77羽目:忘却の聖女
みぃ視点のお話ぴよ
「その名前、一体、どこで……?」
私の問いに、セレナさんはしばらく沈黙した。
窓から差し込む太陽の光が、冷めかけた紅茶の水面に反射する。目を細め遠くを見つめるその横顔は、まるで記憶の断片を必死に探しているような、遠い眼差しだった。
「エルフってのもあンだが……あたいは長く生きてるからなァ。実際に見ていたんだ。まァ、全部は覚えてねェがな」
「よければ、その話……聞かせてもらえますか?」
私はそっと身を乗り出し、彼女の話を聞く。セレナさんはしばらく沈黙した後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「思いだそうにも頭の中に霞がかかったみてェで、その間の記憶もぽっかり抜け落ちてるンだが……」
彼女の瞳はどう言葉を紡いだらいいのか迷っているように見えた。その言葉に、私はコクッと小さく頷いた。
「覚えてるのは、街が黒い炎に包まれていたこと。あたいは神殿で街の人たちを治療してた。けどな……気がついたら、すべてが終わってたんだ。何も間の記憶がない。ただ……何かを忘れちゃいけねェって気持ちだけが、ずっと残っててナ。これが何なのか知りたくて神殿を調査してンだ」
「なるほど……それが調査をしている理由なんですね。私の師も、セレナさんと同じようなことを言っていました……」
すると、セレナさんの瞳が見開かれ、ふっと優しい笑みがこぼれた。
「……もしかして、グラウスってやつか?」
「彼をご存じなのですか?」
「やっぱり、そうだったか。アァ、あたいが数百歳のまだ若い修道女だった頃によォ、教えてたガキの一人だ」
懐かしむように語る彼女の瞳は、とても優しい色をしていた。かつてセレナさんが教師として奉仕していた教会の学校は、金銭に余裕がなかったり、身寄りのない子供たちや、街の学校になじめない者たちの学び舎だった。
「あのガキは不愛想なくせに、才能は化け物級だったんだ。普通は片方だけだ。でも、あいつは両方持ってた――奇跡だよ」
セレナさんは懐かしむように笑った。
「もう一人いたな……あいつの伴侶になった子だ。力は何もなかったが、人の心に寄り添うことだけは誰よりも強かった……あの子たちがいたから、あたいは修道女を続けられたんだ。気が付いたら聖女様なんつー立場になっちまったがよォ。たくっ、柄にもねーっつーのに」
セレナさんは太ももの上に両手を揃えて置き、溜息をつきながらヤレヤレといった表情を見せる。だが、その所作にはどこか気品が漂っていた。言葉遣いとのギャップが、妙に魅力的だった。『頑固なあいつを頼むわ』と託してくれた、あの人にとてもよく似ている。
そういえば、どうして私がグラウスさんの弟子だとわかったのかしら?
「セレナさんは、どうして弟子だと気づいたんですか?」
「その片眼鏡の紋章、あいつに教わったンだろ? あたいが教えてた頃に、ボウズが編み出した紋章でよ。いつもは不愛想なクソガキが、この時だけは子供らしい笑顔だったゼ」
「ふふっ、グラウスさんらしいね?」
「だね」
隣に座っているルーイに問いかけ、お互いクスッと笑った。素直じゃない所は昔からみたい。
「アァ……まァ、口は悪かったがよ」
セレナさんは懐かしむように微笑み、立ち上がった。両手をお腹の前で揃えて、少しだけ背筋を伸ばす。
「ちょっと、あたいについてきな。ローとボウズが認めた二人に頼みてェことがあんだ」
「「えっ?」」
「聖堂の地下に、神殿の石碑があるンだがよ。『失われし光の戦い』のあたりに造られたもんでな。つい最近それを見ていて……少しだけ記憶が戻ったンだ。さっき『何かを』って言っただろ? それが大切な人だって事を思い出したんだ……」
彼女の声にはどこか切なさと愛おしさが滲んでいて、私の胸の奥に静かに響いた。大切な人との思い出がある日突然消える。その人が存在していたことすらもわからない……。隣を歩くルーイを見て喉の奥がギュッと締め付けられる。
あなたが事故に合った時ですら、もう会えないかもしれないと思っただけで怖かった……なのに、出会った事が思い出せない何て想像すらできない。このざわつくような気持ちを表すこともできず、私は服の裾を握るしかなかった。
気持ちを落ち着かせていると、先ほどの礼拝堂にたどり着いていた。そして、セレナさんは女神像の前で立ち止まった。
「思い出してから、あの神殿には、あたいの記憶を繋ぐ何かがある気がしてナ。祈りの言葉も、石碑も……全部がヒントなんじゃねェかって」
そう言いながら、手慣れた様子でロウソク台を奥へ押した。ガコンという音とともに、石像の後ろの壁が開き、地下へと続く階段が姿を現す。
先ほど、ルーイが見つけた隠し部屋が、まさか目的の部屋だったなんて思いもしなかった。相変わらず、よくわからない運だけは飛び抜けてるのよね。試験範囲の山勘も当たるからやっぱり鳥運と引き換えに吸われてると思うの。大学の時に、彼女の勘に乗っかって助かったこと、何度もあったのが懐かしいわ。セレナさんの言葉を聞いてから、些細な記憶すらも愛おしく感じるようになった。
「こっちだ。同じような石碑は裏庭にあるけどよォ、本物は文献的に貴重だからな、公の場には出せねェんだ」
地下の階段に足を踏み入れると、ひとつまたひとつと照明クリスタルが淡く光り出し、辺りを照らす中、古書閲覧室で見た球体のクリスタルがはめ込まれた扉をいくつも通りぬけた。
「……記憶が戻る前はいつもこの場所に来ると、胸の奥が、ぎゅっと掴まれる気持ちになってたンだ。きっと、あたいの中にあった記憶が見つけて欲しいと訴えていたのかもナ。まぁ、まだ全部思い出せてねェけどな……」
セレナさんは背中を向けているため、表情は見えないが、その声からはどこか切なさが混じっている気がした。やがて辿り着いた地下の部屋は、静寂に包まれていた。部屋の中央には、星空を閉じ込めたような、石碑が静かに佇んでいる。かつて洞窟の奥深くに祀られていたそれは、今はこの聖堂の地下に移され、祈られる事もなく人々の足元でひっそりと時を過ごしていた。
「コイツが、神殿から持ち出した石碑だ」
近づいて見ると、そこにあるのはただの黒い石板で、文字などはどこにもなかった。中庭で見た時は、内容までは見えなかったが、白い石に文字のような物が刻まれていた記憶がある。疑問に思い首を傾げていると、セレナさんは一歩進んで石碑の前に立ち、静かに石の表面に指を滑らせた。
――すると。青い光が、星の川のように石碑を流れ、文字がひとつずつ浮かび上がった。
その石碑にはこう刻まれていた。
我らの水の魂よ、深き悲しみを抱きし者よ。
黒き炎が世界を埋め、悲しみの涙は海を満たした。
あなたはそのすべてを受け止め、静寂の底に沈めた。
その涙はやがて波となり、光を映す導きへと変わる。
我らはその悲しみを忘れず、恵みに感謝し、明日を照らす希望と共に歩まんことを――ミレア・ノヴァ。
石碑の最後の文字を指で優しくなぞりながら、セレナさんはポツリと呟やいた。
「ミレア・ノヴァは希望の星って意味なンだ。昔の祈りの言葉でよォ、悲しみの海に沈んだ魂を、光で導くって言われてた。あたいは、あの日誰かと一緒にいた……とても大切な……あたいの、ミレア・ノヴァだった人だ」
私はセレナさんの横顔を見つめながら、胸の奥に静かな波が広がるのを感じていた。石碑の青い煌めきが、彼女の瞳に映り込んでいる。
希望。
それはとても優しく、重い言葉だった。でも、その言葉が、胸の奥で静かに灯り続けていた。まるで、消えない星の光のように。
次回は月曜あたりに更新予定です。




