第十九話「傷2.」
「どうかした?」
「……いえ、どうしてもいませんよ?」
なんとも言えない顔の辰馬。
こんな事は初めてだ。
いつもの笑顔では無い。
曇りが掛かって不明瞭だ。
暫くの間の後、辰馬は口を開いた。
「ですが……そうですね。少しだけ、席を外させて頂いても、宜しいでしょうか?」
「え」
いつも違う雰囲気の上に、珍しいどころか普段の辰馬なら有り得ない要求に、驚きを隠しきれない蝶華。
いつもなら、離れろと行っても付いてくるのに、あろうことか自分から進んで離れろ言って来たのだ。
何かもかも初めての出来事で、戸惑ってばかりだ。
「駄目でしょうか?」
その問いに、蝶華は悩んだ。
この執事の事だ。
行くな、離れるな、側にいて、一緒にいて。
そう言えば、きっと離れないで側にいて、私を安心させてくれる。分かりきった事だ。
それが辰馬なのだから。
しかし……。
「……いい、わ。行っていいわ」
敢えて、引き止めなかった。
何時も私の我儘に振り回されているのだ。偶にくらい、彼の小さなお願いを、聞き入れて少しでも労いたい。
そんな思いから出た答えだ。
「いいのですか?」
辰馬は少し驚いた様な表情をした。
意外と、思ったのかも知れない。
何時も理不尽とまではならないかもしれないが、我儘な蝶華が、よしと言ってくれたのだ。
「いいのよ。さっさと行きなさい」
震えそうな声を必死に堪えながら、蝶華は目を合わせず答えた。
「ありがとうございます、お嬢様」
何時もの笑顔で、辰馬は席を外す。
身長180cmを超えているであろう巨体が立ち上がり、踵を返し襖を開け、広間を後にする。
蝶華は俯いたまま、浴衣の裾をギュッと握った。
ピシャリと襖が閉じる。辰馬の姿は消えた。周りの声や音が徐々に遠くなる。迷惑な程近くにいる筈なのに、辺りの存在が意識から離れていく様な感覚が、蝶華を襲った。
先程まで悪くない居心地だったのに、彼が少し側から離れただけで、もう駄目だ。不安で仕方が無い。
何時も見えないところでも、私を見守ってくれていた彼が、自分から私から離れて行った……もしかしたら、またどこか変なところで隠れ見ているのかもしれない、視線を感じないだけで、気配を殺し、私を見ているのかもしれない。いや、そう思う。そう思いたい。そう思いたい……。
(……辰馬)
辰馬が席を外してまだ一分弱。
早くも寂しさで、蝶華の身体は押しつぶされそうだ。
*****
「……」
死音は、暗がりの廊下を一人、歩いていた。
無表情で……いや、少し顔を顰めて歩く。さっきまでの下品な笑顔とはまるで変わって、右腕を左手で握り締め、唇を噛み、疼きに耐えている。
「……はは」
力無く乾いた短い笑い声が、静謐な廊下に虚しく響いては消えた。
死音は窓を開け、外の漣に耳を傾ける。
心地よい波音が流れ、押し引きする波が砂浜を徐々に洗う。
「なかなかドS、ですかね?」
不意に背後から声がした。
聞き覚えのある、憎たらしい綺麗な声。
この痛みの元凶。
「辰馬、か」
死音は振り向かず、外を眺めたまま、声の主に返事をした。無関心で無機質な、力の無い返事を。
「痛むのですか?右腕が」
その辰馬の問いに、死音は少しだけ笑みを浮かべた。
少し前なら、怒り狂って掴みかかるところだったが、今となってはもう、そんな感情は薄らいでいた。
死音は振り向き、辰馬の顔を見つめた。
「……そうだ、と言ったら、何か言うことは、あるか?」
そう問うと、
「御自愛ください、御大事に、と言いましょう」
と、笑顔で辰馬は答えた。
屈託の無い、綺麗過ぎる笑みで。
死音は短く笑った。
予想通りの返事が来たからだ。
「ははっ、やはり相変わらずだな」
「……いえ、お陰様です。音村様」
「だから音村様はやめろ気色ワルイ。昔の様に、死音様とでも呼べ」
「……はい」
「で、何しに来たのだ?鬼畜よ」
「……腕の事をーー」
「嘲りにでも来たのか?」
死音が遮る様に、強く言った。
「勘違いするな、決して怒りを覚えて言っている訳では無い。ただ、貴様のまどろこしい態度が気に入らないだけだ」
「……何時もと変わらない筈ですが」
「そうだ何時もと変わらない。吾輩に対する態度だ」
辰馬は黙った。
この論戦が、自分に部がない事を察してたのだ。
そんな辰馬を、死音は鼻で笑い、歩み寄る。
「やはり、後悔しているのか?」
「いえ」
「だが、許嫁殿には言えぬのだろう?」
「……」
「吾輩から言っても良いぞ?」
笑みを浮かべながら死音。
「あの人を傷付ける事は、許しませんよ」
表情は変わらないが、辰馬は強く返した。
「……貴様は決して、恥じる事はしてい無いぞ」
「……は?」
素直に驚いた。
死音からそんな言葉が出るとは、思いもよらなかったからだ。
冗談を言っている感じでも、嘘を吐いている様でも、ましては気を遣っている様子でも無い。
本当に、本心からの言葉だった。
「貴様のあの行いは愚行はあるが、間違ってはい無い。だからこの件を話したところで、許嫁殿は別にーー」
「あの人は」
辰馬は死音の言葉を遮る。
下を向いて、俯きながら続けた。
「あの人は……優しい方だから……この話を耳にすれば、きっと……」
「気を悪くすると?」
「……ええ」
「そうか、そうなのかな?……」
と、一人ぶつぶつと呟き始めた死音。
辰馬はもう、何も話したくなかった。
これ以上この人と二人きりで居ると、訳の分からない感情に押し潰されてしまいそうだ。
怒り、悔しさ、憐れみ、悲しみ。
今すぐにでも殺してやりたい、けど、自分の無力さを悔やみ、だが、死音から命よりも大切な物を奪ってしまった事への憐れみ、もう、全てが悲しい。
いっそ、腰の刀で、腹を掻っ捌いて死んだ方が、楽ではないかと、随分長い間思っていた。だが、そう思い詰めて刀の柄に手を伸ばそうとする度に、蝶華の顔が過る。
自分が死んだら、誰があの人を守るんだ?
世界で何よりも愛しい、あの人を、一人ぼっちには出来ない。
だから生きている。
この苦しみを一生背っても、あの人を守る為に、僕は生きている。
「……ま……辰馬」
「……あ、はい?」
不意に……いや、自分が聞いていなかっただけか。死音の問いに反応できなかった。悪い癖だ。
あの人を想うと、他が疎かになる。
「何を考えていた?」
「いえ、何も」
「まぁ想像はつくさ。貴様らしいではないか」
死音は辰馬に歩み寄り、少し、悲しい目をして頬の傷を嬲った。
「吾輩も貴様もこの傷が無ければ、きっと昔と変わらずにいられたのだろうな」
辰馬は、何も返せなかった。
自分自身も、昔のままでいたかったのだ。
昔のままで、蝶華の執事になりたかった。
「傷」が、全てを狂わしてしまったのだ。
辰馬の事も、死音の事も、そして、蝶華の事も。
「まぁ、過去の事はとりあえず置いて置こうでは無いか。今は夏の宴を楽しもうぞ」
そう言うと死音は辰馬を横切り、皆のいる部屋へと戻って行った。
一人薄闇の中、辰馬は唇をきつく噛み、心に絡み付くこの重い思いに耐えていた。




