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就学編2 (深町正の自叙伝)

2

母におわれて電車とバスを2度乗り継いで通学する日々が始まった。

母は慣れなかったからほんとうに疲れていたのかもしれないが、それを理由に家事や父の事をおろそかにしていった。

家事や育児を手伝おうというのもあって早く帰宅していた父に、私の通学で疲れているという理由で、外で食事を済ませてきて、だとか、もう少し遅く帰って来て等ということを言っていた。父としては面白くなかっただろう。私は何かが壊れていくのを感じつつ何もできなかった。子供だったといぅ言い訳はできるが・・・・・。それが家庭崩壊のきっかけのひとつだった。

初期段階では夫婦関係の修復努力は見られた。家族四人笑って過ごしたときもあった、夫婦喧嘩もしていたが、父母は擦違いを繰り返し夫婦間の溝を深めていった。

父は仕事と遊びに徐々にのめりこんでいった。女の影もちらついていった。仕事では出世していったが、人としては緩やかな坂道を転がり落ちていった。

母は毎晩シミーズ姿で浴びるように酒を飲み、くだをまいた。父の実家と自分の実家とを比較して自慢してみたり、自分の実家への恨み辛み等である。どう見ても、過去に固執し廃退しきったあばづれ女だ。

ほとんど家庭内離婚状態だった。でも対外的には普通の夫婦を装っていた。障害児を生んだ負い目からくる責任感や娘の戸籍に傷がつく等の理由もあったが、最大の理由はメンツやプライド・母の実家への意地といった社会的自己保身のためであろう。

私は子供ながらにそんな父母を見ているのが嫌でたまらなかった。嫌悪感すらおぼえた。

母はこういったことがストレスになっていたのかもしれない。自分の機嫌で暴力をふるった。『機嫌を損ねると何をするかわからない』という恐怖感から、私は、母の顔色をうかがういやな子供になっていった。と同時に、暴力には屈しない強固な心を持っていった。

平手打ちや足蹴りは日常的だったが、火のついたマッチを投げつけたり肌に押しあてたり、子供用の籐の椅子や座卓やハサミが飛んできたり、鉛筆で手の甲を突き刺され、手の甲にその鉛筆が突き刺さったまま立っていたことも鮮明に記憶している。私の手の甲には、今でもその鉛筆の突き刺さった跡が黒くくっきりと残っている。

人間の二面性も狂気も、私は母から学んだ。

正常なときの母は、普通の母親である。

私が入学すると決まってすぐ、父方の祖母がやってきた。

通学して疲れる母を助けるという理由はあったが、たぶん母の本性を見抜いて、母から私を守る目的もあったと思う。

祖母は、毎朝5時に起き、まだ舗装されていなかった家から駅までの道の、小石をひらい、草を刈ってくれていた。私を連れた母が足を取られないように・・・・・。

そして、学校から帰ると母を休ませ、私を脇に座らせて祖母は、魚をさばくところや野菜の下処理、料理、針仕事や掃除、片付け、洗濯、ひちりんの火起こしまで見せながら、一つ一つ説明してくれた。

生活の知識を身に付けてくれたのだ。

母が私に暴力を振るおうとしていると、祖母は間に割って入って私を守ってくれた。

私の身体機能では、手より足のほうが使えた。私も自然に使っていたが、父母は認めなかった。特に父は足を使うということへの抵抗感と手がますます使えなくなるという心配かあったようだ。父の常識では足を使うことは、行儀が悪いことで、その常識の範囲から外れるものだった。給食っていたら父はすごい剣幕で怒った。

「お前は、体は動かんのやから頭を使いなさい」と言っている父がなぜ「手が使いにくいのだったら足を使いなさい」と言わないのか、私には理解できなかった。

使えるところを使って何が悪い と思いながら、「行儀が悪い」というお叱りを受けていた。

父も母も健常者だった。健常者の価値観しか持てなかった。その範囲から外れるキャパシティーは無かった。

それはあゆみ園も養護学校もおなじだった。手を使うことを強要され、健常者に近づくことを強要された。

特に当時の養護学校は、なになにができないのは根性が足りないからだ!と、まったく理不尽極まりない根性論を振りかざして、訓練専門の教師は科学的に何の根拠もない訓練を強要してくるのだ。親も他の教師もしょせん健常者だ。健常者に近づくことこそ障害児の明日へつながるという、健常者の発想しかできないうえ子供の可能性を信じるあまり、頑張って訓練すればなになにができるようになる、なになにができるようになることが子供の幸福につながるという、ある種の洗脳をうけていた。狂信的な宗教と似ている。

家でもしばらく厳しい訓練の日々が続いた。

救いがないのは、洗脳をしていた側も、頑張って訓練すればなになにができるようになり、それが子供の幸福につながる、というのを信じていたことだ。

根拠のない信念には、子供は無抵抗だ。されるがままにするしかなかった。

私などは、さんざん無理やり体を反らされたり捩じられたりされたあげく、自力歩行せいぜい10歩だというのに校内一周やグラウンド三周等を強いられた。立って数歩歩き思い切り尻もちをつく、その何十回、何百回の繰り返しが、毎日続く。身体のことを考えず将来のビジョンもなく、ただ歩けばいい、健常者に近づけばいいという理由で、能力以上のことを強いられた。

それは他の授業や給食の時間にまで及んだ。

授業のときは手で字を書かせ、こぼしても頭からかぶっても給食は自力で食べることを強要された。まったく食べられない日がたびたびあった。作文書くのも嫌いだつた。

これも一種虐待であろう。

成人した後に解ったのだが、養護学校の無茶な訓練が身体に腰椎分離・椎間板の欠損・膝軟骨の摩耗という相当ダメージを与えた大きな要因のようだ。

50に近い今の私の身体に、そのダメージが大きく圧し掛かってきている。

『訓練』と称してきたが正式には機能回復訓練だ。

先天性の障害を持つ者にとって、機能回復と言われてももともと回復すべき機能を持ち合わせておらず、空虚な言葉に過ぎない。

健常者から見たら障害を持つということは、異常なことだろうし正常(健常者)に少しでも近づけようとするだろう。しかし、それは健常者的価値観の押しつけにほかならない。

健常者に少しでも近づき、なになにができるようになることで幸福だなんて、健常者の幻想や妄想だ。

障害を持つ者を、自分たちより劣ると見下す健常者の、単なるエゴに過ぎない。

他人の価値観や妄想に付き合うことほど、馬鹿げた話は無い。

まったく馬鹿げていた。

足を使うという点では母は非積極的に容認していた。足を使って遊んでいたら、私は熱中し、何時間でも放っておけたからだろう。

使えるところは使いなさい、と唯一言ってくれたのも父方の祖母だった。たぶんこの時点で、私の将来に対してビジョンを持っていたのは祖母だけたっただろう。

私の学年は、当時、小学部・中学部・高等部の全校合わせて150名ほどの尼崎市立尼崎養護学校の中でも一番多い三十数名いた。

一年生の一学期なかばまで学年全体で過ごした。

ある日、自由にクレヨンで絵を描く授業があった。

クレヨンを持つ事も、絵を描く事も、初めてだった。

何を描いていいのかわからない。白い画用紙を渡された。辺りを見ると、描ける奴はもう描き始めでいる。箱には白いクレヨンしか残っていない。私はとりあえず、その白いクレヨンを持って白いクレヨンで描けるものを考えた。前の時間に行った飼育小屋の白ウサギが浮かんだ。

私は、想い付くまま白ウサギを描いた。

必死で描くのだが、どうしても形にならない。

はがゆくて、くやしくて、それでも必死で、クレヨンを折りながら、意地になって描いた。

最後に赤いクレヨンで目を描いた。カンの良い女性の教師は、前の時間飼育小屋に行ったことと赤で目らしきものを描いていることで「ウサギでしょ?」と聞いてくれた。

嬉しかった。

でも、自分が見ても形がない。描きなぐっただけに見える。科学や動物が好きな私にとって許しがたいものだった。

児童心理を研究していたアホでこそくな学年主任は、白い画用紙に白いクレヨンで白いウサギを描いたことを、児童心理的に問題があるとされて大きな話にされたようだ。

その学年主任に2年間、事あるごとに卑劣な手段でためされ、研究材料にされていたようだ。

おかげでその2年間、学年行事で楽しい記憶がない。

くえか・おこぜか・あんこうのようないやらしい顔は、思い出す度に胃のむかつきを今でもおぼえる。

おかげで、人に対して不信感を持つ事を、学んだ。

自分で見ても形が描けていないのがよほどくやしかったようで、それから毎日、家で、鉛筆を持ち、新聞紙に、形にならないのに何かを必死に描いていた。

小さなことだが、私が自分の障害に向き合ったのは、これが最初だった。

創作への欲求とフラストレーションを持ったのも、この時が初めてだった。

一学期の半ばにようやくクラス分けがあった。

当時の養護学校のクラス分けは、学習面と身体面の能力を総合的に判断し、行なわれていたようだ。

私の学年は3クラスに分けられた。

普通授業を行う1組、ペースを落とす2組、まった

く別メニューの授業を行う3組に分けられた。

教科書は1組、2組の生徒には与えられた。

組分けの仕方や教科書の事で、1組以外の親たちは大分不満だったようだ。その矛先が私を含む1組の歩行困難な児童の親に向けられたのは言うまでも無いが、メンツを気にしても学習能力の差は歴然としていたから、1組以外の親たちは大分不満は表向きはすぐに消えたようだ。

川西市から入学した四人は、クラスがバラバラになった。

私は普通授業を受ける1組になった。クラスメイトは私を含めて5人。比率は、男子3人女子2人と言おうか、歩行できる奴3人、歩行困難な奴2人と言おうか。粗暴な奴、お母さんっ子、おしゃまな奴、というなかで、私はわりと楽しくすごせた。

粗暴な奴は暴れて一人二人日常的に泣かせていた。

それが日課のようだった。

勿論、私も毎日奴にたたかれたが、それ以上に母にたたかれていたので、たたかれるのは慣れていた。何が幸いするのかわからないものだ。

私は、たたきがいが無いことと、言いたいことを言うこと、重度だということで、だんだんたたかれなくなった。


その頃川西市では、母たちは私たちを背負って通学していくのは負担が大きすぎるということで、川西市にスクールバスを出すよう要求していた。

しかし、川西市はまたも先に記した「市民の税金をそんな無駄な事に使えん」という理不尽な理由を振りかざして、私たちに予算を出すのをしぶった。

父母の会の会長の尽力もあったようで、詳しい経緯は知らないが「マイクロバスを寄付する代り運転手を出せ」という提案と圧力をライオンズクラブから川西市にかけていただけたようだ。行政とはなんと市民には強く大きな団体には弱いものかを、思い知らされる。結局、市が運転手を出すということで、決着がついたようだった。

私の一年生の夏休み、確か市役所の前の駐車スペースでマイクロバスの贈呈式は行なわれた。

ライオンズ号と名付けられたその新品のマイクロバスが、夏の陽光に輝いていたのが印象的だった。

運転手さんも紹介された。優しそうな人だった。

私たちの通学はこうして保障されれた。

私たち障害児の就学や通学は、前記で記したように、けして当時の川西市や川西市教育委員会の前向きな施策や取り組みではなく、情け無い話だが、尼崎市やライオンズクラブといったところからの外圧の結果である。

そして、尼崎市やライオンズクラブといったところが川西市や川西市教育委員会に働き掛けたのは、私たち障害児やその親等が行動を起こしたからだ。

川西市内の障害児の就学や通学の権利を最初に勝ち取ったのは、私たち四組の親子だ。これは誇れる明白な事実である。

私たち以降の障害児やその親等は気楽なものだ。

自動的に就学や通学の権利は保障され、尼崎市立尼崎養護学校へのレールは引かれているのだから、ただ乗っかっていけばいいだけだ。

少しは感謝してほしいものだが・・・・・。

引かれているレールにただ乗っかっていただけの障害児やその親等が、後に私に対するやっかみとひがみ・ねたみの温床となり、私や私の家族へのいわれのない誹謗中傷や、根拠の無い噂を流し、私を落し入れる族になるとは、この時は夢にも思ってみなかった。


小学一年生の冬、はじめて私は大緊張(脳性麻痺の間ではそう呼んでいる)にみまわれた。

まだ解明されていない部分が多いが、脳性麻痺とは、妊娠中や出産時の胎児や乳児の頭部への物理的タメージ・酸欠・黄疸・血液不適合・幼児期までの頭部への物理的タメージ・高熱・病的要因・その他の為の、運動中枢を中心とした脳の著しい欠損の後遺症による、運動機能の障害の総称である。運動中枢の欠損の部位や大きさにより、障害の程度や障害像は、一人一人異なる。

簡単に言うと、脳からの命令が捻くれた運動中枢によって、身体に間違って届く事で、意思に反した動き(不随意運動)を伴う動作をしてしまう障害である。

欠損の部位が運動中枢に限定しているケースは少なく、ほとんどの場合脳の他の部位も欠損しており、知的・視力・聴力・体感・てんかん・その他の障害を重複している事が多い。

障害の出方は個人差はあるが、医学的にはいくつかの型に分類されている。

筋緊張の緊張と脱力の振幅が激しいタイプを『アテトーゼ型』、筋緊張の硬直又は脱力が継続するタイプを『スパスティック型』、その双方の特徴を併せ持つタイプを『混合型』。純粋な『アテトーゼ型』や『スパスティック型』はほとんどいない。現在ではもっと細かく分類されているらしいし、昔は一括りで脳性麻痺とされていたものを複雑怪奇な障害名を付けて、やたらと分類される傾向にあり、症候群化しつつある。医学界の都合だろう。

一般的に『麻痺』と付くと感覚(触覚)麻痺を想像されやすい。確かに体感障害を重複している事もあるが、ほとんどが感覚(触覚)麻痺は無い。

『妊娠中や出産時の胎児や乳児の頭部への物理的タメージ・酸欠・黄疸・血液不適合・幼児期までの頭部への物理的タメージ・高熱・病的要因・その他の為の、運動中枢を中心とした脳の著しい欠損の後遺症』であるから、遺伝子レベルでの異常は無い。したがって遺伝はしない。細菌性やウイルス性でもないから、感染もしない。祟りや因果やばちや天罰等と言う人もいるが、それらは全く根拠のない単なる言いがかりに過ぎない。たぶん、自分たちと違う者への社会的不安の解消法として、そのような全く根拠のない単なる言いがかりで説明し納得してきたのだと思う。

話を元に戻そう。

大緊張とは、自分の意思に反し運動中枢が暴走して身体中の全ての筋肉に力を入れろ、という命令をしてしまい、その命令が継続している間は身体中の全ての筋肉に力が入りっぱなしになり、身体のコントロールが利かなくなる状態をいう。そんな状態を「大緊張が出ている」と言っている。

知らない人はてんかん発作と混同されるが、発作とはまったく異なる。てんかん発作は安静時の脳波にノイズのような波形がでるらしいが、てんかん発作の無い脳性麻痺は、脳波に異常はない。けいれんでもない。

緊張が出るのは脳性麻痺の常である。

調子の良し悪しも、緊張が弱い又は少ない・緊張が強い又は大きい(多い)という表現をするぐらいだ。

でも大緊張はまれである。

その時の私の状態は5日間昼夜問わず体中の筋肉にめいっぱい力が入っていた。

勿論寝れないし布団が裂けた。飲食も排泄も満足にできず、真冬だというのに玉のような汗をかき、体中から蒸気がのぼってた。こたつで寝ていたが、こたつが跳ね上がり天井にぶつかり落ちてくるのを何度も見た。握り締めた手は、手のひらに爪が食い込み血が滲み、食いしばっている歯は嫌な音を立て、歯ぐきからも出血していた。

垂れ流しに近いエネルギーの浪費が続いた。

父も母も成す術を知らず、ただうろたえるばかりだった。

私も自分の状況が分からずパニックに陥っていた。

自分の身体の制御ができない。眠いのに眠れない。お腹がすいているのに食べられない。排泄したいのにできない。好きな学校もけない。・・・・他。それらの全てが精神的ストレスとなり。蓄積されいく。肉体的にも疲労していった。身体が悲鳴をあげていた。

緊張が出る要因が、精神的ストレスと肉体的疲労と痛みと思考のオーバーロードだ

つまり、一度大緊張が出たら、思考も精神も肉体も最悪の連鎖を起こすのだ。

その時はまさにその最悪の連鎖状態だった。

子供の精神では耐えられるはずもなく、発狂寸前だった。

5日目、持久力も眠気も精神力も極限に達したとき、気絶するように、急速に脱力し眠りについた。エネルギーが切れたのか、身体の防衛機能が働いたのか。とにかく、スイッチを切ったように眠ったらしい。

それで、初めての大緊張は、終わった。

7Kgあった体重が、5日間で6Kgに落ちた。

体重が戻るのに、一カ月はかかった。

小1で7Kgは少なすぎると思われるだろう。私自身もそう思うが、人一倍食べていてその体重だった。通常の筋緊張でもエネルギー消費が尋常ではなかったのかもしれないが、脳性麻痺児の大半に発育や発達の遅れや発育・発達不全の傾向がみられる。脳内ホルモン、ことに成長ホルモンの分泌異常もあると思うが、定かではない。

そのためか、当時、大半の医者は脳性麻痺児に対して、無責任にも何の根拠も無く二十歳までだというありがたい余命宣告をのたまわれていた。私などは、何の根拠も無いのに幼児期には十歳までだとのたまわれ、十歳を過ぎれば二十歳までだというありがたい余命宣告をたまわっていた。

私は、子供ながらに二十歳までだということを受け入れていたのだが、二十歳近づく毎にそれは真実味を失っていった。

今現在、私は47年生きている。

医者の宣告の倍以上生きている。宣告した医者たちはのうのうと医療に従事していることだろう。患者が気の毒だ。

なぜ、医者たちは二十歳までだと断定したのだろろか。その要因はいくつかある。

二十歳以上になった脳性麻痺者が社会に出てくるケースが少なかった。軍国主義だった戦時中、物資の無い状況下で、ある特定の価値観で個々人の生命の尊厳まで決めてしまう優生思想と、国の為にならない者は天意に背く者とした国の方針により、障害者の多くが弾圧された。配給を受けられなくで餓死したり、役立たずといって軍による大量虐殺や、化学・生物兵器の実験体にされたり、命令に服従する人間を作るロボトミー手術の実験体にされたり、勿論、空襲時に逃げられなくて死んだ人も沢山いただろうし、戦後すぐの混乱期に死んでった者もいただろう。という歴史的背景と。

障害児が産まれたら、母親の責任とし全てを押しつけ、家柄がけがれることや体裁を守るため、その障害児の存在自体隠す風潮と、それを助長する家制度。その根底にある、根深い障害者差別。という社会的背景と。

それまで生かし得なかった未熟児や乳幼児を、生かせるようになった代償として、障害児を大量生産してきた中途半端な医療の発達と、衛生・栄養面での急速な改善。という医療的背景。

歴史的背景と社会的背景により、医療従事者である医者たちもめったに診ることのなかった障害児を、皮肉なことにデータも研究成果も無いまま、医療的背景により、結果的に診ることが格段に増えたのだ。

このことが根拠も無い余命宣告に繋がったのだ。

障害児の親の中には、自分より先に我子が死ぬのを願っている人も少なくは無い。そんな親たちは最大我子が二十歳まで頑張れば解放される、それまでは子育てと介護に励もうと考えていた人は多かっただろう。その期待は見事に裏切られたのだった。

根拠も無い余命宣告がはずれたことは、親たちに絶望を、障害者本人には希望を、それぞれに与えた。

馬鹿げた話だが、福祉が進んだとされている今でも、差別や産んだ責任を親や家族に押しつける風潮は歴然と存在し、できるところまで自分たちでした後は障害者を道連れに親子無理心中を考えている親も少なくない。障害者本人にとって、これほど馬鹿げていて迷惑な話は無い。




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