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小松崎先輩と山の精霊の彼女

作者: 渓夏 酔月
掲載日:2026/04/08

 小松崎先輩は、一風変わった、というか変人だった。


 私は大学の頃、山岳部に入っていた。その山岳部は、冬の岩壁登攀やヒマラヤ登山など、先鋭的なクライミング至上主義で、過去には何人もの部員が命を落としていた。


 そのような山岳部では、厳しいクライミングを実践できない者は居辛くなり、辞めていくのが普通だった。


 そんな中、全く厳しいクライミングをやらないにもかかわらず、平然と部室に顔を出していたのが小松崎先輩だった。周りも小松崎なら仕方がないと思っているようだった。


「な~、松岡~、(たに)に行こうよ~。東大島川は爆釣だぞ」


 小松崎先輩は山釣りという、山の奥深くの渓谷に入って行う釣りが大好きだった。そして恐らく釣りよりも、焚火で魚を焼きながら酒を呑むことが大好きだった。厳しい登攀を至上主義とする山岳部にとって、山釣りなど落伍者の行うものとされていた。


 当然、誰も小松崎先輩の誘いに応じる者などいなかった。


 しかし私は、氷の上に乗せたアイゼン(登山用の靴に装着する鉄の爪がついたもの)の爪が、数ミリずれると滑落して死んでしまうような厳しい登攀に疲れると、小松崎先輩の誘いを受けてよく山釣りに出かけた。深い森の中でひたひたと渓谷を歩く山釣りは、心身ともに癒されるのだ。


「松岡~、今日はここで泊まるぞ~」


 独特の間延びした口調で、小松崎先輩は早々に泊まり場を決めてしまう。山岳部では、一日にどれだけ長い距離を短時間で歩けるかが重要とされていたが、小松崎先輩はそのようなことは全く気にしない。


「ここは流木もたくさんあって、森の雰囲気もいい。裏には山菜も生えているな~」


 流木の多寡は、その晩の焚火の盛り上がりに影響するので確かに重要だ。しかし小松崎先輩は流木拾いを全くしない。宿泊地を決めるだけで、あとの設営、流木拾い、焚火の火起こしから米研ぎまですべて私の仕事だ。


 私が流木を拾い集め、タープを張り、マットを敷き、宿泊場所の設営を終え、焚火に火をつけると、さっそく小松崎先輩は酒を吞み始める。


「山は良いよな~」


 それが小松崎先輩の口癖だった。


 森が闇に沈み、中心が白くなるほど焚火が燃え盛る。酔って自我と森と闇が混然となってくると、小松崎先輩は、山の中で遭遇した不思議な出来事を話してくれた。


 山でひょっこり出会った神様のこと、言葉を話す動物のこと、光に誘われて森の奥に入ったら全く別の沢に出たことなど、どれも荒唐無稽な話ばかりだった。だが、私は焚火を囲んで小松崎先輩の話を聞くのが好きだった。


「俺、とうとうこの前、女神様とやっちゃったんだ~」


 小松崎先輩の荒唐無稽な話の中でも、際立っていたのが木の精とセックスをしたという話だった。


「一人で『あの木』の前で焚火をして吞んでいたら、俺の前に現れてくれたんだ~」


 『あの木』というのは、以前私も小松崎先輩に連れられて行ったことのある、東北の山深い渓谷の中に生えている、ひときわ大きな美しい山毛欅(ぶな)のことだった。小松崎先輩でなくともその山毛欅の木は、霊的なものを感じさせた。


「この木は俺の彼女だ~」


 そう言って小松崎先輩は、焚火に照らされた白い大きな幹に裸で抱き着き、自分のものをこすりつけていた。私は笑い転げてその様を写真に撮ったものだった。


「松岡も知っているだろ~。あの場所で俺が独りで呑んでいたら、山毛欅の精が出てきてくれたんだ~。女神様だよ、とても美しい女性(ひと)だった~。俺たち結ばれたんだよ~」


 焚火を見ながら吞む酒がだいぶ回ってきている。うっとりと話す小松崎先輩の話を聞いて、私はあの美しい山毛欅の大木から出てくる精霊を想像した。確かにあの木から出てくる精霊なら、飛び切り美人に違いない。


「俺は女神様と結ばれたんだ~」


 自分を抱きしめながら身もだえする小松崎先輩を見ながら、リアルな彼女が出来ないと、いずれこうなってしまうのかと思った。いつもは彼女なんていなくてもいいと思う自分だったが、この時ばかりはちゃんと彼女を作った方がいいと考え直した。


 その後、私は大学を卒業し、会社に就職して社会人となった。


 就職してからは何かと忙しく、山にはさっぱり行かなくなった。それでも時々山岳部の仲間とは連絡を取っていた。それによると、小松崎先輩は何年も留年したうえ、大学をやめてしまったらしい。


 いつしか私は結婚し、子供も出来、平凡だが幸せな生活を送っていた。


 そんなある日、かつての山岳部の仲間から、小松崎先輩の話を聞いた。


「どうやら精神病院に入院しているようだ」


 聞けば、時々営業で出かける場所の近くの病院らしい。私は、仕事のついでにお見舞いに行ってみることにした。


 営業車で向かった病院は、神奈川県の山間に位置する古い精神病院で、山好きの小松崎先輩には良い心の癒しになるのではと思った。


 病院で、閉鎖病棟に入っているという小松崎先輩に面会を申し込むと、面会室に小松崎先輩はやってきた。


「お~、松岡か~、ひさしぶりだな~」


 お見舞いになど、来るべきではなかったと思った。約二十年ぶりに見る小松崎先輩は、確かに小松崎先輩ではあったものの、やせ衰え、目はうつろで、表情に乏しく、人とはここまで変わってしまうものなのかと恐怖すら覚えた。


 小松崎先輩は、もともと現実とも妄想ともつかないことを普段からよく言う人ではあったが、もう、言っていることが支離滅裂で、話題が次から次へと移り変わり、何を言っているのか、何が言いたいのか理解不能だった。確かにこれは精神病というものだろう。


 私に構わず一方的に話し続ける小松崎先輩に辟易して、このあとも仕事があるからと、理由をつけて帰ろうとする私に小松崎先輩が言った。


「松岡~、俺の彼女を覚えているだろ~。彼女を助けてくれ~。毎日夢に出てくるんだ~。殺される~、助けてくれ~って」


「俺はどこも悪くないのに、医者がここから出してくれないんだ~。世界は突然光を帯びて……」


 また延々ととりとめのない話をしだした小松崎先輩を置いて、私はそのまま面会室から逃げるように出てしまった。


 人を変えてしまう病の恐ろしさに胸が苦しくなってしまい、私はしばらく小松崎先輩のことは考えないようにしていた。


 しかし、時間が経つうちに、最後に急に先輩が正気に戻ったかのように言った、『彼女を助けてくれ』という言葉が思い出されるようになり、だんだん頭から離れなくなっていった。


 小松崎先輩は、病状が悪化していけばいずれ廃人のようになってしまい、意思疎通も出来なくなるかもしれない。思えば小松崎先輩には山釣りを教えてもらい、たくさんの楽しい渓谷の夜を共にした仲だ。ひとつくらい、恩返しをしても良いだろう。


 私は連休に独りで山に行くことを妻に許可してもらい、新調した山道具で久々に小松崎先輩の『彼女』に会いに行くことにした。


 初夏だというのに東北の山の朝は肌寒かった。そう、これだ、この空気だ。久々に感じる山の空気に私はわくわくした。


 かつてのように、登山道から外れて渓谷に入る。ひたひたと、水の流れる滑らかな岩を歩く感覚が懐かしい。


 かつて小松崎先輩と歩いた渓谷は、倒木や土砂が多く堆積し、荒れていた。あれほどいた魚もほとんど見かけなかった。


(そろそろ着く頃だ)


 小松崎先輩の『彼女』とは言え、あの素晴らしい山毛欅の大木に久々に会えることに私は興奮していた。大きな山毛欅の多いこの山域でも、あの山毛欅の大きさと美しさは群を抜いていたのだ。


 だが、突然私の目の前に現れたのは大きな橋と林道だった。


 この山深い森の中で、道路工事が行われていた。近くの看板には、『県民の悲願達成! この道路建設で通行時間が十五分短縮!』と書かれていた。


 小松崎先輩の『彼女』は、大きな切り株になっていた。


 すぐ近くにあった飯場(はんば)にいた人達に聞くと、つい最近切り倒したらしい。


「山毛欅は建材にも何にもならないから役に立たねえんだよ」


 建設中の道路の脇には、無残にも切り倒された小松崎先輩の『彼女』が横たわっていた。


 見覚えのある大きな幹は、かつてのような神々しいまでの白い木肌の精気が無くなり、薄汚れていた。


 私は愕然とした。何でこんなことが行われているのだろう。


 私は恐る恐る『彼女』の薄汚れた木肌を手で触れた。


『こんな姿になったわたしのことを、あの人に伝えないでください』


 何故だか『彼女』がそう言った気がして、私は恐ろしくなってそこから足早に立ち去った。


 建設途中の道路を飯場の人に断って使わせてもらうと、あっという間に町に降りて来てしまった。


 それ以来、時々私は小松崎先輩のことを考えるようになった。


 当時、荒唐無稽だと思っていた、小松崎先輩の話す神様の話や不思議な森の話は、本当のことだったのではないだろうか。


 山毛欅の『彼女』とのことも、すべて本当のことだったのかもしれない。


 それは、小松崎先輩が純粋な目で、純粋な心で山を、渓谷を愛していたからこそ感じられたことではないだろうか。それは、どんな厳しい登攀を成し遂げることよりも、世界最難のクライミングをすることよりも価値があるように思われた。


 私は最近再び山釣りに行くようになった。


 かつては小松崎先輩と行った渓谷に、自分独りで出かけ、焚火をして酒を呑む。かつて小松崎先輩がしていたように、独りで深い森に抱かれて焚火を見ながら呑んでいると、ひょっこり森の神様が出てきそうだ。


 だが、まだ私の前に神様や精霊は現れてくれない。きっと小松崎先輩のような純粋な心で山に溶け込めていないからだろう。


 究極に純粋になると、現世ではまともではいられなくなってしまうのかもしれない。


 それも良いかもしれないと、いつしか私は思うようになっていた。


 今日も私は渓谷を旅し、焚火をして酒を呑む。


 森の闇が、木々の間から見える星達が私に話しかける。


 焚火の炎の向こうでは、小松崎先輩が楽しそうに笑っていた。




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