守護の天使と滅びの魔王
かつて、人類は今よりも遥かに高度な文明を築いていました。人類はその文明によりあらゆる物を作り出し、繁栄の極みに到達していました。
ところがある日、世界に魔王が現れました。
魔王は圧倒的な力で文明を破壊していき、人類は大きく数を減らしていきました。
やがて人類が滅亡する寸前になった頃、天使様が現れました。天使様は神の遣いで、世界を救うために現れたのです。
天使様は神の力を用いて、魔王を倒しました。魔王は天使様の力で封印され、世界には再び平和が戻りました。
そして天使様は自分の周囲を時間ごと凍結させ、長い眠りにつきました。魔王が再び復活し、世界が危機に陥ったときのために。
広く薄暗い空間に、男が一人跪いていた。恭しく頭を垂れたその姿は、敬虔な殉教者めいた気配を感じさせた。
男は静かに、つぶやくように詠っていた。それは賛美歌だった。かつて世界を救いし『天使』の伝説。それを称える祈りの歌。
子供の頃から何度も聞かされ、最早完全に覚えてしまい、未だ忘れることのないその伝説を、男は久しぶりに口ずさんだ。これを口にするのは、果たして何年ぶりだろうか……。
伝説を詠い上げた後、男は顔を上げた。
彼の瞳に微かな光が差し込む。視線の先には、『天使』の姿があった。
五00年以上もの昔に地上に降り立ち、魔王を討伐せしめた神の御使い。『彼女』は伝説にある通り、眠り続けている。恐らくは、五00年前と変わらぬ姿で。
『彼女』の周りの空間はうっすらと光を放っていた。それは伝説によれば、時間ごと凍結された空間であるという。恐らくは彼女が時間を凍結させたときに、空間に差し込んでいた光も取り込んだのだろうと言われている。
真実のほどは定かではないが、なんにしろ絶対不可侵の光の殻に守られたその姿は、『彼女』の神々しさをより一層引き立てることに一役かっていた。
滅びの危機から立ち直るために人類がまず行ったこと。それは『彼女』を奉る神殿を建てることだった。『彼女』が眠りについた地に『彼女』を祀る神殿を作り上げ、人類は復興の守り神として『彼女』を崇めた。
――もっとも、それも今となっては過去の話だが。
彼は嘲るような笑みを浮かべた。笑みを浮かべたまま『彼女』へと手を突き出し、光を放つ。
光は一直線に『彼女』へと迫り――そしてなにも起こさずに消えた。
無駄であることはわかっていた。今まで何度となく、それこそ夜空の星の数ほども繰り返してきたことだ。今更違う結果が出るとは思えなかった。
それでも、彼はそうせずにはいられなかった。
「天使よ! なぜ目覚めない!」
叫び、何度も何度も光を放つ。
それは一つだけでも小さな村をまるごと焼き払えるだけの威力を秘めた攻撃だったが、ことごとくが『彼女』に届く前に消え失せた。
わかっていたことだ。『彼女』の封印は外からは決して解けない。
時間が凍結された空間はあらゆる物を寄せ付けず、どれだけ外から力を加えようが無駄なのだ。
「なぜだ! なぜだ!」
放たれた光の威力は、既に一国を消し去るに足るほどのものだったが、やはり『彼女』は何事もなかったように眠り続けていた。
やがて太陽が昇り、再び沈むほどの時間を費やしてから、ようやく彼は攻撃をやめた。
「やはり俺では、足りないのか……」
彼はつぶやいて、その場にくずおれた。
ゆっくりと、胸の内から絶望が染み出してくる。薄々とは感じながらも感情で無理矢理否定し、目を逸らし続けてきた現実に、とうとう捕まったのだ。
彼の脳裏に、懐かしい記憶がよみがえってきた。今ではない時間の光景が目の前に広がる錯覚に陥る。
一人の『少年』が『天使』を見上げていた。少年は信仰と呼ぶには少々相応しくない感情を浮かべ、『天使』を見上げている。
『少年』はこう思ったのだ。
『彼女』の動いている姿を見たい。『彼女』の声を聞きたい。『彼女』に触れてみたい。『彼女』を、自分のものにしたい。
『少年』は『天使』に恋をした。
それから『少年』は『彼女』の封印を解く方法を探した。もっとも、『少年』が少年と呼べなくなる年齢になった頃には、それが不可能なのだと悟ったが。
それでも、『少年』は諦めなかった。
『少年』は『彼女』を起こすことが無理ならば、『彼女』自身に起きてもらえばいいと考えた。
即ち、伝説を再現すればいいのだと。
伝説によれば、『彼女』は魔王が復活したときのために眠りについたのだという。つまり再び世界に魔王が現れれば、『彼女』は目を覚ますはずなのだ。
その後、『少年』は世界中のありとあらゆる術を用い、禁忌とされた術にまで手を出し、己の力を高めていった。
やがて、普通の人間なら二度は寿命で死ぬであろうほどの時間が過ぎたとき、『少年』は人を超越した力を手に入れていた。
こうして、かつて『天使』に恋をした『少年』は『魔王』となった。
『魔王』は『魔王』たらんとするため、街を一つ消し去った。
そして『魔王』は『彼女』の元を訪れた。
『彼女』は目覚めなかった。
『魔王』は二つ目の街を消し去った。
『彼女』は目覚めなかった。
『魔王』は次に国を滅ぼした。
それでも『彼女』は目覚めなかった。
『少年』はそれから人を殺しては『彼女』の元を訪れ、『彼女』が目覚めていないことに落胆し、また新たな人を殺しに出かけた。
それを何度も繰り返し、そして今日。
世界から人類はいなくなった。
それでもやはり、『彼女』は目覚めなかった。
彼は記憶を振りきり、視線を上げた。
『彼女』は初めて見た時とまったく同じ姿で、ただ静かにそこに存在しているだけだった。
『魔王』が現れ、人類を滅ぼしたというのに。
伝説が間違っていたのだろうか。五00年以上も昔のできごとだ。その可能性は十分にありえるだろう。
それともあまりにも長い時を眠り続けた『彼女』は、既に死んでいるのではないだろうか。
時間の凍結に失敗し、自分で起きることができなくなったのかもしれないということも考えられる。
いや、あるいは、世界の危機とは……そして、魔王とは――
その考えに至ったとき、彼は再び笑みを浮かべた。嘲笑はやがて声となり、全身を震わせるほどの哄笑となった。
真実はわからない。世界にあるのは人以外に成り果てた哀れな『魔王』と、目覚めることのない『天使』だけだ。答を教えてくれる者は、誰もいない。
『魔王』となり、最早死ぬことすらできなくなったかつての『少年』は、世界で独り、ただただ笑い続けた。
『』多すぎワロタ。