第二膳 お礼
今年高校に入学し、一人暮らしを始めた俺のマンションの隣には、一人の天使が住んでいた。
何故これまで気付かなかったのかは甚だ疑問だが、高梨さんにあんな一面があったのも驚きだ。まるで食欲旺盛なリスだ。
まさかお腹が空いて倒れるほど追い詰められていたのか……? と思うと少し心配だったが、やはり他人の事情にあまり首を突っ込むべきでは無い、という結論に至った。
「二度と話すこともないだろうから、気にするほどじゃないか」
頬杖つきながら、相変わらず大人気な少女を見つめていると、ぱしっと背中をはたかれた。
「なーに黄昏てんだ? 梓人」
「蓮か。びっくりした」
「おぉー、びくってした。かわい〜」
「うっせ。急に背中を叩くな」
こいつは大葉蓮。いわゆるリア充という立場に属する勝ち組である。俺のようなモブにも絡んでくれる良い奴だ。
友人と言えるような友人はコイツともう一人だけなので、学校ではこいつら以外と絡むことは滅多にない。
「てかお前、高梨さんに興味あんのか? 見つめてたけど」
「あ、いや、大変そうだな、と思って」
「確かに。俺もりんりんと居る前は大変だったからな。気持ちはよくわかる」
「モテ自慢はやめろ」
りんりんというのは蓮の彼女、北宮花梨のことだ。蓮が一方的にアプローチをかけ、ようやく去年から付き合い始めたらしい。クラスが違うこともあってあまり話したことはないが、俺は可能な限りあの女に関わりたくない。
ボーッと眺めていると、天使様を囲む生徒の集団を割る者が一人。
「やぁ、僕の天使様。今日も変わらず麗しいご様子で!」
「ありがとうございます、金崎さん」
あの歯の浮くような台詞をサラッと言ったのは、金崎涼太。金髪のイケメンで、金崎グループの跡取り息子である。
高梨さんとはよくお似合いだ、と言われており、クラスの二大美形である。(俺が勝手に呼んでるだけ)
ちなみに、彼女が『天使様』と呼ばれるようになったキッカケもコイツ。毎日のようにアプローチを掛けているが、高梨さんは涼しい顔で流している。
程なくして担任が現れ、天使様に群がっていた生徒たちも席に戻った。
さて、今日も頑張りますか。
◆
くぅ〜、と可愛らしい音が鳴ったのは数学の授業中の事だった。
聞き覚えのある音。今朝も聞いたものだ。そう思って件の少女の方を見ると、薄く頬を染めて俯いていた。
「今誰かお腹鳴った?」
「後ろの方じゃなかったか?」
クラスの雰囲気的に彼女だとはバレていないようだ。大げさかもしれないが、羞恥と同時に怯えているようにも見えた。ので。
「ごめんなさい、俺です。授業止めてすみません」
「なんだ篠宮か」
つい庇ってしまった。お節介かも知れないが、身体は先に動いていた。
◆
昼休み。予想通り俺は、蓮にイジられる羽目になった。
「おいおい梓人く〜ん。そんなにお腹空いてたのかい? 俺がメロンパン奢ってやろうか?」
「砂糖がこぼれるから要らん。さっさと食堂行くぞ」
「そんなに恥ずかしかったのかー? おいおい」
「次はない」
「さーせんっしたぁ!」
俺は素早い変わり身を見せた蓮を伴って教室を出る。背中に一つ視線を感じるが、我関せずと食堂に向かった。
◆
放課後。買い出しを済ませエレベーターを上がると、俺の部屋の前に誰かいた。
「あれ、天──じゃなくて高梨さん。どうかした?」
「あの、昼間! 数学の授業のとき、庇ってくださってありがとうございました。その、お礼を言いに……」
「そのためにわざわざ待っててくれたの!? 別に気にしなくて良いよ。俺が勝手にした事だし」
「でも、貰ったら返さなければ行けません」
と言って握り拳を差し出す高梨さん。俺が手を伸ばすと、そこに硬貨が一枚落ちてきた。
「え、俺恩を売って金を貰う守銭奴とか思われてる?」
「いえ、決してそんな事は! その、私、お礼の仕方を知らなくて……」
と申し訳無さそうに俯く高梨さん。俺はズバリと言っておくことにした。
「ありがとう」
「へ?」
「それだけで良いよ。綺麗な女性にお礼を言われるだけで俺は十分」
「じゃ、じゃあ男性はダメなのですか……?」
「いやそういう訳じゃ無いけどさ……とにかく、お礼がしたいなら“ありがとう”でいい。それだけ」
「で、では、ありがとう、ございました……」
「お、おう」
もじもじと恥じらいまがらお礼を言う彼女を見ていると、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
「わざわざありがとな。じゃ」
「あ、いえ。では」
逃げるように彼女と別れ、俺は自分の家の玄関に滑り込む。
「はぁ……本当に何やってんだろうな」
関わることもないと思っていた天使様。隣に住んでいたことにもビックリしたが、クラスの皆がお近づきになりたい、と思う気持ちが少しわかった気がする。
あの整った容姿だけが彼女の魅力では無いのだ。
「はぁ、熱っつい……」
頬に残る熱は、しばらく尾を引くことになりそうだ。