就学編4 (深町正の自叙伝)
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少し私の事を書く。
鉛筆との格闘は、2年に及んだ。最初の頃は新聞紙に形にならないのだけれど何かを描きたくてぐちゃぐちゃっと線を描いていた。
しかし、小3の頃になるとそれなりに形を描けるようになっていた。理科や科学に興味があり、科学番組・ネイチャー・ドキュメンタリー・特撮・アニメなどは、ブラウン管に噛付いて視ていた。その影響で、恐竜・怪獣・動物を家ではスケッチブックに毎日夢中で描いていた。楽しく描いていた。母は部屋が汚れると言い怪訝な態度だった。父はすでに毎日午前様で心意を聞けなかった。
そんなる日、学校の図工の時間、自由に絵を描くという課題があり、私は10分近く何もせずに考え込んでから、鉛筆を持ち夢中で下書きを描いていった。一本の線を、気に居るまで描いては消し、またかいた。2時間続きの図工だが、その時の私にとっては短かった。授業終了の鐘の音で我に返った。ほかの子は色まで塗って仕上げていたのに、私は下書きの半分も描けていなかった。ここで終わるのはくやしいと思いながら、鉛筆をおいた。「さっさと片付けてぇ。今度は粘土細工するからね」と図工の教師はみんなに知らせた後、私のそばによってきて、その下書きの半分も描けていない絵を、手で持ち、数秒眺めていた。眺めながら「深町君は絵を描くのが好きなんだぁ!!一生懸命描いていたでしょう?くやしそうだけど、みんなに遅れたのがそんなにくやしい?」と図工の教師は、手に持ったその絵ごしに私の顔を見ながらそう問いかけてきた。
「いいえ、描いてしまえないのがくやしくて・・・・」
私は溜息を吐きながら言った。
一瞬目を丸め、すぐ笑顔になったその教師は、私の肩をかるくポンと叩きながら「じゃあ決まり!図工の時間だったら何時間かけてもいいからこの絵を仕上げなさい。納得いくまで描いてみなさい。先生もたのしみにしてるわ」と言ってくれた。
その絵の完成までにおおよそ二ヵ月かかった。
この教師が忍耐強い人で、その間、技術は教えてくれるが口や手は一切出さながった。
完成したとき、私とともに喜んでくれたのも、親ではなく、その教師だった。
サバンナに樹が一本。キリンが葉を食べ、木陰てライオンが寝そべっていて、そこにゾウが通りがかっている、そういう絵だった。
その教師は完成を喜ぶだけではなく、絵をほめてくれた。素直にうれしかった。
描き終えた満足感ともっと描きたいという欲求が、子供の私の中に芽生えた。
一ヶ月後、一時間目か二時間目の休み時間に「じゃまするね」といいながら、教室に図工の教師がつかつかっと入ってきた。担任と一言二言話してからそばに来て私をヒョイッと抱えながら「じゃっ、深町君借りていくねぇ。ほかの子はしっかり勉強しときなさいよ」というと、私を教室から連れ出した。
クラスメイトはキョトンとし、私もキョトンとしながら抱えられていた。次の授業の準備を手伝いに来た母も「おかあさんもこっちへ」と、母も連れ図工の教師の車へ向かった。
行き先をきいたが「着いてからのお楽しみ」ということだった。私は、どこへ連れて行かれるのか、不安の半面ワクワクして楽しみだった。母も何も聞かされていない様子で、少し狼狽していた。行き先を告げられずに乗せられた車は、図工の教師の運転でとこかに向かった。
着いたのは甲子園阪神パークという動物園&遊園地。のりものに乗れるかと一瞬期待したが、そんな私の期待も阪神パーク名物のライオンとヒョウの合いの子のレオポンもしり目に、おくへおくへと私と母を連れていく。目の前に大きな建物が見えてきた。児童絵画展という大きな立て看板が、その入口の横に立ててあった。なかにはいろんな絵が掛っていた。中に入ると図工の教師は辺りをキョロキョロ見渡して何かを探していた。しばらくすると「あった!あっち!あっち!!」と図工の教師は興奮して指差した。その方向には十人以上の人だかりが見えた。キョトンとしていた私を、そこへ連れて行き図工の教師は人だかりをかきわけた。
そこには、私の絵があった。あのサバンナの絵だった。絵の下には私の名前と金紙の短冊が貼られていた。
図工の教師が、二ヵ月かかって完成させたことに感動し、完成した絵に関心して、この児童絵画展に私の絵を出したところ、入賞してしまった。それもかなりいい賞を取ってしまって、この日が表彰式だと言うことを、私と母はこのとき告げられた。母は自分の見た目を気にしていたが、「表彰されるのはお子さんですよ」と図工の教師に一笑されていた。賞などというものをもらったことが無かった私には、それがどういうことなのかわからなかった。本人がいることを知らない私の絵を見ている後ろと左右の人だかりから、次々絵を誉める言葉や感動の言葉が聞こえてくるのを感じ、素直にうれしかった。
子供ながらに、自分の絵で人を喜ばせたり感動されることに、感銘した。
表彰式はわけのわからない大人のあいさつばかりで、よくわからないうちに終わった。
ただ、私が表彰されるとき「あんな子に・・・」や「あんな子でも・・・」という、いくつかのひそひそ声と背中に何本も突き刺さるものを感じた。表彰を受けたことで、私は沢山の好奇の目やねたみの目を浴びた。小さな頃から何となく分かっていたが、このとき初めてはっきりと差別や偏見を一般社会の中で感じた。
人のいやらしさを垣間見た。
母はあまり文化的なことには興味が無く、絵自体を評価するのではなく、自分の子が賞を取ったことだけに関心があったようだ。
その点、図工の教師は無条件に誉め、無条件に喜んでくれた。
私はそれが嬉しかった。
子供だったから表賞状の価値は分からなかった。
しかし、副賞の絵具とスケッチブックはうれしかったし、帰りにレオポンも見れた。ついでに給食に間に合いそうにも無かったので、店に入り初めてカツ丼を食べた。美味しさに感動した。
小学部の生徒が一般の児童絵画展で入賞することは、尼崎市立尼崎養護学校でもめったにないことだと後で聞かされた。
一番うれしかったのは、学校の玄関の下駄箱の上に美術クラブの中学部・高等部の先輩たちの油絵と並んで私のその絵が掛けられたことだ。以降、私が転校するまでの4.5年間その絵は学校の玄関の下駄箱の上に掛けられていた。私はそこを通る度に誇らしく思った。
このことが私の未来に決定的な影響を与えた。
人間というのは、ほめられると有頂天になりつけあがる。私も例外ではない。つけあがったけっか、現在に至っている。
小5になるとクラブ活動が始まった。金曜日の7時間目だった。
私は美術部を希望した。油絵がしたかったからだ。
図工の教師もすすめてくれた。
けれど、金が掛る・服が汚れる・いちいち道具を出したり片付けたりが時間的に面倒だなどの理由で、母に反対され、美術部への入部は断念せざるを得なくなった。
ここでもまた、妹との期待度の大きな差を、思い知らされる。妹がピアノを習いたいと言えばすぐにピアノを買い習わせ発表会の度に高価な服を買ってやったり、したいということは次々とさせていた。それだけ妹には惜しみなく金や労力を使っていて、私には金が掛る・服が汚れる・いちいち道具を出したり片付けたりが時間的に面倒だなどの理由で美術部への入部を断念させる、そこには確実にうん例の差が存在した。
しかし、油絵がしたいという欲求は持ち続けた。
小5・小6の担任は実にユニークだった。すっとんきょうという言葉はこの人の為にあるのではないか、と思えるほどとぼけたふりをしている教師だった。お世辞にも美人とは言い難いが、どこかかわいい。いたずら好きで、教室でも職員室でもいたずらをし、騒ぎを起こしていた。
そんな担任だから、神出鬼没で、休みの日に不意に「マーちゃん(当時の私の呼び名だ)遊ぼう!」とうちに来て、まるで友達のように家から誘い出してくれた。玄関が閉まっていても、私がいることを分かっていて、窓から入ってきてくれた。それで家の近くを散歩しながら、たあいのない事をしゃべる、ただそれだけだった。この担任はもしかすると家庭の状況が分かっていて、少しでも私の気を紛らわそうとして、来てくれていたのではないだろう?考えすぎかもしれないが・・・・・。
何度も記しているが、先天性障害の場合、自分の障害を単独で認識するのはかなりの努力がいる。
しかし、今まで書いてきたように、家族や親類の対応・態度、行政の心無い対応や言動、特別扱いしない近所の子供たちの残酷さ、表彰式の際背中に何本も突き刺さった沢山の好奇の目やねたみの目というように、他者に思い知らされることは多い。道を歩くと容赦なく浴びせられる視線や言動。いわれなき抽象。来店拒否や乗車拒否。知らない子供から指差されたり、怖がられたり、笑われたり、石や砂を投げられ水をかけられたり。子連れのお母さんからは、近づいたらうつるとか、悪い事をしたらああなるよ!と指差され勝手に子供を戒める材料にされたり。知らない大人からは「この子わかってるの?」とバカにされたり。
という、外的要因で否応なく障害者であることを自覚させられる。
自分の障害を認識していないのに障害者であることを自覚させられるという自己矛盾。
しかし、できないことが多いということと、鏡や写真や映像の中の自分のカッコウや動きが明らかに普通ではないということと、普通にしゃべって録音したものを聴くと自分の言葉が理解できないという現実。
認識と自覚と現実が、自分の中で乖離する。
潜在する自己矛盾と自己否定。
私は、周囲からは明るく闊達なに子供に見えていたらしいが、心の底ではかっとうしていた。
子供だった私にはそれが何なのか分からず、絶えずモヤモヤしたものを抱えていた。
自分なりのアイデンティティーを探していたのかもしれない。
私の絵が評価されたことは極小さな事だが、私に自信を持たせ、自分なりのアイデンティティーを探す糸口になった、私の人生のターニングポイントの一つだった。
絵というしたい事が見つかったことと、自分の障害を認識するようになった。
しかし、それは始まりに過ぎなかつた。
一生涯絵を描き続けようとは思っていなかったし、障害者としての自覚やアイデンティティーも持っていなかった。
まだ10歳位の私には、それは当然だったかもしれない。
妹とは子供の頃は仲が良かった。私がそう思っていただけかもしれないが・・・・・。
二段ベットの上下で寝ながら、童話の語り聞かせや学校の勉強を教えたりをしていた。
障害者の兄を持ち当然学校で嫌な思いもしていただろう。けれど彼女はそれを私の前で口にすることは一度も無かった。
ケンカもしたが、どこにでもあるような兄妹ゲンカだった。
その頃うちの近所は、子供の成長により手狭になった家が軒並、増改築をしはじめた。平屋だった家が次々と二階建てになっていく。うちも見栄半分で増改築をした。さすがにそのときは父も母も連携していた。子供としては、そのままの状態が続く事を願っていたが、そう長くは続かなかった。夫婦関係が悪いのに家を触るという神経からして、父母にとって如何に体裁が大切だったかが、推し量れる。
『別れてくれたほうが楽なのに』何度もそう思ったが、口に出して言う勇気は私には無かった。私も逃げていたのかもしれない。
父は、私たちが寝ているうちに家を出て寝た後に帰宅するという生活を続けていた。たまに父が母に話しかけても母は無視をした。母の無視は執拗で、数年会話が無いときもあった。父としては、帰宅しても面白くない、だから帰りたくなくなる。その悪循環だ。私はどっちもどっちだと思っていた。
増改築前の家が母の実家からあてがわれたものだという負い目があったから、父は自力で増改築したと自負の念を持っていた。祖母を呼びたかった様だった。しかしそれは叶わなかった。
増改築前に来ていた父方の祖母が私にぽつりとこう言った。
「あなたのお父さん、もうすぐ厄だから、お母さんの方のおばあさんとわたしの年寄り二人の命で厄を祓うから、安心しなさい」と。
母にもそれは伝えていたらしい。
ほどなく祖母の言葉は現実になった。
私は、続けざまに二人の祖母を亡くした。父の大厄の年だった。
またもや父と母は、邪魔だ・迷惑がかかる、という理由で、私を見舞いや葬儀に連れて行かなかった。
母の実家やほとんどの親戚は、これまで書いてきたように、私の存在自体を疎んでいたからどうでもよかった。
しかし、私を大切にしてくれた、父方の祖母の見舞いや葬儀は、行きたかった。
くしくも私の12歳の誕生日に、父方の祖母は他界した。偶然だろうか?
だから、父方の祖母の命日は、忘れたことは無い。
それ以降、父方の祖母の墓参りが私の目的の一つに加わった。
父方の祖母の墓参りが叶ったのは、それから21年後だった。
養護学校建設反対派である『考える会』は反対運動を活発化させていた。元中学校教諭で当時社会党の県議(後の川西市長)の力を借りた、かなり強引な手法だった。社会党は統合教育推進を掲げていた。
ただ、当時社会党の支持団体の一つであった教組内で、統合教育について賛否が分かれていようだ。「今のままでの統合教育は難しい。施設面での整備と人員の増強が無ければ教職員の負担が増す」というのが、一般の教師たちの見解だった。
養護学校建設推進派である私たちの母たちも、『考える会』の反対運動に対する対抗手段をとった。自民党と共産党の市議や県議に陳情していったのだ。
自民党は、障害児を一ヵ所に集めた方が効率よく専門的な教育や訓練をより有効に行なえるという理屈で、養護学校建設推進派である私たちの母たちの陳情を受けた。
共産党はもともと、全ての子供は発達する権利を有しその権利は保障されるべきだという、発達保障という考え方をもっていて、障害児の発達を保障するには専門的な教育や訓練をより有効に行なえる場所が必要であるということで、養護学校建設推進派である私たちの母たちの陳情を受けた。
議会や政治家を巻き込む形で、より深刻な対立になっていった。
『考える会』が反対運動を活発化させた大きな理由は、国の動きにあった。
養護学校義務化の法案が国会に提出されていたからだ。
「考える会」はあせっていたのだった。
全国的に反対運動が活発化する中、養護学校義務化の法案が国会での審議を経て、可決し成立した。
養護学校義務化施行まで3年。
川西市はそれを受けて養護学校建設を決定した。
私は尼崎市立尼崎養護学校小学部の卒業を迎えていた。