0. 序
「王よ、どうかご決断を」
玉座を前に拝跪し、初老の男は言った。それは切なる願いを湛えた、民と臣下の総意を代表する言葉であった。
「エルフの里からの返答は未だ届かず、同盟の望みは薄いかと」
「魔族相手にあの迷いの大森林が戦場となれば、我が軍の力のみでは……」
初老の宮宰の後ろに控える壮年の騎士団長が、頑健さを感じさせる相貌を沈痛な面持ちに歪ませ、後に続く。その噛み締めた唇と握った掌に滲む血は、自らの不甲斐なさに対しての憤りの顕れにほかならない。
「伝説に従う時が来たのです」
「今こそ、召喚の儀を。我らを導く光を!」
「我が国に聖なる加護の力を!!」
堰を切ったように方々から上がる声を聞き届け、玉座の肘掛けに置かれていた手が、厳かな気配を纏っておもむろに挙げられる。瞬きののち再び静粛さを取り戻した広間に、その決意に満ちた一言は響き渡った。
「──これ以上、我が愛する民を怯えさせるわけにもゆくまいな」
「ッでは……!」
諸侯や臣下たちの期待に満ちた眼差しを一身に受けた王は、左の親指に嵌められた紺碧の宝玉が輝く金の指輪を抜き取ると、玉座から腰を上げ。玉座の両脇に連なる者のうち、ただ一人を見据えた。
「エズラド」
「ここに、我が王」
王の呼びかけに応え、その御前にエズラドと呼ばれた男が歩み出る。怜悧な光を湛えて煌めく緑色の瞳を伏せ、跪いたその男に向かい差し出された、王の拳。
「召喚の儀、そなたに任せよう」
「……誉れ高き大役、しかと承りました。王より賜りし宮廷魔導士長の冠に誓い、必ずや──」
恭しい仕草で、受け皿のように掲げた両の掌の上に。確かな重みを持った指輪が一つ、預けられた。
────
──
《いと尊き勇者様、聖女様。どうか……どうか我らを、悪しき魔族の脅威より、お救いください》
「うん……?」
「どうしたの、おねーちゃん?」
ふと誰かに呼ばれたような気がして、足を止める。けれど周りを見ても、その『誰か』と目が合うことはない。ただの思い過ごしだろうか。
前を歩いていた妹、美月が不思議そうな顔で振り返ったのに、実豊はへらりと笑顔を向けた。
「あ、ううん。何でもないよ。それより美月、そのケーキ屋さんの閉店時間って何時なの?」
「えっとねー。今日は月曜日だから、十八時まで!」
「……一応聞くけど、今日祝日だっていうのは覚えてる?」
実豊の指摘にはたと足を止め「すっかり忘れてました」と素直に顔に浮かべた美月が、手にしたスマホの画面を見直し、小さく呻く。
「祝日は、十七時閉店……ねえいまなんじ」
「十六時四十分だね」
「やだもう嘘でしょ!? ああごめん、とにかく急がないと!」
「落ち着いて美月! 走っても間に合わないだろうしもうタクシーで、」
慌てて走り出した美月が飛び出した先で、赤に変わった信号機。そして、そこへ迫る一台の──。
「美月ッ!!」
足に纏わりつくスカートがめくれ上がるのも気にせず全速力で駆け、細い腕を掴み互いの位置を入れ替えるように、その身体を歩道へと引き戻して。
「お兄ちゃん……!」
奇妙な浮遊感に包まれる。
愛しい妹の必死な叫び声が、いやに遠くで聞こえた気がした。