーマ!」
二階に着いて歩いていると、泣き声と共に後ろから軽い足音が聞こえてきた。
振り返る前に、足元にしがみつかれる。
視線を落とすと幼稚園児くらいだろうか、男の子がしゃくり上げて必死に母を呼んでいた。
「僕、どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
腰を落として語りかける。
その子は頬を濡らして何度も頷き、嗚咽を堪えていた。
兎束さんも隣にしゃがみ込み、二人で顔を見合わせる。
博物館に迷子センターはない。受付に行くのが妥当か。
考えてから立ち上がろうとすると、力一杯に手を握られた。
「やだっ、行かないで! ママ、ママどこ?」
置いていかれると思ったのか、切に訴えかけてくる。
私はその子の手を握り返して顔を覗き込んだ。
「大丈夫、一緒にママ探そうね。お姉ちゃん立たないとママ探せないから、手離してくれる?」
「ほんとに……?」
「ほんと。僕、お名前は?」
「ゆきぐみ、たちばなけんとです!」
「じゃあけんとくん、ちょっと歩こうか」
そう促して手を引くが、一向に動こうとしない。
疲れたのかな、と首を傾げて困っていると、兎束さんが口を開いた。
「私が受付に行って説明してくるね。紫呉さんはそばにいてあげた方がいいみたいだから」
彼女の申し出に有難く乗ることにする。
近くに腰を下ろせる休憩スペースがあったので、何とかそこまで誘導した。
兎束さんを見送り、手を繋いだままでけんとくんが泣き止むのを待つ。
少し落ち着いた頃、ようやく手を離してもらえたので、すぐ近くの自販機に走った。
「けんとくん、ジュース飲める? オレンジとぶどう、どっちがいいかな」
かなり長い間泣いていて疲れただろう。
外の気温も暑くなってきたし、室内とはいえ熱中症の危険がある。
けんとくんはぶどうジュースを手に取り、「ありがとう」と言った。
表情も先程より大分和らいできている。
「どういたしまして。冷たいから、ちょっとずつね」
普段からちゃんと愛情をもって育てられているのが分かる、素直ないい子だ。
頭を撫でそうになったが、それはやめた方がいいかなと手を引っ込めた。
私も隣でオレンジジュースを飲みながら、ぼんやりと周囲を観察する。
すると、小走りで辺りを見回す女性に目がついた。
「けんとくん、お母さんじゃない?」
「あっ、ママ!」
叫んで飛び出した彼に、向こうも気が付いたようだ。
駆け寄って再会を喜び合う親子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
母親に何度も頭を下げられ、恥ずかしさが込み上げた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
すっかり元気になったけんとくんに手を振り、親子と別れた後で兎束さんのことを思い出す。
あれから彼女の姿を見ていない。もしかして一人で母親を探しているのだろうか。
入れ違いになっても困るので、少しこの場で待つことにした。
しかし、十五分経っても戻ってこない。
「ちょっと遅すぎるわね……」
仕方なく階段を下りて受付へ向かうことにした。
一応周りを確認するが、それらしい人物は見当たらない。
「あの、すみません。先程一人の女の子がここに来ませんでしたか。私と同じくらいの年齢で、ショートカットの」
スタッフにそう声をかけると、思い当たる節があったらしい。
頷いてから、奥の方を指さした。
「確かにいらっしゃってました。あちらに戻っていきましたけど……」
「ありがとうございます」
礼を言うや否や、私は歩き出した。
やはり探しに行ったのだろうか?
無駄に、と言ったら怒られるかもしれないが、館内は非常に広い。なかなか厄介だ。
一階をざっと回ったが、兎束さんとは出会えなかった。
もう一度二階に上がり、探しがてら携帯を取り出す。
「もしもし、ひばり? いま話せる?」
「おう、どうした?」
「近くで兎束さん見なかった? ちょっとはぐれちゃって」
公的な連絡は無線だが、流石にこれは私的な連絡すぎる。
三階の巡回を言い渡されていたはずのひばりに、電話をかけた。
「いや、見てないけど。この歳ではぐれるって何だよ、迷子でもあるまいし」
「まさに迷子だったんだってば。とりあえず見かけたら教えて」
一方的に言い放って通話を終わらせ、息を吐く。
こんなことなら彼女とも連絡先を交換しておくべきだった。
と、そこまで思い至ってからふと気付く。
そういえばひばりは鹿取くんと一緒にいるはずだ。鹿取くんなら兎束さんの連絡先を知っているかもしれない。
また電話をかけるのも面倒だし、直接話した方が早い。
急いで三階まで駆け上がり、二人の姿を探す。
「ひばり!」
その背中を見つけて思わず大声を上げてしまった。
視線が刺さり、居心地が悪い。
「あれ、結局見つかったのか?」
問いかけてくるひばりを無視し、私は鹿取くんに質問を投げた。
「兎束さんの連絡先分かる? ちょっと電話かけて欲しいんだけど」
「兎束がどうかしたのか」
彼女のことになるとあっさり口をきいてくれるのが今は有難い。
適当に説明し、彼の携帯から連絡を取ってもらうことになった。
しかし、数回かけても繋がらない。
流石に全員で訝しみ、顔を見合せた。何かあったのだろうか。
鹿取くんは渋い顔で舌打ちすると、私たちに端的に吐き捨てた。
「俺はこっちから回って探す。お前らは反対から回れ」
互いに背を向けて走り出し、兎束さんの捜索に向かった。
迷子の相手をしているうちに、彼女も迷子になってしまったなんてオチは遠慮して頂きたい。
ひばりと探し回ったが結局兎束さんは見つからず、どうしたものかと途方に暮れていた時だった。
「紫呉! 兎束がいた、四階だ!」
無線から鹿取くんの声が飛んできた。
切迫した声色から、何か異常があったのだと察する。
急いで向かうと、奥まった狭い場所に人だかりができていた。
嫌な予感がしてそこに駆け寄る。
「すみません、通ります!」
人をかき分けて進むと、桃色の頭髪が見えて息をついた。
兎束さんがいることに相違ない。
開けた視界に飛び込んできたのは、床に一人の男をねじ伏せている鹿取くんだった。
兎束さんは壁際に座り込んでいて、その顔からは血の気が引いている。
彼女のそばに近付いて肩を叩くと、ひどく怯えたようにこちらを見上げた。
「兎束さん、大丈夫?」
「あ――」
「何があったの?」
言葉を詰まらせる彼女に、恐らくここでは話にならないと判断をつけて立ち上がる。
背後からさらに人が押し寄せる気配がして振り返ると、先輩が数人騒ぎを聞きつけてやって来るところであった。
鹿取くんが取り押さえている男を代わりに請け負った警官が、二人がかりで引きずっていく。
その場に残った正探偵が二人。彼らは鹿取くんからひとしきり話を聞いた後、面倒そうに頭をかいた。
「勘弁してくれよ。仕事増やすなって」
「せめて大人しくしてて欲しいもんだな」
面と向かって言ったわけではない。
恐らく彼らの中だけで交わされた会話だったのだろう。
しかしそんな都合は関係ない。
鹿取くんは彼らとの距離を詰めると、その勢いのまま一人の胸倉を掴んだ。
「今なんて言った」
低くドスの効いた声だった。
犯人を捕らえた警官よろしく、切れ長の目で威嚇する。
一瞬怯んだように見えたが、言われた彼も黙っていない。
鹿取くんの腕を掴み、荒々しく声を張った。
「おい、口のきき方に気を付けろ。この手は何だ」
「兎束がこんな目に遭ってんのも見ておいて、よくあんなことが言えたな。もう一回言ってみろ」
鹿取くんはかなり頭に血がのぼっている。通常時の冷静さはそこにない。
軽く話を聞いている限りだと、兎束さんが男に襲われでもしたのだろうか。
彼女は非常に怖がっているように見えたし、性的被害を受けたのかもしれない。
あれほど恐怖を訴えている彼女を見て「面倒だ」と軽率に言えてしまう輩の気持ちが微塵も理解できない。
そうなると、止めに入った状態で睨みつけるのは、必然的に二人組のほうになった。
「一般の方がいらっしゃいますので、早急に場を収めてください」
私が言うなり、彼らは手を放して顔を歪める。
兎束さんが心配だ。
すぐに彼女の元に行って、ゆっくり立ち上がらせた。
抱えた肩は震えている。
「……早く気付けなくて、ごめんね」
どんな役職をもっても、肩書きがあっても、私たちが力で男性に適うことはない。
それをいいことに、好き放題女性を弄ぶ畜生は言語道断だ。
途中でスタッフの人に事情を説明し、特別にスタッフ専用の休憩室に入れてもらった。
「兎束さん、水飲めそう?」
買ってきたペットボトルを差し出し、彼女の様子を窺う。
一言も発さず俯いていた彼女は、前触れもなく涙を零した。
張り詰めていたものが解けたように、次々と大粒の水滴が頬を伝っていく。
相当ショックを受けたに違いない。何をされたかは分からないが、詳しく聞いたところで嫌な記憶を呼び起こすだけだ。
組織の多くが男性を占めているこの状況下で、十分なケアを施せる見込みもない。
物分りがよく理解力のある人も勿論いるだろうが、本当の痛みは女性にしか共感できない時もある。
私は彼女をなるべく優しく抱きしめて、背中をさすった。
何も言わずに、何も聞かずに、ただ泣き果てるまでその体温を享受した。
「しんどかった……しんどかったね……」
耐えきれずに思わず発した声が、空虚な部屋に溶けていく。
桃色の柔らかい髪に顔を埋める。
彼女の涙が心の奥深くに流れ込んでくるようで、心臓が痛かった。




