初めては誰でも恐ろしいもの
「旦那様の御両親はどちらにお住まいですの?」
モルガナを片手で抱きかかえながら飛行していたガルヴォルドはさらりと言った。
「母は俺が生まれた時、俺の魔力量の多さに耐えきれずに死んだ。父はそんな俺を殺そうとしたから殺した」
「まぁ、それは何とも悲惨な体験でしたのね。魔界ではよくある事ですの?」
「知らんが、恐らく殆どないだろうな」
「では旦那様が特別だという事ですわね」
特別──そんな風に考えたことなどガルヴォルドは無かった。魔界では強ければ生き、弱ければ死ぬ。そこに特別なものなど無いと思っていた。
「お前の両親は生きているのか?」
「えぇ、元気にしておりますわ。父方の血筋は代々毒作りに長けておりまして、母は黒魔法が得意なので父と結婚いたしましたの。祖父は毒作りの才に長けておりますのよ」
嬉しそうにモルガナは言う。そんな彼女を見ていると不思議に思った。
「家族がいるのに何故お前は平然と死のうとした」
「死のうとしたのではなく、実際に死にましたわ。まぁ、そうですわね、本来ならば気に入らぬ事があれば魔王の首を刎ねて帰ってきなさいと父に言われましたの」
何とも物騒な父である。
「ですが、旦那様はお強いでしょう? そんな方の首を刎ねるより、自分が死んだ方が早いと思いましたの」
「あの時に家名に傷がつくとかなんとか言っていたが、死んだ方が余程恥だと俺は思うがな」
モルガナは唇に人差し指を当てて考える。
「見解の相違ですわね。価値観の相違とも言えますわ。人間は己を殺してでも守りたい“名誉”がございますのよ」
「俺には理解できん。死んだら名誉もへったくれもないではないか」
「まぁ、それもそうですわね。目から鱗ですわ旦那様」
そうこう遣り取りをしている間に、沼地にたどり着いた。
地面にモルガナを下ろすと、モルガナは瘴気が色濃く漂う沼地に興奮していた。
「旦那様! 森とは全く違う生物が沢山おりましてよ! なんて素晴らしい!」
モルガナはくるくると舞ってみせた。
「さっさと採取しろ。お前達人間の時間は有限だ」
「まぁ! そうでしたわ! ではどれから採取いたしましょう……この醜い蛭は何ですの?」
モルガナは手袋越しに巨大な蛭を掴んだ。
「瘴蛭だ。乾燥させると血液凝固阻害薬になる」
「まぁまぁ! それはとても役に立ちそうですわね」
モルガナは深緑色の沼をジッと観察している。
「沼の底に光る物が見えますわ。あれを採取できないかしら」
モルガナはブーツを脱いで沼に足を突っ込んだ。ガルヴォルドが止める間もなかった。
「痛っ」
足を浸した部分から皮膚が爛れて直ぐ様骨が見えてきた。ガルヴォルドは急いでモルガナを沼から引っ張りだした。
「バカかお前は! この沼は生物を瞬時に溶かす猛毒で満たされてるんだぞ!」
「あら、でしたら沼の液体も採取しなければいけませんわね」
爛れて骨が見えている足を庇うことなく、小瓶に沼の水を採取している。ガルヴォルドは呆れ返った。骨が見えている状態では普通の人間ならのたうちながら苦しみぬく痛みであろうに、モルガナはいつもと変わりない様子で採取を続けている。伊達に己の胸に躊躇いなく短剣を刺して死んだ人間ではない。
「おい、お前。足を見せろ」
己を顧みないモルガナにイライラして、ガルヴォルドはモルガナの足を無理やり掴み上げると、魔法で瞬時に傷を直した。
「まぁ、ありがとうございます旦那様。採取が楽になりましたわ」
モルガナはガルヴォルドに微笑んだ。一方ガルヴォルドは、自身を顧みないモルガナの危うさに頭を悩ませていた。
大好きなものを目の前にすると子供の様にはしゃぎ、夢中になる。それ自体は悪くない。問題は危機感の欠如だ。
魔界でモルガナを一人にしておけば、早々に死んでしまうのは目に見えている。
人間界にいた時は恐らく周りの人間に守られていたから生き延びてこられたのだろうが、その庇護が無くなった今、モルガナは非常に危うい立場にある。
「旦那様、この茸も何かの効果がございまして?」
モルガナが手に持つ茸は沼から生えている物である。
「泥髑茸だ。食べると昏睡する」
「まぁ! それではこの茸も持って帰りましょう」
ガルヴォルドは沼に入っていく。強固な皮膚を持つガルヴォルドは沼の溶解液に溶かされることなどないのだ。
「あら、旦那様、沼に入っても大丈夫ですの? 溶けてしまいませんの?」
「俺はお前のような脆弱な体をしていない」
沼の底から光る水草を引っこ抜いた。それをモルガナに渡してやる。
「ありがとうございます旦那様。こちらは?」
沼から上がりながらガルヴォルドは言った。
「腐光藻だ。乾かすと光を放つ毒の粉になる」
「まぁ、幻想的な毒ですわね。美しいですわ」
モルガナはバスケットに入れこんだ。
沼地は毒の材料の宝庫であった。昨日よりも遥かに多くの材料を採取でき、モルガナは満面の笑みでガルヴォルドに抱えられながら城に戻った。ドアノッカーの問いかけにも直ぐに答えたので、ガルヴォルドが扉を破壊せずに済んだし、今日のガルヴォルドは比較的穏やかであった。
「旦那様は、どうしてそんなに博識であらせられるの?」
純粋な疑問だった。モルガナが尋ねれば、打てば響くように答えがぽんっと返ってくる。
「暇だったときに図書館の本を全て読んだからだ」
「図書館! 甘美な響き! して、そちらはどこにありますの?」
ガルヴォルドは溜息をつく。
「メイドにでも聞け」
そう言うと、ガルヴォルドはどこかへ去っていった。
モルガナは自室に戻ると、採取した材料をしまい、「スカルディア! スカルディア!」と声を張り上げた。そしてスカルディアはいつもの様にモルガナの背後に突然現れるのである。
「あなた、図書館の場所はご存知?」
「はい、モルガナ様」
顎をカタカタ鳴らしながらスカルディアが返答する。
「では図書館まで案内してちょうだい」
「畏まりました」
スカルディアは先頭を歩くと、複雑に入り組んだ迷路の様な城の中を迷うことなく突き進んでいく。
そして巨大な黒檀の扉の前に辿り着いた。
「こちらが図書館でございます」
「ありがとう、スカルディア」
モルガナは扉に手をかける……が、城の扉のように、とてつもなく重い。
「スカルディア、扉を開けるのを手伝って下さる?」
「畏まりました」
骨だけのどこにそんな力があるのか、スカルディアは難なく扉を開けてくれた。
「助かったわスカルディア。帰る時にまた呼ぶから来てちょうだいな」
「承知いたしました」
そう言うとスカルディアはスーッと透明になって消えてしまった。
モルガナは図書館に足を踏み入れると、感嘆の溜息を零した。
膨大な本が貯蔵されており、頭を上げれば首が痛くなるほど高い場所まで本棚がある。
これ程までに膨大な数の本を全て読み漁ったガルヴォルドは、一体どれだけの時間をかけたのだろうか。人と魔族の寿命の違いをまざまざとモルガナは感じた。と同時に、倒すべき相手もおらず、やる事がなくなりここで時間を潰していたのであろう事も、容易に想像できた。
読みたくて読む本と、時間を潰すために読む本。どちらが楽しいかなど自明の理。
ガルヴォルドの孤独の一端にモルガナは触れた気がした。
モルガナは一先ず植物の本を探すことにした。
しかしここに来て最大の難関に直面した。
「どうしましょう、魔族の言語で書かれていますわ」
どの本を捲っても魔族の言語で書かれた本ばかり。考えた結果、モルガナは挿絵を頼りにいくつかの本を抱えてスカルディアを呼んだ。
「スカルディア! スカルディア! 扉を開けてちょうだい」
「畏まりました」
背後から現れたスカルディアは入ってきた時と同様に、難なく黒檀の重い扉を開けた。そしてモルガナはそのまま消えそうになったスカルディアを呼び止める。
「スカルディア! まだ行かないでちょうだい。ガルヴォルド様がおられる所まで案内して欲しいの」
これには流石のスカルディアも返答に間があった。魔王の機嫌を損ねれば殺されることはまず間違いない。
しかしナクシールの命令でモルガナの世話を仰せつかっている。ナクシールに背いて殺されるか魔王に殺されるか、どちらかしか選択がないのなら、モルガナの世話をしてから死ぬのがメイドとしての死に方であろうと、スカルディアは考えた。
「こちらでございます」
スカルディアはカタカタ足を鳴らしながらモルガナを導く。
迷路の様な城ゆえ、曲がったり階段を登ったり降りたりと忙しなかったが、それでもようやくモルガナは魔王のいる部屋まで案内された。
魔王の部屋の扉をノックすると、中から不機嫌そうな魔王の声が聞こえる。確実に殺されるとスカルディアは腹を括った。
「魔王様、モルガナ様が魔王様にお会いしたいとの事です」
暫くして、「入れ」と低い声が聞こえてきた。スカルディアは扉を開けてモルガナを中へと招き入れた。
殺される準備は出来ている。そう思いながら待っていると、意外にも魔王ガルヴォルドはスカルディアだけ出ていけと命令した。
命拾いしたスカルディアは、モルガナに呼ばれるまでまた姿を消すのであった。
「何の用だ」
ソファーに寝転びながら、ガルヴォルドはモルガナへ問いかけた。モルガナはガルヴォルドに近付き、持っていた本を一端床に置き、一冊だけ手に取り魔王の前に膝をついて本の中身が見えるように広げてみせた。
ガルヴォルドはそれがなんだ、という顔をした。
「旦那様、大変ですわ。私は魔界の文字が読めないことに気付きましたの」
「だから何だ。何の不都合がある」
「不都合ならありますわ! せっかく図書館に行きましたのに、どの本も読めませんでしたの。これは由々しき事態ですわ」
ガルヴォルドは体を起こした。モルガナは当然の様にその隣に座った。
「挿絵だけを頼りに本を選びましたの。旦那様、読んで下さいませ」
ガルヴォルドは至極嫌そうな顔をした。
「そんなもの、メイドかナクシールに教えてもらえ」
「嫌ですわ! 私は旦那様に教えて頂きたいのです。他の者は皆忙しくしておりますでしょう? その点旦那様なら暇を持て余しておられますわ。 暇つぶしにも丁度いいですわよ?」
失礼極まりない物言いだが、実際ガルヴォルドはさしてすることもなく、モルガナの材料集めを手伝う以外は無為に時間を潰しているだけである。
ガルヴォルドはモルガナが来てから何度目になるか分からない溜息をついた。
そしてモルガナが広げている本を手に取り、読み上げた。
モルガナは瞳を輝かせながら、本の内容に魅入っていた。ガルヴォルドのガザガサの声はモルガナには心地の良い声に聞こえた。
一冊読み終えると、持ってきた本をまたガルヴォルドに手渡す。
しかしガルヴォルドはこれ以上は付き合ってられるかと、人差し指を鳴らすと部屋の机に置いてある羊皮紙と羽根ペンを手元へ呼び寄せた。
ガルヴォルドは羽根ペンで魔界の文字を書いていく。その下には人間界の文字を当てはめて書いていった。
全て書き終えると、ガルヴォルドはその羊皮紙をモルガナに乱雑に渡した。
「これを見て文字を己で学べ。お前に付き合うなどごめんだ」
モルガナは羊皮紙を大切に丸め懐に入れた。そして持ってきた本をまた持ち上げると、「旦那様、失礼いたしますわ」と言って部屋を出ていった。
自室に戻ったモルガナは、何よりも大好きな毒作りを後回しにして、机にガルヴォルドから貰った羊皮紙を広げて文字の読み書きの練習をし始めた。モルガナは毒作りが一番好きだが、本を読んで見聞を広めるのも好きだった。
何枚も羊皮紙を用意して、モルガナは羽根ペンでガルヴォルドのお手本を見ながら文字を書き連ねていく。魔界の文字は人間界とは違い、まるで爪痕のような引っかき傷の様な特殊な形をしていた。それは一見簡単そうに見えて、微かな違いがあったり、全く同じ文字なのに意味が違ったりと、知れば知るほど奥が深いとモルガナは思った。
「モルガナ様、ディナーの時間でございます」
スカルディアに言われ、窓の外を見ると暗くなっているのに気付き、どれだけ文字の練習に時間をかけていたのだろうかとモルガナは思った。モルガナは自分が書いた文字の羊皮紙を丸めてドレスを着替えると食堂に向かった。
食堂にはやはり既にガルヴォルドがおり、モルガナを待っていた。
モルガナは席に着くと、早速ガルヴォルドに羊皮紙を見せた。そこには歪ながらもガルヴォルドの名前とモルガナの名前が書いてあった。
「……下手だ」
「ですが読めますでしょう? あれからずっと練習をしていましたの。ガルヴォルドという文字は特段書きにくい文字でしたわ。ですが文字が書けるようになったら、真っ先に旦那様のお名前を書きたいと思っていたのです」
嬉しそうにモルガナは言った。
「もう文字を全て書けるのか?」
「えぇ。まだ少々下手ですけれど、これで図書館にある本を読めますわ」
驚異的な速度で文字の読み書きを習得したモルガナに、さしものガルヴォルドも驚いていた。
「知らないものを知るという瞬間は、とても気持ちが良いものですわね。旦那様は博識でおられるから、もう魔界の全てを知っておられるでしょう? 何か新しい事に挑戦してみては如何かしら?」
「……いらん。時間の無駄だ」
「何を仰るのです! 旦那様は私と違って有り余る時間をお持ちではありませんか」
壁に控えていたナクシールが口を挟む。
「モルガナ様の言う通り、良い機会です魔王様。溜まりに溜まっている仕事をしてみては如何ですか?」
「それはお前の仕事だろうが」
「私はあくまで魔王様の仕事を円滑にするための存在。前魔王が亡くなってから、貴方様は一度たりとも仕事らしい仕事をしたことが無いことに気づいておられましたか?」
「どうせ魔界に生き残っている奴らなど少数だ。政も秩序もいらん。故に仕事など俺がすべきことなど何もない」
「ですが、天界と人間界との外交は如何なさるおつもりで?」
「人間界はお前が勝手にモルガナを寄越すように言ったんだろうが。人間界へ帰らせる用意はいつになったら整う?」
「なにぶん、人間界は魔界を脅威に思っているので、下手にモルガナ様を帰すと魔界が機嫌を損ねて侵攻してくるのではと取られかねません」
モルガナは人差し指を唇にあてて何かを思い出そうとしている。
「あぁ! そうでしたわ! 人間界の国王が言っておられましたわ。私が魔界に嫁がなければ、魔王が人間界に侵攻してきてしまう、と」
「だから! それはナクシールが百五十二年前に勝手に俺の伴侶探しをしたのが発端だろうが! とっととその誤解を解け!」
「残念ながら、人間界の人間は非常に臆病でして、何を言っても都合の悪い方へと取られてしまい、まともに交渉ができません」
ガルヴォルドが尻尾を叩きつける。
「ならばモルガナに直接交渉させろ! 人間同士なら相手も気後れせんだろう」
「ということですが、モルガナ様は如何ですか?」
ガルヴォルドとナクシールがモルガナを見る。モルガナは無邪気に微笑んだ。
「お断りいたしますわ」
「何故だ! お前はこのまま魔界にいて正気が保てるとでも思っているのか?」
「正気? 私は別に正気でなくなっても構いませんわ。私のお祖父様は正気ではありませんが、毒作りの天才ですわ。何も困ることなどありません」
ガルヴォルドの苛立ちは頂点に達した。
「いい加減にしろ! 俺は独りが気に入っていたんだ! お前が来てからというもの、毎日騒がしくて敵わん!」
「私も騒がしいのは嫌いですわ。毒作りは密やかに行うものですもの。気が合いますわね旦那様」
「その旦那様もやめろ! 俺は死ぬまで独りでいい! 誰かに干渉されるなど我慢ならん!」
「あらあら、旦那様ったら、まるで聞き分けのない幼子の様ですわね」
ガルヴォルドは低く濁った声で瘴気を放ちながら言う。
「……はぁ。殺す」
その時ナクシールが素早くモルガナを抱きかかえて結界を張る。
轟音、土煙、怒号、凄まじい爆発に、食堂は木っ端微塵に消え去ってしまった。
ナクシールは結界を解くと、モルガナを地面に下ろした。
「あらあら、まぁ! 旦那様は本当に大人げありませんわね。今まで我慢をしたことがございませんの?」
爆心地の中心にガルヴォルドは立っていた。
「我慢などしていたらこの魔界で生き残ることなどできん」
モルガナは恐れることなくガルヴォルドの手を取った。ゴツゴツとしていてとても固く、鋭く尖った黒い爪が生えている。
「この手で何かを生み出した事はございまして?」
「そんなもの必要無かった」
「まぁ、なんて悲しいことを。壊すだけで生み出さない人生に、何の喜びがございましょうか?」
「喜びなど必要ない」
「では、私と喜びを見つけて行きませんか? 毒作りだけではなく」
「俺にあるのは怒りだけだ。人間の感情を俺に当て嵌めるな!」
ガルヴォルドはモルガナに掴まれていた手を振りほどく。
「ふふっ、ふふふ」
モルガナは急に笑いだした。ガルヴォルドが怪訝に思っていると、彼女は大笑いし始めた。
「あははははっ!」
「……ついに瘴気に当てられ気が触れたか」
モルガナは笑いすぎて滲んだ涙を拭った。
「だって、旦那様はちぐはぐですもの」
「何だと?」
「本当に私を殺す気があったなら、これだけの規模では収まらなかったはずでしょう。それこそ魔界全土が焦土と化していたでしょう」
モルガナはくるくる舞いながら言った。
「ですが実際はこんなに小さな規模ですんでいますわ。ナクシールの結界が破れない範疇で」
ナクシールが目を見開く。
「ねぇ、旦那様。旦那様は何を恐れておられるのかしら? どうか私に教えてくださいまし」
モルガナはガルヴォルドの胸に両手を置くと、そっと身を寄せた。
「温かいですわ。とくり、とくり、と心臓の音がします。私と同じ心臓の音が」
そしてモルガナはガルヴォルドから身を離すと、ふらふら歩きながら食堂があった場所から去っていく。
「旦那様! 初めては誰でも恐ろしいものですわ! ですが慣れてしまえば、とても素晴らしい体験ができますのよ!」
そう言ってモルガナはいなくなった。