鬼
大阪・ミナミ。ネオンの滲む雑踏の外れ、黒ずんだ三階建てが夜気を吸っていた。
表向きは空き事務所。ジャスティスにとっては全国に散らした拠点の一つ。
オフロードバイクを停めると、彼は一歩だけビルから距離を取って立ち、夜の匂いを吸い込む。
(屋上に2。三階踊り場に1。裏口に2。階段の影にも……火薬と油の匂い)
灯の小さな手が、彼のコートの端をそっと摘まむ。
「ここから先は、俺の家だ。言うとおりに動け」
灯はコクリとうなずいた。
一階の扉を押し開ける。1歩目の靴音で、天井裏がわずかに軋む。
ジャスティスは入ってすぐ左のベニヤを蹴り抜いた。中から小型ランチャー。
反対のドアが乱暴に開き、銃口がのぞく。轟音。廊下に爆風が走り、暗がりの影が壁に貼り付いたまま崩れた。
「ここは俺の寝床だ。ここでやるなら、場所を間違えたな」
ジャスティスはわざと大きな声で聞こえるように言った。
二階へ上がる折り返しで、ジャスティスは灯の肩に手を置く。
「――あそこだ」
踊り場の壁の、目立たないグレーのスクリーンを押すと、鉄のシャッターが静音で上がる。
中は電話ボックス一つ分ほどの狭い空間。簡易防弾材と医療用のバッグ、清潔な毛布。
「ここに入れ。音がしたら耳をふさげ。俺が戻るまで、出るな」
灯は小さく頷き、彼の袖を一瞬だけ強く握り、指を離した。
シャッターが落ちる刹那、階段の陰から二つの影。
ジャスティスは手すりを蹴って身を翻し、梁に掛けていた鉄パイプを引き抜く。
投げたパイプが狙撃の銃身を叩き折り、続く影の膝を砕いた。短い悲鳴、沈黙。
(屋上の二は動かない。――狙撃より監視の役か)
彼は階段を降りる。灯との距離を、常に頭の中で測りながら。
同じ建物の外、静かに路地へ滑り込む影が三つ。
悠と真理子、少し遅れて零士。
真理子がイヤーピースを指で叩く。「入るわよ。――灯は最優先。撃つのは脚。それ以外は打撃で落とす。いい?」
悠・零士「了解」
二階の通路で、三者が交錯する。
先に見たのはジャスティスだった。巨体は通路の灯りで陰影を濃くし、獣の静けさを纏う。
彼は背中で、さりげなく踊り場の“壁”を庇った。
「あんたがジャスティス?」真理子が拳銃を両手で構えながら言った。
そう言いながら指で2人散れと指示を送る。
「ガキを返せ、ジャスティス そこにいるんだろ?」悠が壁を指さし低く言う。
「返す先を見せろ。――沈む海でなければ、考える」
「ふざけるな」
「ふざけていない。あの子に向いた銃口を、俺は二度見た」
真理子が一歩前に出る。拳銃をホルスターに収納し両手は空。
「私たちは灯を保護しに来ただけや。あなたが邪魔をしている」
「ならば、俺の前に“保護する手”を見せろ。命令書でも契約でもいい。名前のある何かを」
「――現場にそんな紙は要らん。必要なのは判断と結果や」
沈黙。
次の瞬間、悠の前進。真理子の踏み込み。
二人の連携は一息で距離を詰め、銃撃と体術が綺麗に噛み合う。
ジャスティスは躱し、受け、後退しながらも、決して踊り場から離れない。
(灯から半径六メートル――この範囲で戦う)
悠のタップ連射を壁で死角化し、真理子の回し蹴りを肩で受け流す。
「……ほう」
短い感嘆が漏れる。攻撃の質は悪くない。だが、彼の視線は一度も“壁”から逸れない。
「下に追うな、零士!」真理子が叫ぶより早く、黒い影がふっと視界から消えた。
瞬歩――零士の踏み込みは風を切り、弾丸は空だけを穿つ。
「瞬歩か ふふ 面白な兄ちゃん」
「オオオオオオオ!!」
零士のラッシュ。正面からの連打に、ジャスティスが初めて片膝をつく。
「……面白い」
口元だけがわずかに笑ったその刹那、零士は気づく。
(――押してる? いや、誘導されている!?)
ジャスティスは、灯から視線を外さないまま、零士の猛攻を受け、わずかずつ通路の角度を変え、
やがて鉄扉へ――地下への階段口へ零士を導いた。
地下は吹き抜けだ。四角い空洞にコンクリの壁、天井からぶら下がる古い照明。
ジャスティスは踊り場に立ち、ふっと息を吐く。
「ここなら、誰も巻き込まない」
上の階で、灯のいるシェルターのシャッターが一枚、静かに二重ロックへ切り替わった。
彼が遠隔で操作したのだ。
悠と真理子も拳銃を構えながら駆け下りてくる。三人は灯の位置を把握したうえで、半円に散った。
「最終警告だ。灯を渡せ」と悠。
「あの子を渡して安全だという保障は?」
真理子が即答する。「する」
「その言葉は、海に沈む前に聞きたかったな」
短い沈黙。
零士が一歩、前へ。
「――言葉は要らない」
「ウオオオオオオオオオ!!」
ジャスティスは一気に気を解放した。じめッとした古いビルの空気が震える。
次の瞬間、地下全体が軋んだ。壁に亀裂、天井の照明が弾け、粉塵が雪のように舞う。
腕を広げただけ。なのに、周囲が崩れる。
悠・真理子・零士「!!?」
真理子が反射で灯の方向に身をひねり、防壁となる位置を取る。
悠はジャスティスの膝を撃とうと銃を下げるが、直前で引き上げる。――灯の延長線に、弾道が重なった。
零士はニヤリとしつつも背中には冷たい汗が噴き出ていた。
そして間合いを詰め直し、足運びをさらに速める。
(こいつは人間じゃない――しかし……)
零士の脳裏で、その言葉だけが鮮やかに固まった。
ジャスティスの目が、暗がりでわずかに光を帯びる。
ジャスティス「俺は迷わない。お前たちも迷うな。――来い」
衝突。
零士の連撃を、ジャスティスは寸前で払い、躱し、カウンターの軌道だけを殺す。
悠が側面から銃をかざすが、銃身をはたかれるより早く、自ら引いた。灯の方角が被る。
真理子が床を滑るように踏み込み、内転筋を刈りにいく。
(一撃で落とさない。灯を巻き込まない。押すだけ――)
彼女の決断が、ジャスティスに“刃ではなく重さ”として伝わる。
「……悪くない」
ジャスティスは一歩だけ、灯の延長線から自ら外れた。
瞬間、悠の弾がジャスティスの足下のコンクリを穿ち、粉塵の壁が立ちジャスティスの視界を奪う。
零士の拳がその粉塵の壁から抜け、頬をかすめる。
頬にわずかな血。ジャスティスが目を細める。「――なるほど」
床が軋み、吹き抜けの縁が崩れる。
ジャスティスは掌をひらき、指で空を掴むような動きをする。
空気が、地面が、重くなる。
三人の足元の感覚が変わった。踏み込みが重く、呼吸が浅くなる。
(圧……!)真理子が胸の奥でかすかに呻く。
彼はそこで止めた。圧だけで、倒さない。背後のシャッターの向こうに、小さな命がいることを忘れない。
「この子を殺させない。それだけは、俺とお前たちで一致している。この戦いで理解した。少なくともお前たちに灯を殺す意思が無いという事を。」
悠が歯を食いしばる。「だったら、なぜ渡さない」
「“渡す先”がまだ見えない。お前たちの盾は――責任か、信念か。俺の仕事は、そこを見極めることだ」
零士が低く言う。「……だったら、殴り合いで確かめる」
「それが早い」
二人が同時に踏み込む――その瞬間、地下の空間に、甲高いブザーが響いた。
ビル全体に仕込まれた侵入アラーム。上で別の気配が動く。
「――ハンドだ」ジャスティスの声が低く落ちる。
「ここでやりあえば、あの子に弾が飛ぶ」
真理子と悠が即座に視線を交わす。敵は共通――それだけで十分だった。
零士が拳を下ろし、短く頷く。「上だ」
ジャスティスは踵を返し、踊り場に目だけを向ける。
(……もう少しだけ、ここをもたせる)
遠隔の二重ロックに、さらに“時間稼ぎ”のギミックを噛ませた。
「貸しだぞ」悠が吐き捨てる。
「返してやろう。料理でいいなら」
「料理・・・?」
短い、場違いなやり取り。緊張がほんの一拍だけ緩む。
少し前、ひなた食堂の地下。
闇に白いモニターの光。天野紗季のキツネのアバターが、映像と文字列を次々に重ねていく。
『……やっぱり変。骨格線がずれてる』
高瀬が身を乗り出す。「どこだ」
『頬骨の出方。耳介の角度。歯の充填痕。一本、材質が違う。三年前の街頭演説の写真と、先週ここに来た“鳴海朔”の写真、両方から抽出。微差が多すぎる』
「整形じゃ説明がつかんか?」水月。
『つかない。歩容の癖も別人寄り。あと、声紋。公的演説の音声と、ひなた地下での会話――フォルマントが別カーブ』
高瀬は腕を組み、視線を床に落とす。「……やっぱりな」
真理子が目を上げる。「感じてたん?」
「ああ。目の奥だ。言葉の切れ目と、目の瞬きが合わない瞬間が何度かあった」
『警察には?』
「すでに依頼した。身辺の“生体”照合を別口で回してもらってる。――お前はお前で続けろ。無理はするな」
『無理はしない。最短でやるだけ』
紗季はさらに深部へ潜る。医療データベース、議員会館の入退室ログ、空港の顔認証。
合法と非合法の境界線をひたすら踏まないように踏みながら、グレーゾーンを全速で駆け抜ける。
数分、数十分――彼女の世界で時間は粘土のように伸びる。
『……出た』
高瀬が顔を上げる。
『“先週うちに来た鳴海朔”は、少なくとも“本物の鳴海朔”と一致しない。歯の治療履歴、耳介の角度、歩容、声紋――別人。
それと、入退室ログが変。国会議事堂から議員会館への移動時間、実測より短い。途中で誰かと“入れ替わってる”可能性がある』
沈黙。地下の空気が一段冷える。
水月が低く漏らす。「替え玉……」
蓮が舌打ちする。「あの野郎、最初から――」
高瀬はそこで、古い封筒を一つ、机の中から取り出す。ラベルに“PEDIATRICS/CONF”と手書き。
水月が目を丸くする。「何それ」
「昔の資料だ。因……いや、詳しくは後でいい。子どもの病だ。ライソゾーム病。家系に“異常”があると発症率が跳ね上がる、って話があってな」
「誰の“家系”」
「……さあな」
高瀬は封筒を閉じた。今は言葉にしない。確信がない時の彼の癖だ。
紗季が画面の向こうで肩をすくめる。
『とりあえず、結論。“鳴海朔”は本物じゃない可能性が高い。――以上』
「助かった。続きは警察筋の照会を待つ。……ありがとな」
『礼はあとで。忙しいんで』
キツネのアバターがふっと消える。高瀬が小さく笑った。「塩だな、相変わらず」
水月はフフッと笑った。
真理子は拳を握りしめて立ち上がる。「現場は?」
「ミナミの雑居ビルだ。――行くぞ。零士が今にも飛び出しそうだ」
雑居ビルの地下は、別の爆音で震えた。
ハンドが階上で突入を開始。自動小銃の短い連射、投げ込まれるフラッシュ。
ジャスティスは踊り場から、灯のシャッターへ視線だけを送る。
(――まだ静かだ。いい子だ)
「上に出る。お前らは右、俺は左。――かぶるな」
悠が小さく頷く。「勝手に仕切るな」
「勝手に生きてきたんでな」
短い嫌味を、短い皮肉で返す。奇妙に噛み合う。
コンクリの階段を駆け上がる三人と一人。
廊下でハンドの先頭が現れるより先に、ジャスティスは天井のスプリンクラー配管を撃ち抜いた。
噴き出す水。フラッシュの効果が落ち、視界の優位が消える。
悠が低い姿勢で滑り込み、脚を撃つ。真理子が手首を刈る。零士が顎を跳ね上げる。
三者三様、しかし“灯に弾道を通さない”という一点だけで、連携は瞬時に成立した。
ハンドは次々と襲い掛かって来る。
「しかしまあ 次から次へと……ウチなんか人材不足もええとこやで……」
天井裏から振り下ろされた刃を、ジャスティスが素手で受け止め、手首を逆に折る。
悲鳴。
彼は振り返らない。灯のシャッターがまだ静かなことだけを確かめ、先へ進む。
――その時、廊下の先の非常扉が、音もなく開いた。
艶のある黒い影。仮面。右唇の横に小さなほくろ。
ボンテージめいたエナメルのツナギに、谷間の天使のタトゥー。
女が静かに立っていた。腕にはまだ不自然なぎこちなさ。
ジャスティスは目を細める。
「ああ アンタ たしかこの前……」
「裏切り者。――」
女の声に、廊下の空気が冷える。
そして視界からフッと消えた。
ジャスティス「しまった、灯のほうへ抜けられたッ」
その時、天井裏で「ウッ…」といううめき声と共に灯のいる踊り場にハンドの戦闘員が落ちてきた。
その後に続いて黒い影が着地した。
ハンドの女はもう一歩のところで黒い影に妨げられた。
「ここは私にやらせてもらえます? ママ?」
仮面は被っているが、水月だった。




