就学編 3 (深町正の自叙伝)
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また、話を元に戻す。
私たちが、尼崎市立尼崎養護学校に入学したことと、市に通学保障を認めさせたことで、川西市の肢体不自由児の就学は保障された。しかし、それは本来の姿ではなく、ただ川西市と川西市教育委員会は尼崎市と尼崎市立尼崎養護学校にまる投げしているだけにすぎなかった。
川西市の児童であれば、最低限川西市で教育の場を設けるべきだ。私たち川西市から通学している四人の障害児とその親は、川西市と川西市教育委員に市立養護学校の新設を要求していくことになった。
難航することは分かっていたが、考え方の違いから途中で若い世代の親から、突然、よこやりが入り、まさか開校までに8年も費やすとは、この時点では思ってもみなかった。
小1から中1まで機能訓練の一環で、私は校内の移動に歩行機を使用していた。歩行というより暴走に近かった。歩行機に乗っていると自由に走れると、錯覚していたのだった。しかし、歩行機というものは非常にバランスが悪く、廊下のちょっとした段差でもすぐ転倒する。私は手があまり動かせない。手があまり動かせない者か歩行機で暴走し転倒するのだから、コンクリートの廊下にまともに頭や顔から激突する。私も幾度か転倒しているが、小1の三学期の転倒はすごかった。倒れるときスローモーションのように、ゆっくりコンクリートの廊下が目の前に近づいてくる。回避てきそうだけれど、どうすることもできない。凄まじい激突音と激痛で、時間の速度が元に戻る。私はギャーッと悲鳴のように泣き叫んだ。近くにいた教師が慌てて駆け寄り、外傷が無いことを確認したうえで、私を落ち着かせた。多少頭は痛かったが、その場は何ともなかったから、授業を終えいつも通り下校した。その後一週間は転倒したことすら忘れていた。しかし、一週間後、学校で訓練中に私の頭がベコベコにへこむという異常にようやく母が気付いた。すぐに教師が川西市内の開業医に連れて行ってくれた。医者が診て慌てていた。「なぜもっと早く気付いてやらないのか!」と母と教師は叱られていた。
頭皮と頭蓋骨の間で出血を起し相当血が溜まっていた。医者が言うにはあと1日であぶなかったということだった。治療ベットにうつ伏せに寝かせた私を大人5人がかりで抑え込み、直径5cmの注射を頭と尻に同時にうたれた。
痛さで抑え込んでいた大人一人二人振り飛ばしながら、尻から薬を注射され、頭のてっぺんからは溜まっていた血を約500から600cc抜かれた。
再出血が懸念されたが、それは無かった。
小学部の6年間で転倒はあと一回、前歯を折っている。
養護学校の学生生活は、学校に居る時間はクラスメイトや担任とのコミュニケーションで結構楽しく過ごせた。しかし、近所の同年代の子供たちとは学校も生活パターンも違う上、登下校時自宅からスクールバスの止まる所までは別だが、それ以外はまったく近所の同年代の子供たちというコミュニティーから隔離されてしまう。帰宅後も、自力で出れないし、家事や妹の事や私の介護で忙しそうな母の顔色をうかがいながら外に出してほしいと云う勇気も無かったから、受動的隔離状態だ。私は、近所の同年代の子供たちというコミュニティーから、徐々に遠退いていった。
救われたのは、同年代の子供たちを含め近所の人たちが私を、そこに暮らしていて当り前の存在として認識してくれていたことだ。私はかなり言語障害もあるが、そんなことお構いなく積極的にコミュニケーションをとってくれていたし、言語障害がかなりある私の言葉を理解してくれていた。親より近所の人、大人より同年代の子供たちが解かってくれていた。だから、私は小学部の高学年になるまで、自分に言語障害があるということを知らなかった。
母と特に仲が良かったうちの向かいとその一軒おいたはす向かいのおばさんたちは、関西の下町らしく私に対しても遠慮無くづけづけとものを言ってくれた。私も遠慮無くづけづけとものを言っていた。
また、そういう環境を、おばさんたちが作ってくれていたと思う。
子供たちは、毎日のようにうちの前の路地で、遊んでいた。
私が玄関を開け放して中で座ってそれを見ていると、いつの間にかうちの玄関も遊び場になり、いつの間にか私も遊びに参加していた。それが当り前のようになっていた。
時々ではあるが、うちにも遊びに来てくれていた。私が一人留守番しているときなどは、カギが掛って
いなければ玄関から、そうでなければ縁側や窓から、入って来てくれていた。
妹の友達ともよく遊んだ。
みんな私を特別扱いしなかった。
特別扱いしない子供たちは、時として残酷である。うちで遊ぶのにあきればさっさと外に遊びに出てしまうのだ。おもちゃとともに私は取り残され、一人片付ける何とも言えない淋しさを、その度にあじわった。
それらを含め、特別扱いしない近所の人たちが、そこに居て当り前の存在として、受け入れていてくれていたから、私はいろいろな経験ができた。
今でも、偶然町で出会うと何人かは、周囲の目を気にせず悪態をつきあえる人がいる。
非常にありがたいことだと思う。
私が小2の頃、川西市の父母の会が『日曜保育』という取り組みを始めた。大学生のボランティア数名を募り、月2回日曜日の午後、東花会館という自治会館を借りて、会員の子供である肢体不自由児・者を集めて、大学生のボランティアに遊んでもらっている間、親や家族を少しでも肢体不自由児・者から解放し、負担の軽減を図るのが目的の、いささか不愉快な取り組みだ。今でいうレスパイト(家族の負担軽減を図る)の考え方とデイサービスの処方をとった、当時としては先駆的な取り組みだったとは思う。
ボランティアの一人に教育者を目指していた大阪教育大の女子学生がいた。彼女は、『日曜保育』でのボランティア活動を通して、就学猶予という制度を知り、その就学猶予を受け入れざるを得なかった学齢期後半や学齢期をたいぶ越えた未就学障害児・者の存在を知った。そして、障害を持った乳幼児の発育の支援を目的とし市の認可を得ようとしていた『あゆみ園』から、放り出されたか放り出されようとしていた学齢期後半や学齢期を越えた未就学障害児・者に対して、どこも何もしていず、放置されている現実を知った。
教育者を目指していた彼女には、この現実を見過ごせ無かったのだろう。
彼女は、父母の会に話を持ち掛け、市や市社会福祉協議会(市社協)と交渉し、放置されていた学齢期後半や学齢期をたいぶ越えた未就学障害児・者が集える場、『青年学級』というものを作り、教師になることをあきらめて指導員となった。これが川西市初めての重度の障害者への支援だった。運営への市の関与は分からない。たぶん父母の会が運営母体(だったと思う)になり、法的位置づけも無いまま、無認可でスタートした。
うちでは父と母のすれ違いは増していたにも関わらず、妹には二人とも期待をし、その期待に応じた金も使っていた。多少、父と母には普段私の為に妹の事がおろそかになっているという引け目もあったと思う。私自身も引け目もあったし、兄として妹と比べてどうこういうことに抵抗感もあったから言わなかったが、父母共に妹との対応の差は歴然だった。ことに、父母の会が『日曜保育』という取り組みを始めてからは、あからさまだった。私にはインスタントラーメンを食べさせ『日曜保育』に預けたあと、父母妹の三人で家族連れでにぎわう大阪のデパート街に繰り出していくのだ。たまにだったらわかるが、毎回、父・妹・母と並んで駅に向かって歩いていく後ろ姿を、私は苦々しい失望感で見送っていた。夕方私を連れて帰った後、私以外は「あれ美味しかった」「これ楽しかった」と言いながら、その日買って来たブランド品を広げる。妹の服や靴・おもちゃ、母の服や宝飾品・化粧品、父のネクタイやベルト・カウスやタイビン等々だ。毎回間違えても私のものは無い。私への土産はいつも安っぽいシュークリームだった。時々「連れて行って」と私が主張すると、母はすごい剣幕で「買い物の邪魔や!連れて行くんだったら私は行かへん!」と言い放つ。父はだんまりを決め込み、妹は私のせいで行けなくなると泣きわめく。私が我慢すれば丸く治まるのだった。
前記で「いささか不愉快な取り組みだ」と評したのも、こういう経験をしていたからだ。
家族の為の取り組みや制度は、あくまでも家族の為で、障害児・者本人の幸せにはつながらない。
かえって障害児・者本人が家族から阻害される要因になることが多い。
今、家族の冠婚葬祭や家族旅行という理由で、デイサービスやショートステイサービスに家族の一員であるはずの高齢者や障害児・者が預けられることとが多い。本人の気持なんか考えずに自分たちの都合を優先させる家族、本人の気持ちを全く考慮せずそんな家族の需要だけでサービスを提供しているもうけ主義の福祉産業。どちらもどちらだと、私は思う。
『日曜保育』がない日も、私を家に6.7時間放置して、父母妹の三人で大阪のデパート街に繰り出していくことも多々あった。
まるで当り前のように悪びれないから、余計にたちが悪い。
親戚の冠婚葬祭も呼ばれたことはない。呼ばれていても父母が私の参加だけを断っていた。
特に母の実家や親戚は、私を阻害する傾向は強かった。
一方、父は学歴が高いことから、重宝された。
成金だけに、母の実家や親戚の人間の学歴はそんなに高くは無かったから、祝い事の度、母の実家の威厳を保つため父は祝辞役をさせられていた。
ここでもまた私は一人家に残される。何か取って付けたような理由をつけて・・・・。
実家や親戚の意向に、当り前のように何の疑問も持たず従う母。
けしてこれは特別なケースではない。どこにでもある話だ。
一般的には障害児・者の一番の理解者は親や兄弟だと思われがちだが、障害児・者にとって一番の無理解者であり、最大の差別者は親や兄弟親戚である。
小2か小3の頃、丁度父と母の関係が悪化の一途をたどっていた時期、突然父方の祖母が私の従姉・父母の姪にあたる22,3歳の女性を連れてきた。彼女は小さな頃に両親を亡くし以来親類の間を転々としてきたらしい。ようやく看護婦(看護師)の資格を取って福岡の病院で働きだし、生活が落ち着いたやさき、妻子持ちの患者に言い寄られ、執拗に付き纏われた。今で言うストーカーだ。ストーカーから逃れるため九州各地の病院を転々としたが、執拗な付き纏いは続いた。祖母は、見かねて、関西だったら付き纏ってこないであろうということで、うちに身柄を預けるために来たのだった。身柄を預けるにあたって、祖母はその私の従姉・父母の姪に将来私の面倒を見させるという条件を父と母に提示し、目に涙を浮かべて頭を下げた。
祖母にしてみれば、自分が連れてきた孫の将来をそういう条件で縛るのは本意ではなかっただろうし、かといって、一番心配な障害を持つ孫のいる息子夫婦に無条件で頼むことは心苦しかっただろう。もしかすると祖母は、数年後に訪れる自分の死を、予感していて、自分の代わりに私を見守る役割を、自分が連れてきた孫にしてほしかったのかもしれない。
父と母は祖母の条件で私の従姉・父母の姪である彼女を受け入れた。半年から1年程はうちできょうだいのように過ごした。おかげで父母も表面的には仲よくしていたし、母の暴力も少なくて、わりと穏やかな日々だった。私の記憶では家族旅行の記憶が4回あり、内2回がこの頃だ。祖母が提示した条件を盾にし、母は姪を縛った。しかし、幸福になろうとする思いはだれにも縛る権利は無い。看護婦(看護師)の資格を活かし、自立し恋愛をし結婚した。祖母に謝られては母も祖母が提示した条件をあきらめざるを得なかった。それでよかったと私は思う。彼女は娘二人を産み幸せな家庭を築いていった。
私が小4の頃、川西市の養護学校の青写真は、すでにできていた。もうすぐにでも着工出来そうだった。だが、建設予定地の清和台住民の偏見や差別がそれを阻んでいた。
その頃、「あゆみ園」で不穏な動きがあった。
大阪教育大を卒業したての理想だけの若い男が職員になった。彼は彼の理想である統合教育論を振りかざし、「あゆみ園」に在籍していた就学前の若い障害児の親たちを洗脳し扇動していった。
統合教育とは、障害児の教育は養護学校のような隔離されたところで行うべきではなく、障害児も一般の学校の普通の学級で、健常児の中で教育を受ける権利があり、それを進めることで障害者がいるのが当り前の社会にしていくという考え方だ。
彼の理想である統合教育論は当時全国的に流行っていた。
統合教育こそが理想の姿だろう。
彼が振りかざした統合教育論を崇拝した川西市内の就学前の若い障害児の親たちは、少なくは無かった。彼らは統合教育に向け運動をし始めた。そこまでは良かったのだが、方法があまり賢いとは言えなかった。
彼は理想を信じるがゆえに、就学猶予の問題や学齢期を過ぎた未就学障害児者の問題、先駆者である私たちが教育委員に何を言われ、どういう思いでそれらと戦って、養護学校へ通うという教育を受ける権利を獲得し、なぜ川西市内に養護学校を創る要望をしてきたか、ということに目をつむり耳をふさいだ。
それどころか、市内に養護学校が創られると強制的に全員養護学校に入れられ隔離され、統合教育への道は閉ざされると、統合教育論を崇拝した川西市内の就学前の若い障害児の親たちにふきこみ、恐怖心をあおり、その若い障害児の一部の親たちによる過激な養護学校建設反対運動を扇動した。当時川西市には障害当事者と親の団体は三つあった。前記でも記した肢体不自由児者の親の集まりである川西市肢体不自由児者父母の会 通称「父母の会」、精神薄弱児者(これは差別用語になっている。今は知的障害児者という)の親の集まりである川西市精神薄弱児者育英会 通称「親の会」、身体障害者の集まりである川西市身体障害者福祉協会 通称「福祉協会」だ。これら三団体の会員から、その強引な手法で統合教育を推進していこうとし、理想である統合教育論を振りかざした大阪教育大を卒業したての「あゆみ園」の若い男が職員と彼に心酔した「あゆみ園」に在籍していた就学前の若い障害児の一部の親たちは、孤立し、自らも一線をかくし、川西の教育を考える会 通称「考える会」を発足させた。
「考える会」は自分たちの歪んだ恐怖心に基づいた歪んだ理想を正しいと信じ、異なる考えである先に行動して養護学校の新設を希望していた私たちの考え方をすべて否定し、自分たちの考えを強要するべく養護学校の新設を、政治家やいろいろな手段を使って反対していた。
尼崎市立尼崎養護学校に川西市から通学してき、就学の道を切り開いてきた先駆者である私たちにとって、それは、せっかく掛けてきたはしごを後から来たわけのわからない奴に下から壊されていくような感覚だった。私たちにとっては背信行為にほかならなかった。
前記にもあったように、就学猶予の通知が届いたり、無能な不適格者の市教育委員長から直接心無いことを言われ傷つき腹を立てた経験かあり、近所の子供と同じ幼稚園に行けないのかという思いを持った経験もある私には、養護学校の新設を希望していくことも、統合教育を進めていくことも、どちらも大切だと思ったし、どうして養護学校建設推進派と反対派に別れ、いがみ合っているのか理解できなかった。
ただ、他の考えを全面否定して、自分たちの考えを押し通そうとしていた強引な手法に嫌悪感を覚えたし、あれでは他に誰も賛同しないだろうと思った。
川西市や市教育委員会は養護学校建設推進派と反対派に別れ、いがみ合っているのを良いことに、双方への回答や障害児教育施策への積極的な取り組みは先送りにし、傍観していたのだ。いや、傍観どころか、組織的にかどうかは不明だが、双方をたきつけていた。それに政治や政党も絡んで、いがみ合いは泥沼の様相を呈していった。