いろは歌一章・いろはにほへと ちりぬるを
いろは歌とは、音の異なる仮名を四十七文字の歌から成る手習歌の一つである。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
* * * * *
四月、薄桃色の桜が咲く春のとある土曜日。
夕暮れ時、一人の少女が買い物籠を持って河川敷を歩く。
周りには人っ子一人いない。
「お母さんに頼まれたのはこれで全部だよね」
少女の名は――海。
つい先日、交通事故に巻き込まれかけ、大事な友人を亡くした。
「巧さん……」
ポツリ、と亡くなった友人の名を呼ぶ。
もちろん返事などあるはずはない――
〈どうしたの?〉
こともなかった。
「いいえ、呼んでみただけです」
〈そっか〉
海に霊感があるわけでもない。しかし、巧だけは見えた。
しかし、海の通う高校にいる教授――類には見えなかった。
大事な助手兼友人の姿が見えなかった。
「巧さん、見てください。綺麗な花ですよ」
〈そうだね〉
河川敷に咲いた一輪の花。
花びらは中心が白く、外側が赤い、綺麗なコントラスト――ではなく、その間が桃色に染まった、綺麗なグラデーション。そして緑色の茎や葉。
海は顔を近づける。
「いい香りもします。何の花でしょう?」
〈僕は香りは分からないし、そういうのは専門じゃないから花の名前も分からないね〉
「……使えないな」
ぼそりと小声で呟く。
因みに巧――というより類の専門は数学だ。
〈何か言ったかい?〉
「いいえ、何でもありません」
そう言い巧みに笑顔を向け、花の横を通り過ぎる。
ひらり、一枚の花弁が散った。
* * * * *
翌日の日曜日、海は昨日の河川敷にいた。
「辞書にも載ってなかったな、この花の名前……」
〈そうだね〉
「――巧さん、急に背後から声をかけないで下さい」
〈おっとごめんよ。――僕もこの花が気になってね〉
不思議な花だ。巧はそう言った。
現在浮幽霊である巧は様々なところを飛び回っている。
本人もその生活を気に入っているようで――まあ、お腹も減らない、疲れない、どこにでもいける状態なので、その生活を気に入る理由も理解できないこともないが――でだ、それを利用し、巧は様々なところに行っているが、特に海の傍にはよく来る。
可愛い後輩であり、生徒であり、友人であり、話し相手でもある海の傍が、一番落ち着くのかもしれない。
〈何か、儚い花だね〉
「(儚い花か……。
じゃあ折角だし――)」
海は携帯を手にする。
「一枚、撮っておこう」
カシャッ、携帯のカメラ機能独特の音がした。
手に持つ携帯に、その花が映し出される。
「保存っと」
そう言い海は、花の横を通り過ぎた。
ひらり、また一枚の花弁が散った。
* * * * *
翌日、月曜日。海は学校に向かう。
今さらだが、海は高校二年生だ。高校はとある大学の付属校。
因みに類は、本職はその大学の教授だが、よく高校に顔を出して授業をやっている。寧ろ、類の授業がすでに時間割に組み込まれている。しかも勝手にだ。それを知った時の類の顔は見物だったと、後に教えた生徒――海は語る。
「えー、皆さんにお話があります」
今日は全校集会がある。話は――巧の死についてだ。
「先日、大学教授――雪宮先生の助手を勤めていた時原先生がお亡くなりになりました」
ざわざわとざわめく生徒達。落ち着いている者は知っている――というより、巻き込まれかけた海と他十数名といった、全校生徒六百三十二人のうちの、たったそれだけ。
ある者は泣き、ある者は呆然とし、ある者は誰かと話す。落ち着きが全く無い。
しかし、それは考えても見れば当たり前のことだった。
類に引っ付いて高校に顔を出していた巧みは、その性格の良さからも生徒に人気があった。
――別に類に人気がないわけではない。類は類で人気者だった。
「それについて、雪宮先生がしばらくお休みされることになりました」
「え……」
こぼれた海の声。しかしそれは、生徒のざわめきに掻き消された。
「(類さん、しばらく休みなんだ)」
しかし海の反応は、周りのざわめきに比べると、その程度――その驚きは少なかった。
* * * * *
昨日、一昨日と通った河川敷で帰り道を歩く。
河川敷にしたのは気まぐれ――というより、あの花が気になっただけだ。
河川敷を通っての自宅までの距離を時間にすると、最短ルートより十五分ほど時間が掛かる。しかし、海は時間はあまり気にしない。それほど体力を消費するわけでもないので、気にする理由がないのだ。
「――あれ?」
そこで海は、変化に気付く。
それは、些細な変化。
「何だか、小さくなった?」
身長の話じゃない。花の話だ。
あの綺麗な花が、一回り小さくなっている気がする。
「気のせいかな」
海は、花の横を通る。
ひらり、ひらり、花弁が散った。
* * * * *
某日某所――ではなく五月の終わりの土曜日、河川敷。
あれから一ヶ月。巧はまだ見える。類はまだ学校に来ない。
「花、随分小さくなりましたね、巧さん」
〈そうだね〉
バラの様に取り巻いていた花弁は、残り四枚。
「お前も、逝くの?」
海は花に問いかける。どことなく。淋しげな声だった。
花は答えるように、ひらり、ひらり、ひらり、ひらり、花弁が全て散らした。
花の命は、今散った。
残されたのは花弁のない茎。
花の存在を証明するものは、海が撮った携帯の写真だけ。
どんな綺麗で香るものでも、何れ最後は散りに逝く。
色は匂えど 散りぬるを




