就学編5 (深町正の自叙伝)
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中学部に入学した。死亡、転校、その他の諸事情で、小学部の入学当初より学年で5,6名減っていた。
初めてのクラスがえがあった。
3組は変わらなかったが、旧1組と旧2組はシャッフルされた。知的な部分だけを重視したクラス編成を尼崎養護学校が見直したのだ。それ自体はいいことだが、授業によって旧1組と旧2組のメンバーでしたり、新クラスでしたり、合同でしたりで、私たちはしばらく混乱した。
クラスがえは、私には都合がよかった。一緒に川西から通ってた人騒がせな女の子と違うクラスになれたからだ。
そいつにはクラス全員が被害を被っていた。
小3の時は、プールの中でそいつが水を怖がり暴れて、反動で担任がプールの淵で首を打ち、むちうちになった。私のクラスは三カ月担任不在で、授業も遅れた。
小4の時は、ある日、何の前触れもなく、母に真夜中にたたき起され、いきなり往復の平手打ちを食らった。まだ寝ぼけてぼーっとしている私に「あなたたち!~~ちゃんいじめたでしょ!」と母は鬼の形相でまくし立てる。しかし、私にはまったく身に覚えが無い。居間に引きずり起された私は、父が電話の応対しているのを見た。電話口からそいつの鳴き声とその両親のヒステリックな喚き声が聞こえていた。私の母は私に事情も聞かず、ただ自分の気が治まるまで往復の平手打ちとまくし立てを続けるしか脳が無い、親としては最低の行動パターンだった。こういう母だから仕方が無い。母はこういう最低の行動パターンをしばしばとっていた。父は冷静だった。「こんな夜中に泣く子供のそばで電話してくるとは失礼だ!常識が無い!子供たちの事に親がしゃしゃり出てくるのはどうかと思います。子供たちに解決させましょう」と言い受話器を置いた後、母を制止し、思い当たることが無いかどうか私に問うた。「ないよ!授業中は先生がいるし、休み時間はお母さんとそいつのおばちゃんも来ているのに・・・・・」不条理にたたかれたことに対しての、精いっぱいの私の苦情だった。母はハッとしていたがもう遅い。そういうことの積み重ねが、私の中での母への不信感を増幅させていくのだった。無理やりたたき起しといて、「わかった、もう寝なさい」と言われても、寝れるはずもない。安眠を邪魔されたのと相まって、私の怒りは当然のことながら、その親子と私の母に向かった。その後もう一回電話があったが、「非常識ですね!」という父の一言でかかってこなくなった。その夜、私は寝ることは無かった。あくる日からそいつはしばらく学校を欠席した。学校に行くと、クラス全員に眠そうにしていた。原因は私と同じだった。全員の怒りがその親子に向けられていた。担任も眠そうだった。私のクラスは5人。そいつと私以外、自力歩行ができた。住んでる地域もバラバラでさらに障害が足かせとなり、学校から帰れば孤立してしまう。クラスメイトと遊んだりしゃべったりができるのは、授業と授業の合間の休み時間しか無い。当然自力歩行ができる子は授業終了のチャイムが鳴ると同時に飛び出していく。といっても校庭に行く時間は無く、教室の前の廊下で遊ぶだけだった。私は必死で床に転がってでも彼らについていき、遊んでいた。みんな何度かそいつも誘ったのだがのってこなかった。そのうちだれも誘わなくなった。のってこないのだから仕方が無い、私を含めてみんな自分が遊ぶのに精いっぱいだった。毎休み時間、そいつは教室で一人本を読んでいた。担任によるとそいつの親の言い分はこうだつた。そいつが夜中急に泣き出し、理由を聞くと、みんなが遊んでくれないから淋しいのを思い出して泣いた、よってたかってうちの子をのけ者にするのはやめさせろ、ということらしい。私を含めてクラス全員困惑と怒りのなかにあった。担任も、そいつがみんなの誘いを何度か断っていたのを見ていたから、困惑の色を隠しきれないようだった。その時はなんとか担任がうまくおさめた。しかし、同じようなことが続くと、私を含めてクラス全員がまた真夜中に電話をかけけられるのではないかという猜疑心を持ち、次第にそいつを敬遠するようになるのは当然の結果だ
小6の時は、そいつのお母さんが学校で火傷を負い、私の母が私も早退して一緒に帰った時のことだった。母が付き添いそいつのお母さんを病院に連れて行く為、私はそいつとそいつの家で留守番する羽目になった。母たちが出かけてすぐ「やっと二人っきりになれたね」とそいつは言った。私はぞーっとして後退りした。気持ち悪くなった。お母さんが病院に行ったのにそういうことが言える神経が、私にはまったく理解できない。
その場はなんとなく受け流したが、以来私は、生理的にその子を受け付けなくなっている。
だから、中学部に入学しクラスがえがあったことは、私には非常に喜ばしい事だった。
それに、親友とは違うクラスになったけれど、私と一番よくしゃべっていた女の子とは同じクラスになった。ほかのクラスメイトも気のおける奴らばかりたった。
担任は九州なまりで、破天荒で熱血の新人教師だった。
宿題を忘れて、罰で足首を持たれて二階の教室の窓から逆さ宙づりされ、それが楽しみでわざと宿題を忘れたりしていた。担当教科は英語だったが、うちにふらっと来て「お前、本、読まないと言っていたなっ。これ、気が向いたら読め。おもしろさは保障する」と言って、手塚治虫の火の鳥を置いて帰った。最初は仕方なく手に取ったが、私が火の鳥にハマるのにそんなに時間はかからなかった。それがきっかけとなり、文章に興味を持ち、今これを書いている。
美術の時間では、ますます絵にのめり込んだ。特に、友達の肖像を描くという課題には没頭した。やんちゃな親友から急かされながら、二ヵ月がかりでそいつの顔を得心行くまで描いた。自分ででも何かをつかめた。それは、ささやかではあるが、私にとって大きなものだった。
本格的に絵をしたいという思いは、つのるばかりだった。
そいつはそのあと自分の為に全寮制の兵庫県立播磨養護学校へ転校した。
私の中で、漠然とした暗雲のようなものが、広がりつつあった。しかし、私自身それへの自覚はまだ無かった。
川西市では、もう養護学校が着工していた。
国が養護学校義務化を施行する1年前に開校という、非常にこそくな時期の予定であった。
国が養護学校義務化を施行するということで、「考える会」は方針転換を迫られ、養護学校新設後や義務化後でも普通校への門戸は閉ざすなという運動に変わっていった。
養護学校を要望していた私たちの母たちはそれを「負け犬の遠吠え」と称していたが、私は統合教育を望む切実な思いを感じたし、勝ち負けの問題ではなく、考え方が違っただけで、障害児の教育の保障という目的自体は同じだった。
私も養護学校新設を待望していたのではあるが、もろ手を挙げて喜ぶ状況にはなかった。
またもや、川西市教育委員会に愕然とさせられた。
川西市教育委員会の説明では新設される養護学校には、小・中学部しかないという。高等部を創るには、市の権限だけではなんともならず、県の認可が必要ということだった。開校時には私を含む最初に尼崎養護学校にいった4人は中3になっている。そのことは川西市教育委員会も承知していたうえで、県の認可を得ようとしていなかった。転校しても1年しかない。そういった不安要素を考えると、心中複雑だった。
家では、ある日父が「今日は接待ゴルフだ」と言っていつものように家を出たのだが、何かおかしいと感じたのか母があとをつけた。案の定、大胆にも家の近くで女の車に荷物を積み込む父がいたらしい。母は無言で助手席を占領した。父はうろたえ、運転席の女は困惑していたらしい、「何処行くの!早く車出せ!どうせこの車も私の夫に買わせたんでしょ!だったら私も乗る権利がある!違う?」そう言い放つと母は居座ったそうだ。修羅場とはこのことたろう。父は家庭より心のよりどころを選んだのだ。
それから、ますます、父と母の関係は、悪化の一途をたどっていった。特に母は、父への不信感をあらわにした態度をとっていつた。
尼崎養護学校では、親や家族の負担軽減と生徒の自立の為、介助員制を徐々に作りつつあり、この頃は母が来なくていい日が増えてきていた。父のこと、妹のこと、家のこと、しようと思えばする時間はできた。しかし、しようとはせず、私が着いて来るのを断っても、教師が家に居ることを進めても、まるで義務として強いられているように母は毎日養護学校に着いて来ていた。外見には立派な母に見えていただろう。実際外見だけを見ていた人には、いまだに立派なお母さんだと言われる。しかし、事実はそうではない。当時養護学校には控室という親が待機する部屋があり、そこが母たちの社交場と化していた。父のこと、妹のこと、家のことをせずに、控室という社交場へ入浸る都合の良い理由に、私はされていた。事実そのことで私と言い争ったとき、母は「学校に着いて行かないと近所に何を言われるかわからないし、学校のお母さん達にも何を言われるかわからない。家に居たら家事をしないといけないけれど、学校に着いて行けば家事をしなくて一日遊んでいても誰からも何も言われない」と言っていた。母は家庭より快楽や世間体を選んだのだ。
私はそんな父母が、嫌で嫌でたまらなかった。
かといって、漠然とではあるが自分の障害を自覚しつつあった私は、そこから逃げ出すことすら考えられなかった。それまで描いていた将来展望は、自分の障害を自覚するほど絵空事だったことを思い知った。
私の目の前に広がるのは、明るい未来ではなく、少しでも足を踏み入れればどこまででも吸いこまれていきそうな底なしの漆黒の闇たった。
未来など考えられなかった。
まだ不安を自分ではどうすることもできなかったから、将来についてできるだけ考えないようにしていた。
底なしの漆黒の闇から、ただ逃げていただけだった。ただ,絵はしたかった。
そうこうしているうちに、中二の三学期も最後を迎えた。
その頃には、川西市から尼崎養護学校に通う児童生徒は、二十数人になっていた。これは、全校生の1割を超える人数だった。そんな人数が、一気に新設される川西市立川西養護学校に転校するのだ。
尼崎養護学校は、川西市からの児童生徒を全校あげて、温かく見送ってくれた。ただ残念なことは、私のゆいつの8年間ずっとクラスメイトだった女の子が、足の手術を受けて一ヶ月前から入院していて、この日も欠席していたことだった。
私の担任を含む4人の教師も、移ってくれることが決まっていた。それは、私たちにとって、非常に心強いものとなった。
在学していた8年間の思い出が詰まる校舎を後にする時、自然と涙がこぼれた。
高等部の問題は依然目処が立たないという不安を抱えたまま、尼崎養護学校を去った。
1978年3月、春の穏やかな風が吹いていた。
同年4月、川西市立川西養護学校が開校した。
開校してまず驚いたのは、あれだけ川西養護学校建設に長年反対してきた「考える会」のメンバーのうちの肢体不自由児が何人か、入学や編入してきたことだ。本人はともかく、その母親らが手のひらを返すように当然の如く、校内を恥ずかしげも無く闊歩しているのを見て、私は腹立たしいのを通り越し大いに呆れた。その母親らの神経の図太さには敬服するとともに嘲笑を禁じ得なかた。
この母親らは川西養護学校の開校が決定した直後に、「考える会」を離脱したらしい。
この母親らにとって統合教育とは、いったい何だったのだろうか?川西養護学校の開校までに費やした時間は何だったのだろうか?そもそもいままでの争いは何だったのだろうか?あまりのばかばかしさにその母親らの精神を疑った。
介助員制はまだ普通校にはまだ波及していなかったことから、おそらく「考える会」内部の主導権を握る知的障害児の親たちと少数派の肢体不自由児の親たちとの間で利害の溝が生じたのだろう。「考える会」の肢体不自由児の親たちが本気で統合教育を推進しようとしていたのであれば、普通校に入ってその中で介助員制導入に向け働き掛けていくべきだろう。しかし、この親たちにはそんなに統合教育に思い入れは、はなから無かったようだった。
利害や苦楽によって、人はこうも簡単に、恥も外聞も無く、裏切ったり主義主張を変えたりできるものなのか。
私は人の本性を見たような気がした。
とにかく川西養護学校での学生生活が始まった。
全校生あわせて30人程度だった。
人数が少ないから、一学年一クラスだ。私のクラスは4人と1人だ。
4人は、最初に尼崎養護学校にいった4人だ。あの私が生理的に受け付けない奴も含んでいる。
1人は、経緯はわからないが私が小6の頃位に尼崎養護学校の一つ上の学年に編入してきた奴だ。本来なら高等部1年生だが、川西養護学校には高等部が無かったため、中途半端な身分のまま通学を認められていたようだ。
担任は、尼崎養護学校からの担任と、か細く繊細そうな女教師と、たくましそう女教師の三人だった。か細く繊細そうな女教師とたくましそう女教師は、障害児を扱うのは初めてらしく、初めて私たちと顔を合わせたとき、目か泳いでいた。やはり、不安だったのだろう。尼崎養護学校からの転任者の4人の教師を除けば、校長・教頭を含む川西養護学校のほとんどの教師が、障害児と接するのはたぶん初めてだったろう。
川西養護学校の障害児教育は、手探りの状態からのスタートだった。
か細く繊細そうな女性教師は音楽の教師で、たくましそう女性教師は国語の教師だった。音楽の教師は私の担当らしくて学校行事のときは私に着いてくれていた。休日にも時々外へ連れ出してくれた。語弊はあるが、当時学校の中に、私と対等に話し合え高め合える友達はいなかった。それを察した私の担当の教師は公私にわたって人として付き合ってくれていた。自然といろんなことをしゃべった。その中で、詩を書く事を進められ、書き始めた。
国語では夏目漱石の「ぽっちゃん」「吾輩は猫である」を習い、自伝を書くという授業の中で「深町正樹記」というふざけた自伝を書く事を進めてくれた人で、文章表現の楽しさや、自分の中の可能性を感じさせられた。
中一の時からの担任を含めて、この三人の教師に出会わなければ、私は今こうして文章を書いてはいなかっただろう。
修学旅行はその年だけ尼崎養護学校と合同だった。良い思い出になった。
音楽の教師は私の機能訓練もしていた。
ある日、いつものように音楽の教師は私に跨り、両肘で私の肩を押さえながら、両手で私の頭を持ち上げ、首の筋弛緩訓練をしていた。私は突然身体の異変に気付いた。性器が大きくなってきたのだった。恥ずかしくて言えなかった。困っていると、その教師も私の身体の異変に気付いたらしく、一瞬戸惑った表情を浮かべたがまたすくに微笑んでくれた。周りに気付かれないように私の上体を起こし、「ちょっと疲れたから休憩しようか」と言い、私を車いすに乗せ訓練室から連れ出してくれた。「空、見ようか」と言い、学校の裏に私を連れていった。たぶんその教師も声をかけにくかったと思うが、恥ずかしさと罪悪感と自己嫌悪でうつむいていた私の肩をポンとたたいて、「あるよ、そんなこと。ごめんね、深町君が中学生で思春期だということを忘れてた・・・・・。痛くなかった?パンツ・・・大丈夫?もうちょっとしてから、みんなのところへ帰ろっかぁ」と軽く言ってくれた。その言葉に救われた。ありがたかったとともに、なんとも表現しがたい入り混じったものが私の中ではじけた。涙か関を切ったかのようにこぼれた。「人間だもんね」という言葉が中学生の私の心に響いた。
この年の秋、私の人生での最初のターニングポイントに遭遇することになる。