侮蔑
ひばりに掴まれている腕が熱い。
彼の手からもじんわりと汗をかいているのが伝わってくる。
姿は見えないが、確かにいる。
恐らく全ての元凶になったであろう人物が。
「……行かなきゃ」
きっと山口さんも、他の人も上にいる。
上に行かなければ何も分からない。情報がない。
帰るにしたって、まだ正体を掴んでいないままじゃだめだ。
「ひばり。私を投げて」
「は?」
「投げ飛ばして欲しいの。上に」
跳躍力が凄まじいひばりなら、崩れた階段のところまで飛ぶことは容易だろう。
だけど彼じゃ階段を上ってはいけない。だったら、投げてもらって一気に上に飛び移った方が勝算はある。
「な、に言って……」
「お願い」
私は至って冷静だった。
自分でも、なぜこんな土壇場で堂々としていられるのか甚だ不思議だ。
でも恐らく、答えは単純明快で。
背中を安心して預けられれば、人は冷静でいられる。
どうやら自分はそれが、この人だったらしい。
暗闇でひばりを見据える。
藍色の瞳が泳いで、それから私のものとぶつかった。
「――私を信じて」
そう言った瞬間、彼の表情が変わった。
私は立ち上がってひばりから距離を取る。
そして、彼へ向かって走り出した。
踏み切って飛ぶと同時にひばりの腕が伸びてくる。
「ひばり! 頼んだ――――――!」
腰に手が回る。宙に投げ出される。空気が全身を切っていく。
見えない。何も見えない。
しかし一等臭いが強くなった瞬間、私はここだと確信した。
高さが頂点に達し、自分が二階に放り出されたことを認識する。
ケープが両脇を舞い、翼のように重力を受け止めた。
地面に落ちていく間が、やけにゆっくりに感じる。
その空間はほんのりと明るくて、至る所に正探偵の制服が見えた。
足が床についた衝撃で片膝をつく。
面前には、拘束された正探偵がひしめいていた。
「おいおいおい! おい、お前! 何だ急に沸いてきたがってェ、ああ?」
少し離れた所から薄汚い声で罵られるが、そんなことよりも視界に入ってきたものに気を取られた。
一体何人いる。ざっと見ただけで十人はくだらない。
暗くて目視できないが、恐らく奥の方にもいる。
惨すぎる。あまりにも。
体中の感覚が麻痺していた。臭いはおろか、さっき打ち付けた部分の痛みも感じない。
そこまで考えた時、ああそうか、自分は腹が立っているんだ、と思い至った。
――死ぬ程、腹が立っていると。
「ここはな、俺の縄張りなんだよ! 荒らす奴は女だろうと容赦しねぇぞ」
一方的に喚く男に、私はようやく視線を上げた。
汚くて見ずぼらしい。
目が合った瞬間、僅かに向こうの気配が揺れた。
「はっ、なんだお前……よく見りゃ探偵さんじゃねぇか?」
舌なめずりをしてにやつく様子に、吐き気さえ覚える。
男は私に向けて銃を構えていた。
「女の探偵は珍しい。こりゃあいいな」
「黙れ」
自分でも驚く程、低い声が出た。
会話をするにも値しない。だがしかし、このままでは埒が明かない。
私は仕方なく自ら言葉を発した。
「私を殺すの?」
「殺すわけねぇだろ。女は滅多にいねぇからな」
言っている意味が分からない。眉根を寄せた私に、男が続ける。
「教えてやるよ。俺の趣味はなァ、探偵狩りさ! お前みたいな若い女の探偵は貴重だから殺しゃーしねぇ。だーいじなコレクションだからな!」
刹那、喉から胃液がせり上がった。
体が拒否反応を起こしている。気持ちが悪い。
目の前で狂気をまざまざと見せつけられ、こっちの正気が飛びそうだ。
「なに、安心しろよ。抵抗しなきゃ痛くしないさ。ちょーっと縛るだけだ」
狂ってる。頭が。
そんな感想で脳内が埋め尽くされる。
一歩近付いた男を下から睨めつけた。
何が安心しろだ。痛くしないだ。
これだけの人を――殺めておいて。
「そんな顔すんなよ、っと!」
「ふざけんじゃないわよこのクズが!」
突然立ち上がった私に、男は慌てて銃を構え直した。
半歩踏み出し、背筋を伸ばす。
私の態度を威嚇と受け取ったらしい。男はわざとらしく音を立てて引き金に触れた。
「大人しくしてればすぐ楽にさせてやんのによォ」
これは脅迫だ。ここで引いたら負ける。
それに、恐らく相手は撃たない。いや、撃てないはずだ。
殺すことが目的じゃない。それこそ「コレクション」するのが真の目的なのだから。
「撃てばいいじゃない。ほら、どうしたの? 早く撃ちなさいよ」
「えらく強気だなお前ェ。命乞いはどうしたよ」
「あんた矛盾してるわよ。私は命乞いをする必要なんてない、だって殺されないもの。私をコレクションにしたいんでしょう?」
精一杯煽って彼を焦らせる。
勿論、その結果として撃たれたっていい。むしろ、撃ってくれた方がいい。
「てめぇ、さっきからのうのうと、舐めやがって……」
そうだ。腹を立てろ。冷静さを欠け。
目の前の相手を憎め。私に集中しろ。
「あんたがここにいる人たちをみんな攫ってきたのね」
「ああそうだ。揃いも揃って馬鹿ばっかりさ。抵抗しなきゃいいものを、みーんなあんたみたいに騒ぎ立てるからなァ」
「それで殺したの?」
「殺しちゃいねぇよ、まだ息してるさ。コレクションだからな。まあいつまでもつかは知らねぇが」
それを聞いて一つ安心する。
良かった、まだみんな生きてる。早くここから出さなければ。
「お喋りはお終いだ。とっとと手ぇ出せ、縛れねぇだろ」
「あなたはナイチンゲールとは関係ないの?」
「手ぇ出せって言ってんだろこのアマァ!」
一発、足元に銃弾が飛んだ。
しかしそれは威嚇射撃のようで、無傷で済んだ。
もう搾り取れる情報はない、か。
私はそう観念し、ここへ来てから一番大きい声で叫んだ。
「――ひばり、今よ!」
男の背後で窓がけたたましい音と共に割れた。
ひばりは突っ込んだ勢いで男の背中を蹴り飛ばし、そのまま倒れ込む。
銃がその手元から離れて床を滑った。
「あげは! 銃を!」
そう言われたのが先か、体が動いたのが先か分からない。
それを拾い上げるや否や、私は無線機に向かって叫んだ。
「こちら紫呉、犯人と思われる男を拘束しました! 至急警察を呼んでください!」
ひばりが男を押さえつけている間に、ナイフを取り出して一番近くにいた人のロープを切る。
それを持って駆け寄り、男の両腕をきつく縛った。
「くそ、くそっ、くそォォォォ! ガキが! 殺してやるっ! 殺してやるゥ!」
「黙れよオッサン」
ひばりがその顔面に一発食らわせ、口にもロープを噛ませる。
私は黙々と拘束された人たちのロープを切りながら、男に向かって吐き捨てた。
「無駄な足掻きはやめなさい。殺したって罪が重くなるだけよ。……もう十分、重罪だけど」
意味のない文字の羅列しか口走らなくなった男を侮蔑し、視線を戻す。
何とか全員の拘束を解いた頃、ちょうどパトカーと救急車のサイレンが鼓膜を揺らした。
その音に安堵して体から力が抜ける。
壁際に埃がかかったままの梯子を見つけ、それを階段のところに固定した。
これで何とか上り下りはできるだろう。
「……紫呉、さん?」
唐突に呼ばれた声に、聞き覚えがあった。
私はその声の主の側に駆け寄る。
「山口さん、目が覚めましたか! 私です。紫呉です。いま警察と救急車が来ましたから、安心してください!」
「そう……」
彼女は憔悴しきっていた。
力なく握られた手を、強く握り返す。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
震える声で必死に訴える彼女に、私は首を振った。
堪えきれずに出た涙が、右に左にと散る。
大丈夫だ。握ったこの手は温かい。
間に合った。誰も死なせずに済んだ。
守ったこの温度を、もう二度と失わせてなるものか。
「山口さん、私、頑張りました……」
身勝手だったけれど。隣にいる人を振り回してしまったけれど。
沢山恥をかいて迷惑もかけて、失敗して。でもそれは今、私の糧になっている。
ああ私、ようやくこの手で捕まえたんだ――。
「警察だ! 犯人はどこにいる!」
下から野太い声が聞こえて、ひばりが叫び返した。
「上です! 二階です!」
そこからは怒涛のようだった。
すっかり抵抗する気の失せた男を警官が連れて行き、次いで救急隊員が押し寄せる。
怪我人の搬送が終われば、すぐに警察の現場捜査が始まる。
半ば追い出されるような形で外に出た私たちに、きなこと蛇草くんが駆け寄ってきた。
「二人とも無事ね!?」
「本当に良かった」
初めて労われて、危うくまた涙が出そうになる。
ぐっと唇を噛み締めた時、二人の後ろから一人の男性がこちらに向かっているのが見えた。
それに気付いた蛇草くんが振り返り、きなこの腕を引っ張って私たちの横にそれる。
すると、三人は皆一様に頭を下げて「お疲れ様です」と声を上げた。
遅れてそれにならうと、その男性は「構わん構わん」と頭を上げさせる。
「君たちが今回の案件の担当者か。御苦労だった」
「いえ、僕たちは……」
「何、謙遜するな。お手柄だ」
「ありがとうございます、県部長」
ひばりのその言葉に、私は内心悲鳴を上げた。
県部長ですって? そんな偉い人だったのこのおじさん!?
県部長はその名の通りだが、県内の探偵事務所を統括している。
そこまでの重役がわざわざ赴くほど事が大きかったのだと今更ながらに痛感した。
どうしよう、さっきの無礼を詫びるべきか、などとつらつら考えていた私の思考を止めたのは、県部長その人だった。
「いやそれにしても何事もなくて良かった。無事に解決したようだ」
なんてことないような口調だった。
まるで公園で遊んでいた子供がブランコから落ちて、その後に発せられた台詞かのように。
何事もなくて良かった? 無事に解決した?
どこがだ。
怪我人が出た。あわや殺人事件になるところだった。
今までに何人の人が攫われ、恐怖に怯え、今日まで耐えてきたと思っているのか。
今日「何事もなく無事に終わった」と言っていいとすれば、それは私たちだけだ。
自惚れでも何でもない。私たちがここへ来てカタをつけたから終わりを告げたのだ。
それを、今の今まで安全な事務所で高みの見物をしていた者がふらりと現れてなんだ。
お手柄だって? 馬鹿にするのも大概にして欲しい。
「――本気でそう仰ってるんですか?」
俯きながら拳を握りしめる。
ひばりがそれを上から掴んだ。やめろ、と。言われているのだと思った。
「あなたの部下が目の前で救急車に運び込まれているのをご覧になりませんでしたか? 現場の惨状は?」
脳の奥で警告が鳴っている。
自分の理性がブレーキをかけようともがいていたが、どうにも口はとまらなかった。
「なぜお手柄になってしまったか、ここまで大事になってしまったか、分かってらっしゃいますか? 対処が十分でなかったからです。あなた方の認識が甘かったからです」
何も、言わないのか。何も。
顔を上げて目の前の相手を見つめるが、一向に表情は変わらない。
それが悔しくて、私は尚も言い募った。
「私たちは――駒ではありません!」
目頭が熱くなって、マズい、と顔を伏せる。
「私たちは人間です。意思があります。尊厳と自由があります。一人の、探偵です」
当たって欲しくなかった予感が、最悪のタイミングで当たった。
こんな上層部が私たちを蔑ろにしていたのか、と根底から怒りがわいてくる。
「もし、……ここにいる全員が命を落としていたら、どう責任をとるおつもりでしたか。それほどに事は深刻でした。それを認識して下さっていないのが、私は非常に残念です。心の底から」
ここで言い逃げするのは負けたようで、そのまま立ち尽くした。
地面に目から溢れる水滴が吸い込まれていく。
誰も何も言わずに沈黙が落ちる。
その重い空気を切り裂いたのは、全く関係ない人物だった。
「はは、君、勇ましいね」
嫌味だと分かる声色は、警官のものであった。
彼は県部長の肩を叩くと、大袈裟にため息をつく。
「真壁、頼むよ〜。こんなことに巻き込まれたらたまったもんじゃないよ、警察だって暇じゃないんだから。あんたら関連の案件くらい、そっちで片付けて欲しいね」
遠くから「萩本警部」と呼ばれた彼は、それに適当に返事をして、私たちの方に視線を投げる。
そしてひばりをじっと見つめると、「あれぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「君、万年青さんとこの息子だろ? どう、お父さんは元気?」
傍から見ていても、それが揶揄っているのは感じ取れた。
どうやら彼は人の逆鱗に触れるのが得意なようだ、と脳内で評価を下す。
「…………お陰様で」
そう返したひばりの横顔は、侮蔑に満ちていた。