元平民の男爵令嬢マリー~娼館に送られたら、ヤベー奴が待っていた~
黒塗りの馬車が、国境を目指して走って行く。
わたしは正面に座る黒衣の男をぼんやり見ていた。
彼は揺れる馬車の中、わたしの方へと手を伸ばしてきた。
彼の手が、わたしの左足をつかんで引き寄せる。
「あ……っ」
わたしは小さく悲鳴を上げた。
腱を切られたところが、ずきりと傷んだのだ。
その手つきからは、隠しきれていない劣情が伝わってくる。
――逃げられない。
思わず身をすくめた。
逃げる気なんて、もうないのにね。
わたしは、これまでのことを思い返す――。
◆
わたしは辺境にある修道院付属の孤児院で育った。
隣国との戦争が終結した直後だったから、わたしみたいな孤児がたくさんいた。
辺境ということは、両国の国境の近くということだ。
戦争で両親を失った子供や、兵士相手の娼婦が産み捨てた子供、夫の出征中に使用人との間にできた子供。いろいろな生まれの孤児がいた。
高貴な方の私生児だった子は、親が引き取りに来て、今はお貴族様として暮らしていたりする。
わたしもこの特徴的なピンクブロンドの髪のおかげで、男爵である父に見つけてもらえた。
わたしが孤児院を旅立つ日には、面倒を見ていた年下の子供たちが「マリーちゃん」と何度も呼びながら、別れを惜しんで泣いてくれた。
わたしは父によって王都に連れて行かれると、男爵令嬢としての最低限の知識を叩き込まれて、すぐに王立学院に入学させられた。
そこからは地獄だった。
王都には安らげる場所なんてなかった。
元平民の男爵令嬢で、この目立つピンクブロンドの髪。どこか小動物みたいな愛らしい見た目。
お貴族様の作法なんて知らないから、どうしたらいいかわからないことばかりだった。
男爵様には奥様がいた。わたしは男爵様が戦地で娼婦に産ませた子供だ。しかも、奥様の方には、お子様ができなかったらしい。わたしは奥様の嫉妬のはけ口として、散々いじめられた。
王立学院では、王太子殿下と取り巻きの高位貴族のご令息様たちに気に入られた。
王太子殿下も、宰相の息子も、騎士団長の息子も、大神官の息子も、みんなバカばかりだった。
だからかな……、男爵様がおかしなことを夢見はじめたのは。
「王太子殿下を婚約者のクリスティーネ様から奪い取れ! お前が王太子妃となるのだ!」
男爵様はそんなめちゃくちゃなことを命令してきた。
クリスティーネ様は、この国にたったの十五……、いいえ、十八だったかな、とにかく少ししかない侯爵家のお嬢様だ。
そんな方と、男爵家の元平民の庶子が、王太子妃の座なんて競えるはずがないと思った。
それなのに……。
「ハハッ、面白い女だな」
あれは、いつだったか……。
わたしは学生食堂で、ケーキに載っている苺を指でつまんで口に放り込んだところだった。
王太子殿下と取り巻きたちは、わたしをねっとりした目で見ながら笑っていた。
「かわいいじゃないか。気に入ったぞ」
相手は王太子殿下だ。
男爵令嬢に拒めるわけがない。
わたしは王太子殿下と取り巻きたちのお気に入りになった。
最初は一緒に話をするだけで良かったけれど、自分たちの膝に座れと言われるようになり、キスする真似をされるようになり……。
「恥を知りなさい!」
クリスティーネ様から叱られるのは、王太子殿下と取り巻きたちではなく、わたしだった。
――まあ、最悪だよね。
普通に腹が立つわ。王太子殿下と取り巻きたちにも、クリスティーネ様にも、男爵様と奥様にも。
「王太子殿下、平民だって、結婚してからじゃないと、殿方に身体は許しませんよ」
わたしがかわいく笑ってみせたら、王太子殿下はその気になった。あいつは本物のバカだったのよ。
「やだぁ、やめてくださーい」
わたしも自暴自棄だったからね。クネクネしながら、嫌なことは拒否したわ。
「やぁーん、恥ずかしいですぅ」
こっちもバカのふりをして、貞操だけは守り抜いた。
あんな奴らに好きにされるより、純潔のまま死にたかった。
そう思っていたのに。
「クリスティーネ・ド・メインテール侯爵令嬢との婚約を破棄する!」
王太子殿下は、王立学院の卒業パーティーで宣言した。
クリスティーネ様は、わたしを凄い形相でにらんだ。『諸悪の根源は、この女だ!』とでも思っているのだろうことが伝わってきた。
王太子殿下と取り巻きたちは、クリスティーネ様がやってもいない、わたしへのイジメを語り出した。
自分たちがやったくせに……。わたしのノートを破ったのも、靴を池に捨てたのも、階段から突き落とそうとしたのも。全部、あいつらが自分たちでやっていたのよ。
同情して慰めるふりをして、わたしに触りたかったんでしょ。
あいつら、すぐに肩や腰を抱こうとしてきたり、頭をなでようとしてきたり、油断ならなかったわ。
「わたくしは、そんなこと一度だってしていないわ!」
クリスティーネ様は激怒した。当然よね。本当にやっていないんだもの。
「わたし、こわぁーい」
思いっきり、バカっぽく言ってやったわ。
こういうのが好きなんでしょ?
わかってるんだからね。
クリスティーネ様はぶるぶる震えて、泣きながらパーティー会場から出ていった。
それからしばらくして、クリスティーネ様が隣国であるヤンディール帝国の皇太子様と親しくしているという噂が流れた。
噂は真実だったみたいで、国王陛下は慌てて王太子殿下を廃嫡。王太子殿下は、今は鉱山でこき使われているらしい。
王太子殿下の取り巻きたちも廃嫡されて、各地にある鉱山に送られ、宝石だの金銀だの鉄だのを掘らされているらしいわ。
そして、わたしは――。
こうして娼館に送られ、後ろ手に縛られて、汚い木の床に転がされていた。
「ねえ、ピンク髪のヒロインちゃん? 他人のものに手を出したらどうなるか、これでわかったでしょう?」
クリスティーネ様が、わたしを見下ろして、歪んだ笑みを浮かべていた。
修道院にしてほしかったな。せっかく純潔を守り通したんだもの。
「腱を切るのは、片足だけにしてあげたわ。自力で立てないと、ご奉仕する時に不便でしょう? 『ツキコイ』は十八禁ゲーム。この世界を思い切り楽しむといいわ!」
クリスティーネ様の言うことは、いつだってよくわからないことばかりだった。きっとわたしが、元平民の男爵令嬢だからだろう。
――走れなければ、きっと逃げきれない。
ここに連れて来られる時、わたしは目隠しをされ、後ろ手で縛り上げられて、荷馬車の荷台に転がされていた。
途中、馬車がずいぶんガタガタ揺れていたから、きっと山越えをしたのだろう。
もしかすると、国境すら越えて、ヤンディール帝国に入ったのかもしれない。
葉擦れの音や鳥の声が聞こえるから、きっと外はまだ山だ。
どこかの鉱山の近くあたりだろう。
気の荒い男どもが、わんさかいる場所に違いない。
山に逃げ込んだって、走れなければ、獣に食い殺される。
――男どもに好きにされるくらいなら、山に逃げて獣の餌になってやる。
わたしがそう決心した時だった。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「腱を切った!? 腱を!?」
裏返った声が聞こえた。若い男が部屋に入ってきたようだった。
商品価値が下がっちゃって残念だったね。
「えっ、バッドエンド!? 嘘でしょ!?」
クリスティーネ様の叫び声。
剣を抜く音がして、人が切られる音に続いて、どさりと倒れる音がした。
なにが起きているんだろう?
まさか、王太子殿下か、取り巻きの誰かが、わたしを助けに来たの……?
ああ、あのクズどもに、そんな根性があるわけないか。
考えなしの若い店主が、怒りに任せて侯爵令嬢を斬り殺しちゃったかな……?
「マリーちゃん!」
という声がして、わたしは床から引き起こされた。そのまま、良い匂いのする男に抱きしめられる。
「マリーちゃんだ! マリーちゃんマリーちゃんマリーちゃんマリーちゃんマリーちゃん!」
んん!? 誰!?
こんな声、知らない――。
「マリーちゃん、顔を見せて?」
心配そうに頼まれたけれど、男に強く抱きしめられていて動けない。どうしろと……?
男の腕がゆるんだから、わたしはおずおずと顔を上げて、男を見た。
薄暗い部屋でもわかる、輝くような美しいプラチナブロンド。アイスブルーの瞳。整った顔。黒い服は豪華で、お貴族様なのが見てわかる。
顔は……、整っているというか、物凄く綺麗だ。こんな綺麗な男、王都のお貴族様にはいなかったはずだ。
それなのに、どこかで見たことがあるわ、こいつ。
ええと、誰だっけ……?
「マリーちゃんだ……。このピンクブロンドの髪も、空色の瞳も、ふっくらしたほっぺも、桃みたいな唇も、なに一つ変わってない」
男は、わたしの髪に触れ、目をのぞき込み、頬をなで、唇を指でなぞってきた。
わたしは男の顔が綺麗すぎて、まるで魅了でもされたみたいに、ただ見ていることしかできなかった。
「遅くなってごめんね」
男はまた、当然のように、わたしを抱きしめた。
彼は、なに基準で遅くなったのか。
もはやすべてが手遅れだと思っていたから、意味がわからなかった。
「ずっと会いたかったよ、マリーちゃん」
これ……、『誰?』とか訊いたらキレられるヤツだよね……?
だからって、『わたしも』なんて嘘を吐いても、それはそれでキレられそう……。
「怖かった……」
無難に、それっぽいことを言ってみた。
無難の基準が、もうおかしい。
「うん……。うん、マリーちゃん」
男は感極まったように、わたしをきつく抱きしめた。
誰なの……?
いや、本当に誰なのよ……?
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。全員殺すよ! 任せて!」
ええと……、殺し屋の方……? そんな知り合いはいなかったはずだ。
男はわたしの肩をつかんで、わたしを自分から引き離した。
「あのクリスティーネとかいう女は殺したよ。勝手にマリーちゃんの腱を切るなんて、許せなくて」
勝手に、とは……? 言っていることが、ちょいちょいおかしい。
クリスティーネ様は、わたしの腱を切って逃げられなくして、娼婦として死ぬまで働かせようとした。
――その報復として、殺した……?
ええと……、そういうことを言っているという解釈であってる?
それで殺したの? クリスティーネ様をわたしと同じように走れなくして、平民に落とすとかではなく……?
クリスティーネ様は、婚約者である王太子殿下に裏切られた。それで、頭がおかしくなっちゃったのよ。同情の余地があると思っていたんだけど……。
「あのクソ王太子と取り巻きも、すぐに殺すからね! 大丈夫だよ!」
なにも大丈夫じゃない。
なに基準で大丈夫なのか、さっぱりわからない。
この美しき殺人鬼はなんなの……?
にこにこ笑っているけれど、笑い事じゃない……。
いや、王太子たちに対して、殺してやりたい気持ちになったことはあったけどね……。本当に殺すのと、殺してやりたいと思うのとでは、だいぶ違わない!?
「男爵とその妻も許さないから安心して! みんな殺すから!」
なにをどう安心しろと……? わからない……。
これ、反対してもいいのかな……?
彼が『俺に逆らう者は殺す系』だったら、即死だよね!?
「マリーちゃん、まだ『怖かった』しか言ってないね。そんなに怖かったんだね……」
今、怖いのは、あなたですよ……。言えないけどね……。
男は、またわたしを抱きしめた。
「マリーちゃんマリーちゃんマリーちゃんマリーちゃんマリーちゃん。やっと会えたのに!」
わたしの名前を連呼する理由が、まったくわからない。怒っているようだけれど、なにを怒っているのかもわからない……。
「フランツだよ! 僕がわかる?」
男は、またわたしの肩をつかんで、顔をのぞき込んできた。
「えっ、フランツ!? あのおチビちゃんのフランツ!? わたしが男爵様と王都に行く時、ずっと馬車を追いかけてきた、あのフランツ?」
「そのフランツだよ! 転んじゃって追いかけきれなかった、あのフランツだよ!」
フランツは蕩けるような笑みを浮かべて、両手でわたしの頬を包み込んだ。
わたしが覚えているフランツは、すぐにお熱を出して寝込んでいた。わたしには、目の前にいる男が、あの病弱で小さかったフランツだとは信じられなかった。
「本当にフランツなの……?」
「ああ……、マリーちゃんが僕の名前を呼んでくれた……」
それって、実況する必要ある……?
フランツは、なんだかうっとりした顔をしているし……。
いろいろ意味がわからない……。
「縄を解いていなかったね。ごめんね、マリーちゃん。マリーちゃんと会えてうれしくて、他のことなんて考えられなくなっちゃった」
フランツはわたしの手首の縄を解いてくれた。フランツの部下らしき男が、フランツに素早く革袋を差し出した。
「失くすなよ」
フランツは縄を丁寧に革袋に入れて、男に渡した。
「心得ております」
男は貴重品でも預かるみたいに、革袋を抱えて下がった。
証拠の品だから……? んん? なんの証拠……?
今って、フランツの中では、どういう状況ということになっているの……?
「マリーちゃんの手首に縄の痕がついてる……。ごめんね、マリーちゃん……。痛いよね。クリスティーネを楽に死なせすぎちゃった」
楽に死なせるとは? 斬り殺されるって、楽な死に方なの? 楽……? 楽ってなんだろう? 指先を針で刺しても痛いのに、斬られるなんて、かなり痛いと思うけど!?
「心配しないで、マリーちゃん。王太子たち四人には、こんな温情はかけてやらないからね」
心配しかない。もちろん王太子たち四人に対してではない。フランツに対してだ。
「フランツ、なにをしようとしているの……?」
「やさしいマリーちゃんは知らなくていいことだよ」
フランツの笑みは華やかで、どこか楽しそうで……。だからこそ、わたしはフランツが怖くなってしまった。
「ああ、いけない。ちゃんと名乗るのも忘れちゃっていたね。大好きなマリーちゃんに会えて、浮かれちゃっていたんだ」
ああ、フランツだ。
たしかに、この人はフランツだ。
子供だったフランツがお熱を出すと、わたしはいつも看病してあげていた。だから、フランツはすっかりわたしに懐いて、子供の頃からよく「マリーちゃん、大好き」と言っていたもの。
「ヤンディール帝国の皇太子、フランツ・ヤンディール。大好きなマリーちゃんを迎えに参りました」
フランツがわたしを抱きしめた。
いやいや、待って!
「ヤンディール帝国の皇太子!?」
「うん、僕はヤンディール帝国の皇帝と、この国の村娘との間にできた子供だったんだよ。皇帝は皇太子時代に、戦地で村娘と恋仲になったけど、村娘は相手がヤンディール帝国の皇太子だと知って身を引いたんだって。皇帝が村娘を見つけた時には、すでに亡くなっていてね。皇帝は孤児院にいた僕を見つけて、引き取ってくれたんだ」
孤児院では、お貴族様に引き取られる子供は、わたしも含めて大勢いた。だけど、皇帝……。いくらなんでも大物すぎない……?
「それで……、なんでヤンディール帝国の皇太子様が、こんな娼館に……?」
皇太子様は、普通、こんな薄汚い娼館になんて来ないと思う。
「この娼館も僕の持ち物だから安心して? マリーちゃんのために用意したんだ。店主とトラブルになんてならないからね」
「えっ、娼館を用意したの!? フランツが!? この娼館を!?」
「もちろんマリーちゃんを働かせたりなんてしないよ?」
理解が追いつかないから、まだその発想に至ってなかったわ!
フランツは壊れ物でも扱うみたいに、そっとわたしを抱きあげた。お姫様抱っこというやつだ。
「これより皇太子妃を我が城に連れ帰る」
フランツが宣言すると、フランツの部下らしき人々がその場に跪いた。
皇太子妃!? フランツは結婚していたの!?
それはそうよね、皇太子様だもの。
お妃様くらいいるわよね。
わたしはフランツのお妃様の姿を探して、あたりを見まわした。
この位置からだと、お妃様の姿は見えなかった。
「マリーちゃん、どうかした? なにか気になる?」
「皇太子妃様って……」
「ああ、そのこと? 後でゆっくり説明するね」
フランツが恥ずかしそうに頬を染めた。
あのおチビちゃんだったフランツも、わたしに惚気話をするくらい大きくなったのね。
フランツはわたしを抱えて娼館……なのか、なんだったのか……、今となってはよくわからない建物から出た。
◆
わたしは黒塗りの馬車の座席にそっと下ろされた。
ここに来る時には、荷馬車の荷台に転がされていた。
娼館を生きて出られるなんて、まったく思っていなかった。
わたしは前に座っているフランツを見る。
黒衣をまとった彼は、まるで知らない男のように見えた。
実際、わたしは今の彼のことをよく知らない。
お妃様は別な馬車に乗って帰られるのだろう。
黒塗りの馬車が、国境を目指して走って行く。
わたしは正面に座る黒衣の男をぼんやり見ていた。




