いろは歌三章・うゐのおくやま けふこえて
夏休みも終えた秋、九月。
海の日常にあれから然したる変化はなかった。
強いて言うなれば――一人増えた。
〈いや、まさか巧が幽霊になって海の傍に居るとは……〉
〈類さん、あなたも幽霊ですからね?〉
そう、類も幽霊となり、海の傍にいる。
もちろん海にも見えている。
「類さん、巧さん、何度そのやり取りをすれば気が済むんですか」
〈さて、何度だろうな。すでに正確な回数が分からない以上、数えることは不可能だ〉
〈いや、これで十三回目ですよ〉
「巧さん、数えていたんですか……」
〈まあね〉
なんともまあ、無意味なことを。
海はそう思った。
暇人め
類はそう思った。
三ヶ月。すでにその短期間の間に、海の慕いし人物二人が死亡し、幽霊となり海の傍にいるというありえない非日常を、海は日常と感じていた。
海の感覚を異常と言うのだろうか。
いや、それも可笑しいな。言葉にすれば、慣れだろうか。
海はすでに、非日常に慣れてしまったのだろう。
この幽霊二人、霊感者が見れば見えるだろう。
しかし、海に霊感はない。第一に、幽霊というものを認識していない。意識していない。いないものだと、認識していた。意識していた。
だか、これは海にとってはいいことなのかもしれない。
慕いし人物が、傍にいてくれるという、安堵感。
幽霊であろうとも、二人は生者と同じように笑い、怒り、泣き、喜ぶ。喜怒哀楽。感情が存在する。
海はこの非日常を、無意識に、無くしたくないものと感じているのだった。
* * * * *
某日某所、十月。日曜日の朝。快晴。木の葉が赤く染まり、緑の山を橙にする。因みに制服は冬服に変わった。
「見てください。綺麗な椛ですよ」
海は一人、いや、正確には三人で近所の山に来ていた。
紅葉が赤々と太陽の光を浴びて光る。その他の木々、銀杏なども咲き誇る、ちょっとした有名な山で観光客も多い。そんな山に、海は来ているのだ。
親の了承を取り、軽いハイキング気分。
弁当も持参し、地図など必要としない近所に山に、リュックサックを背負って歩く。
〈まるで長い休暇気分だな〉
〈そうですね〉
「明日は私、学校ですけどね」
私だけ休みじゃありません。
海はそう主張するも、二人には軽く流された。
〈久しぶりだ、こんなにゆっくりしたのは〉
「類さんも巧さんも、忙しい方でしたからね」
〈でも、講義は結構楽しかったよ。もちろん高校での授業もね〉
そう言い巧は笑う。それに類も頷いた。
今となっては昔の話だが、天才と謳われた類、秀才と謳われた巧は四六時中仕事に追われていた。類は大学の授業、自らの研究、高校での授業、休む間もなく仕事をしていた。そして、それをサポートしていたのが巧なのだ。
なので、二人にしていれば死んだが代わりに自由を得た、と言う言葉が一番当てはまるだろう。
* * * * *
数時間歩き続けた。
しかし、三人で話しながらの登山だった為、海は苦痛には感じていない。少々疲れてはいるが。
そして、勿論のことだが幽霊二人は疲れなど感じていない。ふわふわと浮いているだけだから当たり前だが……。
「そろそろお昼にしましょうか」
腕に填めてある時計は、十二時少し前を示していた。
周りも紅葉だらけで紅葉に囲まれた場所で、絶景と現すには丁度いい。赤々とした葉が、海たちを取り囲む。
「ここ、この紅葉の木にしましょう。下も平らですし」
〈そうだな〉
〈そこでいいと思うよ〉
一つの紅葉の木。下は葉が少々落ちており、周りの葉も集めれば小さなベッドが出来るほどだ。
しかし、それはあくまで周りの葉を集めた場合であり、今はほんの少し、地面の茶色が顔を覗かせている。
そんな場所を指差した海に二人も同意する。
海はリュックの中からビニールシートを取り出し、椛の木の下に曳いた。もちろん風などに飛ばされないように四方に石を置く。そしてそこに持参した弁当と水筒を置く。
「いただきます」
勿論ながら、人数は一人分だ。
「何だか、不思議な感じですね」
三人いるのに――この言葉は続かなかった。
「お譲ちゃん、誰と話してるんだい?」
観光客だろう六十代くらいのお婆さんに、海は聞かれた。
それに海は、いいえ独り言です。と言って誤魔化す。それに納得したのか、お婆さんは先に進んだ。
赤に囲まれた木の中に、お婆さんの相方だろうお爺さんが立っていた。そして二人はそのまま赤の中に姿を消す。
そこで、海は気付いた。
「(なんで、霊感のない私に二人が見えるの……?)」
この、非日常に、異常に、気付いた。
霊感のない自分が幽霊である〝二人だけ〟を見える異常に。
「――ご馳走様」
箸を置く。弁当はすでに平らげた。
それをそそくさと片付け、シートを畳む。そしてそれらをリュックに入れる。
「先、行きましょう」
海の言葉に、二人は肯定の返事を返すのだった。
* * * * *
その日の夜、海はベッドの上に仰向けになり、両腕で目を塞ぐ。
目を閉じれば、繰り返されるのは昼間に会ったお婆さんの言葉だ。
――お譲ちゃん、誰と話してるんだい?――
「(ああ、そうか)」
――私の所為だ。私が二人の死を認めなかったから、二人をこの世に引き止めてしまったんだ。
海は、そう思う。
そして起き上がり、傍にいた二人に向き直る。
「類さん、巧さん、ありがとう」
〈? 急にどうしたんだい?〉
「私、もう大丈夫です。ちゃんと、認めます、向き合います。嘘じゃありません」
〈……私達がいた理由に、気付いたのか〉
「はい。私、二人のこと、凄く尊敬してました。慕っていました。だから、その思いでもう立っていられます。ありがとう」
片方の目から、涙が零れた。
〈なら、僕らの役目は終わりですね、類さん〉
〈ああ。じゃあ、またな、海〉
〈またね、海ちゃん〉
「はい、また。類さん、巧さん。
――ずっと慕ってます」
そして突然二人が消えた。
いや、見えなくなったのだ。
「私、もう大丈夫です」
海は一人になった部屋で、両方の目から涙を流した。
計らいごとを今日越えよう。
有為の奥山 今日越えて