手
深夜の研究施設。
鋭いアラームが鳴り響く中、一人の影が走っていた。
全身黒ずくめ、身のこなしは軽い。
追いすがるセキュリティ兵を、短剣と銃で次々と沈めていく。
「……チッ、厄介だな、割に合わねーよ こりゃ」
その男はただの雑魚ではなかった。
鍛え上げられた肉体と反射神経、数人の武装警備員をものともせず倒す力。
だが、角を曲がった瞬間――。
「ッ!」
仮面の一団が立ち塞がった。
黒い覆面の額には赤いペイント――「手」の印。
瞬きする間に包囲され、鋼線と衝撃棒で動きを封じられる。
「ぐっ……!」
必死の抵抗で二人を叩き伏せるも、残りの仮面が容赦なく関節を極めて押さえ込む。
施設の地下。
拷問室に引きずり込まれた男は、椅子に縛り付けられた。
鉄具が焼かれ、皮膚を焦がす音。
「ぐあああ!!」
「お前がこんな所に何の用だ、誰の依頼だ? こいつか? こいつか?」
仮面の男は次々に写真をめくっていく。
そのうちの一人の写真に賊は一瞬、表情を変えた。
普通の人間にはわからないほどの微妙な変化を仮面の男は見逃さなかった。
「やはり“あの男”か」
その名が、闇の底で鈍く響いた。
◆
新宿・歌舞伎町。
ネオンと酒の匂いに満ちた雑踏の中、裏路地にひっそりと佇むバーがあった。
外から見れば古びた酒場。だがここは、コンコードの暗部組織――”ハンド”の溜まり場のひとつだった。
ここだけでなく、この辺り一帯と言った方がいいだろう。
分厚い扉を押し開けた瞬間、ジャスティスの耳に酒場特有のざわめきが届いた。
一瞬静まり返った気がしたが。
しかし彼には分かっていた。
客の半分は“客”ではない。
右手のカウンター、二番目のスツールに腰掛けた若者。
入り口すぐのテーブルに並ぶ二人組。
トイレに立つ男。
そして酒場のあるビルの向かい、歩道に屯する三人の影。
――七人。
全員、ハンドの構成員。
店に入って来た彼を見てないようで見ている。
彼は眉ひとつ動かさず奥へ進む。
大柄な体が照明を遮り、影を落としただけで、カウンターの氷がかすかにカランと鳴った。
重量物が移動するように床が軋む。
「来たな、ジャスティス」
奥のテーブルで煙草をくゆらすスーツ姿の恰幅の良い男が声をかける。
その響きに畏敬も親しみもない。ただ「任務を伝える」という灰色の響きだけがある。
ジャスティスは無言で腰を下ろす。
椅子が軋む音とともに、コートの裾から黒いホルスターがちらりと覗いた。
カウンターの若者の喉がひくりと動いた。
男は分厚い封筒をテーブルに滑らせる。
男の太い指には趣味の悪い太い金の指輪がはめられている。
その指輪の平らになった部分に「手」の形をした刻印が彫ってあった。
封筒の中には分厚い札束と一枚の写真。
黒髪の少女。
場所は大きな屋敷の門の前。
「依頼は単純だ。その子を連れて来い。大物議員の孫娘だ。――公式には存在しない孫だがな」
ジャスティスは写真を眺め、無言のまま息を吐いた。
「ガキ一人をさらうのに俺が出張る必要あるのかい?」
本来なら下っ端が片付ける仕事だ。
「まあ 金さえくれれば俺はなんでもいいがね……」
要人暗殺。組織壊滅。死の執行――。
それが今夜は孤児一人。
「じゃあ受けるか?」
スーツの男が形だけの問いを投げた。
答えは決まっている。
彼は短く頷いた。
この子を拉致し、所定の場所まで持ってくる。
それだけの事だ。
その仕草一つで、カウンターの若者は目を逸らし、入り口の二人組は酒を飲む真似をして顔を伏せた。
外の歩道の影が携帯を握り直す気配さえ、ジャスティスは感づいてる。
(まあ いつもの事さ……)
「……ジャスティスが動く」
誰かが小さく呟いた。
酒場の空気が一瞬、凍りつく。
彼は封筒をコートにしまい、ゆっくりと立ち上がった。
椅子がギギッと軋む。
そしてグラスの酒を一気に飲み干した。
大柄な体が蛍光灯を遮り、影が伸びる。
「また連絡する」
外に出た瞬間、夜の新宿の喧騒が押し寄せる。
夜の新宿。
ネオンの光が濡れた路地を赤や青に染めている。
ジャスティスはタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。
――街の気配が変わっていた。
つい先ほどまで耳障りなだけだった酔客の笑い声や、客引きの怒鳴り声。
今はそのどれもが、自分を遠巻きに監視する視線に変わったように感じる。
通りを渡る人間の足取りが一瞬乱れ、視線を逸らす。
ビルの影に溶ける若者の動きが妙にぎこちない。
ジャスティスは周りのビル群を見上げた。いつもと変わらない街の喧騒。
(……)
胸の奥で小さく舌打ちする。
これは気のせいではない。
街全体が、自分に向けた殺意を持ち息を潜めている――そんな感覚。
そして、不意に脳裏をかすめた。
(ッ……失敗か)
そして今回のコンコードからの依頼への違和感。
わざわざ俺を動かすよう仕向けてきた。
その意味を考えれば――。
煙を吐き出し、口元がわずかに歪む。
「……どうやら今回の仕事が、俺にとって最後になりそうだな」
わざと間を置いてから、低く付け足す。
「で――俺にはいくらついてるんだ? 懸賞金が」
吐き捨てるように言って、ふと振り返った。
そこには――誰もいなかった。
だが確かに感じた。
さきほどまで背後に貼りついていた“目”の数々が、一瞬たじろぎ、気配を引っ込めたことを。
まるで獣に睨まれた獲物のように。
「……フン」
短く鼻で笑い、ジャスティスは歩き出す。
コートの裾が夜風に揺れ、巨影をさらに濃くした。
その背を、遠くからまだ幾つもの視線が追っていた。