利己的
盗まれたのは、金額にするとその博物館の中で最も高値なルビーだった。
宝石展を開催していたため、中には他にもまばゆい程の宝玉が展示されている。
しかし犯人はそれには目もくれず、厳重に警備された品物に手をかけた。
今現在、日本にあるルビーで一等美しく価値のあるそれを、犯人は証拠一つ残さず持ち去ったのだ。
当然各メディアでは大きく取り上げられ、数年前のナイチンゲール騒動を彷彿とさせた。
バラエティ番組では防犯対策についての特集が増え、大物タレントは警察に毒を吐く。
「本当にきちんと調べたんですか? 指紋一つないなんて、有り得ないでしょう」
警察に事情聴取を受けている管理人が、不服そうに声を張り上げた。
私たちは例の博物館に赴いて調査を行うことになり、つい先程ルビーが展示されていたはずのショーケースを目に入れたばかりであった。
ケースには一切傷痕もなく、指紋も残っていなかったという。
「ええですから、少しでも手掛かりになることがあればと思いまして」
警察の方もたじたじだ。
仮に今回の事件がナイチンゲールによるものだとすれば、奴が数年前の騒動で逃げおおせたのも頷ける。
ひょっとして、また始まるのだろうか。
世紀の大怪盗との長きに渡る戦いが。
「だーから、硬いこと言わずに通せって」
後方から聞こえた声に振り返ると、鹿取くんの姿があった。
彼はある扉の前に立ち、目の前の正探偵の男を睨めつける。
「ここは警察同伴でないと入ることができません」
「そこら辺に山ほどいるだろ! それとも俺が何か不正するとでも言いたいのかよ」
「山ほどいるなら一人くらい連れて来れば宜しいかと」
険悪なムードで言い合う彼らだが、どうやら鹿取くんが塞いでいる扉の先は関係者以外立入禁止のようだ。
通常時は管理人に許可を取って警察が足を踏み入れる場合がほとんどだろうが、完全に捜査網の敷かれた今ならそこまで厳密に許可を取る必要もない気がする。
「ったく、半人前が偉そうに……」
鹿取くんの主張は正論ではあるものの、少し柔軟性に欠けていた。
確かに硬いと言われても仕方がないとは思ったが、相手も相手でやや感じが悪い。
「この状況なんだから、暗黙の了解ってもんでしょ。通してあげれば良かったのに」
男が立ち去って一人になった鹿取くんに、私は小声で話しかける。
彼は相変わらず眉根を寄せて、こちらを一瞥してから顔を逸らした。
おいおい無視ですか。
反省文の件を通して少し打ち解けられたと思ったが、まだまだ道のりは長そうである。
指示待ちの間、余計なことをしても怒られるので、私はそこに留まって大人たちの様子を観察することにした。
隣から「なぜここにい続けるんだ」といったニュアンスの圧迫感はひしひしと伝わってきたが、知らないふりを決め込む。
「これ、ナイチンゲールの仕業だと思う?」
特に返事は期待せず、自分の思考を整理するために口に出した問いかけだった。
しばらく待っても彼が話をする気配はないので、私は早々に諦めて息を吐く。
「私、あの時見たよ、ナイチンゲール。この目で」
僅かに隣の気配が動いた気がした。
あの姿が本当に大怪盗だったかなんて、あの場にいた誰も知り得ない。
だが何となく、あれはそうだと思ったのだ。理屈ではなく、本能で。
「私、少し前まで幻なんじゃないかと思ってた。ネタ欲しさに誰かがでっち上げたんじゃないかって。でも多分、当時の人も今こんな気持ちだったのかもしれない」
その存在故に探偵という組織は誕生したというのに、どこか頼りなく儚げで、今にも飛び立ってしまいそうな夜鳴き鳥。
しかし私たちだけは許してはいけない。この世界で他の誰が許そうと、私たちだけは。
「……機密組織って、本当にあるのかな」
以前の任務でお世話になった先輩が言っていた話だ。
その時は特に興味もなくて、好奇心も駆り立てられなかった。
でももし、本当に存在するのなら。
私もそこで戦ってみたい。そして捕まえたい。この手で。
「ある」
簡潔に放たれた言葉に、弾かれたように顔を上げた。
鹿取くんは視線を前に向けたまま続ける。
「少なくとも、三年前には存在していた。もう消滅した可能性も否めないが」
どうして、それを。
途切れ途切れに問う。彼は一層眼光を鋭くして、宙を睨んだ。
「父が追っていた。証拠も、解決の糸口も見つからず終いだ。程なくして事件は収束した」
声を出すのも忘れた。
彼は悪夢を見ているに違いない。
父親が苦杯を嘗めた一連の事件が、また始まろうとしている。
懸命に戦った人々を嘲笑うかのように。
彼自身も話してしまったことを後悔しているのか、終始苦い顔だった。
だが貴重な情報だ。かつて存在していたのなら、騒動が活発になった今、必要とされるはずである。
鹿取くんはそれ以降口を閉ざし、足早に私の隣を離れていってしまった。
ちょうど私の方も先輩に着いてくるよう指示を受け、その場を後にした。
「あげは、そっち終わったか?」
西日が眩しくなってきた頃、ひばりが背後から声をかけてきた。
あの時からまともに会話を交わしていないため少し心配していたが、当の本人はそんなものどこ吹く風といった様子である。
「うん、ここの資料片せば終わり」
「俺も今日は帰っていいって。駅まで一緒に行こ」
この場に気軽に話せるのがひばりしかいないというのもあるが、彼と時間を共有している間だけは心が休まる。
一日中気を張っているのはなかなかに堪えた。
二つ返事で頷き、腰を上げる。
「ないわけないだろ、困るよ! どこ行ったんだ、ったくもう」
ボリュームの大きい話し声で遠くからやって来る男に、私は視線を投げた。
見覚えがあるな、と思って数秒で答えが出る。彼は鹿取くんと言い争っていた例の人だ。
「でも上着のポケットに入れてたんだろ? そこに入ってないなら、ないってことじゃんか」
「馬鹿言えよ、なくしたらシャレにならないって!」
彼は同僚らしき男と並んで歩きながら、無くし物を訴えているようだった。
自己管理はしっかりね。他人事全開モードで目を逸らした時、
「あの学生に盗られたんじゃねえの? お前、昼間やり合ってただろ」
彼の隣の男が物騒なことを言い出した。
思わずぎょっとして振り返り、会話の行く末を見守る。
「ちっ。あのガキ、生意気だったなそういや」
彼はそう吐き捨てるなり、思い立ったように歩き出した。
まさかとは思うが、鹿取くんに濡れ衣が着せられているのか。
いても立ってもいられず、私はその男の後を追った。
「おいあげは、どこ行くんだよ」
「ちょっとそこまで!」
「は……?」
怪訝そうに首を傾げるひばりは置いておく。
小走りでその背中を追いかけ、事の顛末を見届けずにはいられなかった。
鹿取くんは手帳に何かを書き込んでいる最中で、近付いてくる男には気付いていない。
「おい、お前」
男は鹿取くんの肩に手をかけると、語気を荒らげて要件を述べた。
「俺の探偵手帳、持ってるだろ。返せよ」
いやあんた、探偵手帳なくしたのかよ――!
身分を証明するために必須のそれを、どうやったらなくせるのか。
肌身離さず持ち歩くことが義務化されているし、管理が甘かったのは完全に彼の非だ。
「聞こえなかったか? 俺の手帳、返せ」
「仰っている意味がよく分かりませんが」
「シラ切るつもりか? お前が俺の荷物置いてある部屋に入ってくの見たって言うやつがいるんだよ」
仮にも正探偵である者が、なんて情けない。
事件であれば証拠をせっせと集める癖に、こんな時には大した根拠もなく人を責めるとは。
その目撃情報が本当だとしても、手帳を盗んだ証拠にはならない。
何を言っているんだこいつは、と鹿取くんの顔が物語っていた。
当然だ。突然詰め寄られたかと思えば、とんだとばっちりである。
「ちょっと頭いいからって、調子のってんじゃないのか。やっていいことと悪いことの分別くらいつく脳みそあんだろ」
「他を当たってください。自分は持っていませんので」
「おい何だその態度は! さっきも思ったけど、お前人のこと見下してんだろ!」
確かに鹿取くんの態度は良いとは言えない。
通常時でそれなのだから、理不尽に怒鳴られている今現在はさらに良くないだろう。
「ったく、警察の連中はこれだから……頭硬くて融通きかないし、こっちの都合も考えずにずけずけと……」
鹿取くんが呆れて言い返さないのをいいことに、男は脱線して文句を連ねる。
彼は警察のことが嫌いで愚痴を零しているのかもしれないが、関係のないこちらまで不愉快だ。
「ほんと、自己中の集まりだよ」
男がそう言った瞬間、私は完全にリミッターが切れた。
ティラノサウルスにでもなった気分で床を踏み倒し、二人の元に歩き出す。
間に割って入り、男を下から睨めつけた。
「な、何だよ」
どもる彼に、私は遠慮なく詰る。
「利己的なのはどちらですか。勝手な決め付けで人を貶めているのはあなたです」
「な――」
「同じ組織の者として今の発言は非常に恥ずかしいです。取り消してください」
警察だからどうだとか、探偵だからどうだとか、馬鹿馬鹿しい。くだらない。
今そんなことを言っていては、目の前の事件一つ解決できないことがなぜ分からないのか。
だからこの組織は脆弱なのだ。己に甘い。甘すぎる。
「おーい、杉本! 手帳あったぞー!」
その呼び掛けに、危うくつんのめるところだった。
頼むから人を疑うのはきちんと探してからにして欲しい。
「わ、悪かったよ」
気まずそうに謝り、彼が逃げ去った。
それを見て項垂れてから、私は鹿取くんを振り返る。
「ごめん」
息をするようにそれは零れた。
勿論自分は悪くないが、あの男と同じカテゴリーに分類されているのが不快で仕方ない。
結局は私も利己的で、自分をよく見せようと必死なわけだけど。
「お前に謝罪される義理はない」
端的に返されたが、無視よりは幾ばくかマシだ。
私は軽く頷いて、余計なお世話だったかなと少し反省した。
「あ、ちょっと君たち!」
唐突に先輩が声を張り上げた。
私と鹿取くんが呼ばれているらしい。見やると、いつの間に集まったのか兎束さんとひばりがいた。
手招きされるがまま駆け寄ると、分厚い資料を配られる。
「これ、よく読んでおいて。次に宝石展が行われるのは他県の博物館だから、君たちにも来てもらうよ」
手短に説明を受け終え、私たちは顔を見合わせる。
「つまり、これって」
「泊まりがけで現地警備……?」
他県となれば、そういうことだ。
現在東京都内で行われている宝石展は、全国をまわる。
次の展示が行われる博物館を、厳戒態勢でナイチンゲールの魔の手から守るといったところか。
「やってやろうじゃないの」
盗めるものなら盗み出してみろ、この鉄壁を打ち破って。