第十八話「傷 1.」
人には誰でも見えない傷がある。
続きます。
「何か用?」
「いえ、特には。ただ、私めはお嬢様の執事でございます、常にお嬢様めに寄り添い、付き添うのは当然の責務です」
責務、その当然の言葉に何故か少し残念な気分になったのを不思議に思いながら、蝶華は辰馬の方を見る。
いつも変わらない上から下までかっちり黒で固められたダークスーツ、綺麗に磨かれた眼鏡、肌は男のわりにはかなり白いが、頬の大きな傷痕が、ある意味ただ者では無い雰囲気を醸すが、本人はいつも仏の様な笑顔を振りまいているから、不思議と怖い印象はしない。
強いて言うなら、蝶華に対し、かなり変態なところが、この男の恐ろしいところかと思う。
だがそれでいて優秀だから、彼のことを悪く言う者はあまりいない。
「……そうね、そうだわ」
何がそうなのか、よく分からなかったがとりあえずそう返した。
少し歯痒い様な気分だ。何故かな?
「わはははっ!聞けぃ家畜共」
またまた周囲の迷惑も考えない大声が……。
「貴様らの前戯!なかなか良いモノであったぞ!そこで、貴様らに褒美をくれてやろう!」
舞台の上から高らかに叫ぶ様にして言うと、舞台の袖から召使い達に黒のピアノを引っ張り出させ、ピアノの前に座った。
鍵盤蓋を開けると、よく手入れされた、真っ白で美しい鍵盤が現れた。
「今から貴様らに、吾輩の華麗なるピアノの音色を見せてやろう!」
音は見える物では無い、と言う単調なツッコミの気持ちを持つ者はいなかった。
決して死音に呆れてとか、そういう意味では無くだ。
本当に、見えるのだ、音が。
勿論、現実に音符の様な物が目に映る訳では無い。
「では、荒々しく、弾いてやるぞ!」
子供がはしゃぐ様に、両手をおもむろに広げ、ワキワキと指を動かすと、静に鍵盤の上に指を置いた。
この数秒の間に、場の空気が一転した。
しん、と、張り詰めた様に空気が静まり、全員の視線が死音に向けられた。
皆、餌を利口に待つ従順な忠犬の様に、固唾を飲んでその時を待った。
最初はゆったりとした音符が流れてきた。
次はやや早めの音の羅列が走る。
その次は荒々しい鋭利な爆音が鼓膜を刺す。
かと思えば、長閑な草原を彷彿させる緩やかな、暖かい音色が心地良く、耳に入ってくる。
ふと、気付いた時にはもう、死音の奏でる旋律に弄ばれる様に、その場の全員が魅せられていた。
流石は、音村家の人間であるだけの事はある。普段の言動がアレでも、やはり、類稀ない才能の持ち主なのだ。
蝶華も少しはピアノも嗜むのだが、こればかりは死音に敵わない。
昔から彼は、ピアノだけは非凡な才能を発揮していた。
普段の素行から想像も出来ない、繊細で滑らかで、優しくて美しく音色。
ふと眼を閉じれば、死音のピアノに合わせて、天女が舞っているかの様な……そんな妄想も、無意識に過ぎらせさせてしまうほど見事なばかりである。
朝な夕な聴き続けても、苦にも感じないだろう。
(あぁ……コレだけは、コレだけは負けるわぁ……流石ね)
蝶華は心の中で思った。
彼のピアノを聞く度、練度は増すばかりでその都度、その音色に魅力され続けていた。今回も例外では無い。だが、
ふと、突然と、ぶつ切りに、音が止んだ。
ピアノが奏でていた静寂は、人々のざわめきに掻き消された。
急な出来事に、蝶華も戸惑う。
当の本人はピアノの鍵盤に触れたまま、微動だにしない。
「あの……」
近くに座る男が、心配して死音に声を掛けると、
「わははははっ!なーんてな!どうした家畜共、心配でもしたか?その辛気臭い顔が見たかったのだ!わははっ!」
と、人の親切心を真っ向から躊躇い無く踏み躙る。
周りの皆は怒り心頭、怒号の嵐……かと思いきや、思いのほか怒りの声は上がらない。
皆冗談かと分かると、ホッとした様に笑い出した。何時もの悪ふざけだと。
「では、吾輩の余興はここまでだ。後は皆で好き勝手にランチキ騒ぐ事だな」
と、言うと、死音は足早にピアノから離れる。
周りはすぐ先程と同じ様に、宴を続け始めた。
再び賑やかなざわめきを取り戻した中、忙しい音に包まれながら蝶華は少し、妙なつっかかりを覚えた。
(……なんなのかしら、アイツ……なんか普段のアイツとは、なんか違う感じが--)
「お嬢様」
「えっ?」
「大丈夫ですよ」
「な、何が?…」
「音村様の事、心配なのですよね?」
「うっ……」
見透かされた様な言葉。
多分、また心の声が声となって漏れていたのだろう。
辰馬は笑顔のまま続ける。
「大丈夫ですよ、きっと」
「え?」
その答えに、蝶華は違和感を覚えた。
言葉そのものと言うより、辰馬の呼吸、抑揚、声量、トーン、表情、仕草、それらの僅かな、微妙な変化の違いに、消化不良の感覚を覚えた。
いつもなら、自信のある様な、隠し様の無い澄んだ笑顔で答えるのに、今の辰馬はどこか、頼り無い。何か隠している様に見える。
「……辰馬?」
「はい?」




