就学編 (深町正の自叙伝)
私は障害者であるということに誇りを持ってる。
ほぼ先天的な脳性まひの私にとって障害は、生涯の最良の友人であり、私のパーソナリティーだ。
障害と共に歩んできて、もう半世紀が経とうとしている。
障害は生涯の最良の友人とはいうものの、長年付き合っていると二次障害という、身体にとって深刻な弊害も出てくる。
今、私はその二次障害と向き合いながら、日々の生活をしている。
痛みや自分の命と向き合いながら日々の生活をしていると言っても言い過ぎではない。
私には妻がい、子もいる。
子供は、障害者の子であるということでずいぶんいじめられたようで、社会に対し少し疎外感を持っているようだ。
今まで私なりに、折に触れ子供に親として伝えるべきことは伝えてきたつもりではあるが、言語障害の為、言葉足らずになっていたかもしれない。
命に自信が無いかぎり、言葉足らずになっていたかもしれない部分を補える何かを残しておくことが、今の私にできる最大の責務だろう。
もちろん、障害者である私と健常者である子供では、経験や立場・思考なと全く異なることは分かっているし、「これを人生の指針にせよ」等という傲慢な親にはなりたくは無い。
また、そんなにご立派な生き方でもない。
将来、子供がこれを読むかどうかもわからない。
ただ、何かに躓いたときに読んでくれればうれしいと思い、この自伝を書き始めた。
兵庫県の阪神間の川西市という小さな市の名も無い障害者である私の自伝を書こうと思い過去を振り返ってみたところ、政治・経済・教育・福祉などがドラスティックに激変し、障害者を取り巻く社会環境や考え方、障害者自身の考え方や思想の目覚ましい変化や、そのことにより障害者自身が行動を起こし闘い社会を変えてきたまっただ中にいたことを再認識し、この部分を避けては書けないという結論に至った。
川西市の、私の生きてきた50年ほどの障害者の実状にも触れなければならない。
あまりにも膨大な情報量なので途方に暮れたが、これを無くしては自分史は語れない。
今の私を形成してきた重要な部分である。
その時々の社会状況や、障害者の状況や考え方や思想等、なるべく解り易く書くつもりだ。
私というレンズを通して観るのだから、多少歪みはあるが、自伝だということで容赦願う。
私の形成に関して言うのなら、周りの不条理に対する怒りや悲しみも大きな役割を担ったといえる。
怒りや悲しみといった感情は負のイメージにとらえられがちではあるが、何かを考えたり行動を起こす原動力になると思う。
実際、私は怒りや悲しみを原動力にしてきた。
「いくつもの夜をくぐりぬけて・・・・・」というタイトルにしたのも決してカッコ良さからではなく、その辺の意味も含ませたかったからだ。
だから、その時々の不条理に対する怒りや悲しみといった感情を、なるべくそのまま書いている。
ほんの少し復讐心も入っている。
私の形成に無くては無くてはならないモノがもう一つある。
それは「出会い」である。
自己形成には、善し悪しは別にして、他者の影響が必要不可欠だ。
出会いは偶然ではなく、必然だと思う。
最近、ことにそう思うようになってきた。
最後に子供に聞きたいが、最後まで書ける自信が無い。
だから今書いておく。
「父ちゃんは、こう生きた。お前は、今、どう生きてる?」
1
戸籍によれば、1963年5月、私は生まれたらしい。
生まれてから数カ月は大阪府豊中市にいたようだが、それ以降、18歳から22歳までの4年間を除けば、ずっと兵庫県川西市在住している。
母から聞かされていた話によれば、母の実家は成金で、そんな家の末っ子として、だいぶ甘やかされて育てられたようである。私が聞いた母の回想は、成金だったがゆえにかなり差別することが当り前に育ったことがうかがえる。たいしたことの無い家なのに、結婚前の父やその周囲を興信所に調査させた程である。
父も、男尊女卑の傾向がまだ色濃く残っていた九州の田舎の大家族、下から2番目、男児としては一番下の子供として、だいぶ甘やかされて育てられたようである。そのころ父は秀才だったらしい。父は村の期待を一身に背負い大阪へ上京し、国立大学を受験し、挫折している。
一浪して他の大学に入り苦学生時代を経て中小企業に就職し、そこで母と出会うこととなった。
母によると、当時適齢期と言われる時期を過ぎて、社内恋愛の末に、母の親類縁者から犬畜生呼ばわりされ、反対されながらも結婚したとのことだった。
しかし、後に戸籍を見ると、私が生まれる二カ月前に入籍している。
その他の事柄や、母の言動、同時の社会通念から、あまり望ましくない形での結婚だったこと、私の誕生も然りだ、ということは容易に想像できる。犬畜生呼ばわりされも仕方がないと思う。
母方の親戚のほとんどが母の実家の近くに住まうのに、うちだけ他市にあったのも、母の実家の対面を保つためであろう。
そんな父母に追い打ちをかけたのは、私だったかもしれない。
仮死状態、やや未熟、黄疸ありで生まれてきた私は、保育器に数週間入った後に退院した。
夜泣きや発育の遅れに父母が気付き始めたのは、生後数カ月が経ったころだった。
父母は、病院回りを始めるもどこの病院でも異常は見落とされた。
そういった診断に安堵する一方で、私の夜泣きや発育の遅れといった異常さは目立っていく。
慣れない家事・慣れない場所での新生活・そして初産での育児しかも夜泣きや発育の遅れといった異常、成金の娘だったというへんなプライドのせいもあり、母はノイローゼになった。
当時の詳しい状況はしらないが、たぶん見かねたのだろう、父方の祖母が育児の手伝いに来てくれていたようだ。もともと母はそんなに子供が好きでは無かったことと、後の暴力的な子育て(今で言う児童虐待に近い)から、祖母は私の身をあんじていたのだろう。それから亡くなる前年(私が12歳のころ)まで、農閑期には事あるごとに九州から来て私の世話や安全を守りながら、生活に関するさまざまな知識を教えてくれた。祖母は母の暴力から割って入って身を呈して私を守ってくれていた。そんなとき、祖母は、母に「あんたさんば疲れとるばい、ここはあたしに任せてくさ、休んでおらっしゃい」と言い諌め、その場から母が立ち去った後、怯えている私を抱きながら「正樹シャンはなんも悪くなか、お母さんはすつこし疲れておらっしゃるだけたい。ばってん、許してあげてくんしゃい」といい、安心させてくれていた。悲しい眼で・・・・・。私は、子供ながらに、祖母がいるときは安らげた。
父母が、私が脳性まひであることを知ったのは、私が2歳のころだった。それまで受診した医師たちの「発育が遅れているだけで異常はない」という言葉を信じたい半面、明らかに異常な私とのギャップに不安を感じていたのだろう。最後にと思って受診した阪大病院で、父母は、私が脳性麻痺であることと、治らないということを告げられた。その時の父母の受けた衝撃と、奈落の底へ突き落とされるような思いは、私の想像をはるかに超えるものだっただろう。
脳性まひという聞き慣れない言葉に戸惑っただろう。
犬畜生呼ばわりした結婚の末、脳性麻痺が産まれたのだから、母の実家や親類縁者が若い父母に何を言ったかおおよそ想像できる。
母の実家や親類縁者は、親戚に私のような脳性麻痺という障害を持つ者がいることが知れ渡るのをことさら恐れたようだ。後に事あるごとに、私はそれを何度も思い知らされた。
わずか2年の間で、成金のお嬢様から中小企業のサラリーマンの妻へ、差別する側からされる側になったのだから、母のブライドは破壊されたのだろう。
母は、成金のお嬢様時代引き連れて遊び回っていた友達との連絡を自ら断った。
転落した(母はそう思っていたと思う)自分を隠したかったというのもあっただろうが、おそらく、そうすることによって、ブライドを持った自分の精神の均衡を保ったのだろう。35年後、母は同じような行動をとることになる。
当時のことはあまり多くは聞かされていないが、父の一言で母が救われたということは聞いたことがある。
また脳性麻痺を産むかもしれないという不安から、その頃母がみごもっていた第二子を堕胎させたことも聞いている。私は、死ぬまで、その子の命を背負っていくつもりでいる。
父母が立派だったのは、当時はまだ障害者が居る事を隠そうとする風潮があった中、積極的にかどうかはわからないが、私を近所に隠さなかったことだ。すでに近所の子供と遊ばせ、近所に存在が認識されていた私を、もう隠すことができなかったのかもしれない。
近所の子供が頻繫に遊びに来ていたし、それを拒まない近所の人たち、そういう面では恵まれた環境だったと思う。
幼なじみや近所だった人たちは、今でも街中で出会うときさくに声を掛けてくれる。これは私の宝だと思う。
しゃべりだしたのも2歳くらいだったと聞いている。私への刺激にと、父母が買ったテレビが、功を奏したのかもしれない。
私の記憶で一番古いものは、父の胡坐のうえで座ってテレビに映ったアベベのゴールシーンを見ているというものだ。以来、私はテレビの番となった。その結果様々な知識を得ることになった。私がしゃべったことは父母にとって、微かな希望の光と感じただろう。特に父はそれから小学校に行くまで、毎日終業後脇目も振らず帰宅し、私に英才教育を施したほどだった。
平日、父は、会社から帰宅後、風呂が沸くまでの間私に算数を教え、風呂が沸くと私を風呂に入れ、夕食後寝床で、グリム童話全集を私に読ませた。日曜・祭日は、ステレオの前で胡坐をかき、その上に座らせた私に、クラッシックや野鳥の鳴き声のレコードを聴かせていた。
父は「お前は体は動かないのだから頭を使いなさい」と毎日のように私に言っていた。
この頃の父はマイホームパパだった。
妹が生まれたのは私が3歳の秋だった。第二子を堕胎させた後、父母に何があったのか、どういう経緯で 産むという決断に至ったのかは不明である。
妹が生まれたことで、幼い私にも、意識の変化があったのかもしれない。それまで寝たきりだった私が突然自力で座ったのだった。父母はもちろん、近所中が驚いたらしい。父は会社から早退し、近所中の人が見に来たらしい。
私が覚えているのは、景色を一変したことだけだ。
妹が生まれたことで、私は留守番することが多くなった。留守番中、テレビの番。当時のテレビは、ダイヤル式チャンネルで、自力でかえれなかった。母は出るとき、NHK教育放送をかけて行った。母が出ていくと2,3時間は帰ってこない。私は受動的に幼児番組から高校講座まで見ることになる。それが毎日続いたら、知識として頭に入るのは自然であろう。5歳である程度知識はあった。
大きなニュースは何日も徹夜してテレビにかじりついた。よど号事件・東大安田講堂占拠・アポロ月面着陸・浅間山荘事件・・・・・等々だ。
科学・ネイチャー・ドキュメンタリー・時事・音楽・美術・時代劇・ドラマ・特撮モノ・アニメ等々、あらゆるジャンルの番組を見て刺激を受けた。
ことにアニメ、その中でもジャングル大帝の特に背景画とBGMには感動したし、その後の私に多大な影響を及ぼした。ジャングル大帝との出会いが絵描を目指す動機となった。
身体の面では、近くの鍼灸院に通い、機能訓練のようなことを受けていた。そこの先生が、市内の未就学身体障害児を対象に、市立市民病院の機能訓練室のような場所を借りて、機能訓練に重きを置いた親子で集う場「あゆみ園」を開くことを聞き、父母は私の入園を決めた。
私を含め十数組の母子が集まり、私が6歳になる年の春、「あゆみ園」は開園した。
川西市初の障害児に対する大規模な支援施策はこうして始まった。
私は自分の障害に自覚がなかった。障害児なんか始めて見るので、変な奴ばかりだと思っていた。幼いながらその中にいる事に違和感を感じた。
なぜ、近所の子供と同じ幼稚園に行けないのか、分からなかった。ただ、なんとなく近所の子供とはどこか違うということは分かっていたし、妹が成長するごとに私よりできることが増えていくのだから、少し焦りは感じていた。しかし、そんなものだと思っていた。「あゆみ園」でも、こんなものかと思い、すぐに慣れた。
「歩きたいか?」と、聞かれれば「歩きたい」と、答えていたものの、なぜそんなことを問われるのかが、分からなかった。
ほぼ先天性障害の私には、自身の身体が当り前で普通だった。
私はこれまでの経験から、障害とは、比較によって、確認や認識し得ると考える。
その頃も今も、健常と一般的に呼ばれている身体をしらない私にとつて、自身の障害を認識するのは難しい。
健常の体をしらないということは、比較する材料を持ち合わせていないということになる。
したがって、他人が思っているよりは、障害の自覚は薄い。不便さは感じても、不自由さはあまり感じない。
子供の頃なら尚更だろう。
だから、痛くて辛い機能訓練は子供の私には理不尽に思えた。
正直なところ辛かった。しかし、集団の中でいろんな人と交流するのは楽しかったし、対面を気にする母は、外では機嫌が良かった
家にいるよりはましだという、あまり積極的ではない理由で「あゆみ園」を好きになった。
私が「あゆみ園」に通うため、妹は保育所に預けられた。母を独占する形にはなった。妹の目にもそう映っただろう。
妹がそのことで私に言及したのは、妹が受験のころだった。
だが、父母や親戚の期待度は、露骨なまでに妹のほうが大きかった。
私と妹か成長するほど、それは対応の差という具体的な形で表れてくる。
母の親戚もそうだった。
母は川西市肢体不自由児者父母の会という、親の団体に所属した。親睦と情報交換が目的だったと思う。
良い母親だ立派だと周りから評価されたり、憐れまれたりすることに、優越感を感じていたかもしれない。実家への意地もあったのかもしれない。
内と外で人格が違うのもそれで説明がつく。
幼い私には分からなかったが、当時、「あゆみ園」には、学齢期や学齢期を越えた未就学障害児者も通っていた。就学前の障害児のほうが少なかったように記憶している。想像力の欠如か考える余裕が無かったのか分からないが、障害児の就学問題が私に波及してくるとは、私の父母の考えが至っていなかった。
その秋、父母は自分たちの考えの至らなさを痛感しただろう。私と同年代の近所の子供には、入学の案内が届いていのに、私には届かなかったからだ。代わりに、就学猶予の通知が届いた。
猶予といえは、特別に施されるもののように聞こえはいいが、けっしてそうではない。学校や行政・教育委員会が人事や予算を盾に、障害を理由に自らの義務を放棄し、障害児の教育を受ける権利を一方的に奪うものだった。
これは明らかに憲法を犯し、基本的人権を無視し、教育基本法の理念にそむく制度だ。簡単にいえば学校の厄介払いだろう。市の教育委員会ですら、障害児の教育を受ける権利を守る姿勢はなかった。また、それが罷り通る社会でもあった。義務教育等、当時、障害児には存在しなかった。
当時の社会状況もあるが、こういったことが当り前のようになっていたのは、将来に希望を持てず、あきらめ、現状に甘んじていた学齢期後半や学齢期を越えた未就学障害児者の親たちの罪だろう。
私の父母があわてたのは、就学猶予の通知が届いてからだった。
父母はとりあえず、すぐ川西市教育委員会に出向いたが、相手にしてもらえなかったようだ。母はそのことを、「あゆみ園」の園生の母親たちに話したところ、学齢期後半や学齢期を越えた未就学障害児者の母親たちは、将来に希望を持てず、あきらめ、現状に甘んじていたし、幼児期の障害児の母親たちは、就学にはまだ関心が無かったようだ。
関心があったのは私を含めて四人の障害児の母親だけだった。
1つ上が一人と二つ上が二人と、私以外の三人は学齢期に入っていた。内二人は過去に、市立川西小学校の特殊学級の体験入学はしたものの本入学には至らなかったようだった。
私を含む四組の母子は川西市役所に何度も足を運んだ
その中で、当時の市教育委員長の言葉は赦し難い。
「こんな無茶を言って来たのはあんたらだけだっせ!」と言った後、彼は、私たちを指さして、私たちを前にして、「こんな子、教育なんか意味おまへん!市民の税金をそんな無駄な事に使われへん!こんな子らに使う金はありまへん!(実際はここに書けないぐらいの不適切なことばだった)」と言い放った。
市教育委員長のその言葉は、障害児である私たちの存在自体を否定するものであり、私たちを前にして言ったということは、障害児をはなから馬鹿にしていたと断定できる。
逆に言えば、市教育委員長は自ら、程度の低さと、人として最低であることを、露呈したのだった。
川西市は、そんな人に教育行政をまかせていたのだ。市自体、程度が低かったこともありありとわかる。
私は、子供ながらにも、市教育委員長のその言葉の意味は、なんとなくわかった。
ショックだったし、悲しかった。
母たちは怒りに震えていた。
今でも思い出すと怒りを覚える。
本人の目の前で、ああいう言葉を言い放つ、良識の無さと、他者の存在を否定する言葉は、教育委員長としてはあるまじき行為だったと思う。
ああいう不適格者を教育委員長にした川西市と、川西市教育委員会に謝罪を求めたいし、当時の教育委員長がまだ、ずうずうしくのうのうとくたばっていなければ、私の目の前で土下座をさせてやりたい。
今でも、あの言葉と、それに対する悲しみや怒りは、忘れられないし、これからも忘れてはならないと思っている。
障害児への教育を特殊教育とよび、当時、一般の公立学校で特殊教育を行う場合、特殊学級を設置し、その特殊学級で特殊教育を行っていた。川西市でも少なかったが、特殊学級を設置している一般の公立学校はあった。が、受け入れる対象は軽度の知的障害に限られていたようだ。肢体不自由でも極軽度の障害児は普通学級に受け入れていたようだ。金がかかる、結局ただそれだけの理由で、川西市は私たち重度障害児の、教育を受ける権利や機会を奪っていた。まったく不条理な話だ。
特殊教育を行う場は他にもあった。養護学校だ。先に記したように、重度障害児の教育などまったく政策に無かった川西市だったから、勿論、養護学校を検討する気も無かった。
母たちは次の行動に移った。市には頼らず、私たちを受け入れてくれる養護学校を探し始めた。
当時、兵庫県下でも養護学校は少なかったうえ、その養護学校ですら、重度障害児の受け入れは始まったばかりで、養護学校がある市も他市の重度障害児の受け入れる余裕は無かった。受け入れるとしても、市同士の合意とその重度障害児が住む市からの拠出金が必要だった。
川西市の近隣の市で、当時、肢体不自由児の養護学校がある市は、尼崎市・西宮市・神戸市だった。通学のことや、市外の児童を受け入れている実績を踏まえて、母たち四人は、尼崎市立尼崎第一養護学校(後の尼崎市立尼崎養護学校。今後尼崎養護学校又は尼養と書く)との、前代未聞の行政抜きでの交渉を始めた。
勿論、事前に川西市の教育委員会に尼崎養護学校への謁居入学の許可を求めたが、川西市の教育委員会はちんけなプライドに固執し許可を出さなかった。
すでに伊丹市の肢体不自由児は受け入れていた尼崎養護学校であったが、川西市の後ろ盾の無い母たち四人の交渉は、困難を極めたらしい。
入学試験だけは受けさせてあげます、というのが、尼崎養護学校の最終回答だったようだ。
母たちにはそれを呑むより他に、選択肢は無かった。
入学試験当日は、穏やかな陽気だったことを記憶している。
子供の私は好奇心の塊だった。初めての学校、人、物、見るものすべて、私にとって初めての経験だった。何が始まるのかとわくわくしていた。私以外の私の親を含め川西市から来た四人の障害児と親た
ちは、ひきこもごもに緊張していた。
試験会場になっていた教室は日の光が入り明るい雰囲気だった。
尼崎市内・宝塚市・川西市・猪名川町から、総勢30人強の障害児が試験会場になっていた教室に集められた。
私以外の障害児は慣れない環境で緊張し、不安がったり呻いたり泣きわめいたりしていたからだろう、親が付き添っていた。付き添っていた親にも焦りと緊張があったのだろう。なだめたり叱ったり忙しそうだった。
教室内は、さながら動物園のようににぎわっていた。
入学試験という言葉の意味を全く理解していなかった私は、はしゃいでいた。何が起きるのかという期待感でにこにこしていた。そんな私の前に、知らないお姉さんが二人、私と向かい合わせに座った。
自己紹介で先生だと分かった。私の試験管だった。
試験官は少し私と会話した後、しばらく二人は話し合ってから、私の母に廊下で待つように指示した。廊下で待つように指示されたのは、私の母だけだった。母が出されたことで私は開放感を感じた。
そういう中、1969年度尼崎養護学校の入学試験は始まった。
試験内容は、口頭で出題し口頭で回答するものや、絵を見て口頭で聞いてきたことに答えるもの、パズルのようなものだった。
私は遊んでもらっているものだと思っていたから、たのしくて調子に乗って回答していたら1時の予定が10分で終わってしまった。
試験官である二人の教師は、私の回答を見なおして顔を見褪せていた。一人の教師が私の相手をし、も
う一人は忘れ物を取りに行くと言い席を立ち足早に試験会場になっていた教室から出て行った。その様子を、他の子の試験官である教師たち全員が一瞬注視して、次に全視線が私に向けられた。私はにこにこしていた。10分後席を立ち教室から出て行った教師が紙の束を持って急いで戻ってきた。試験は再開された。当時の私は何も考えず遊びの続きをしている感覚で、答えていたが、試験は再開されたのではなく、まったく問題の内容が変わっていた。小学生レベル、中学生レベル、高校生レベルと、問題の内容が徐々にエスカレートしていった。難無く私が答えていくごとに、確実に試験管である先生二人の顔色が変わっていった。
まだ就学前の私に、今の総理は?とか・アメリカ大陸の発見者は?とか・ニュートンは何をした人?とか・酸素の原子記号は?とか・植物が葉で栄養を作ることは?とか・火山はどうして噴火するの?とか・日本史で出てくる有名な人十人言える?・・・・・などということを、聞いていった。
もうすでに、小学部の入学試験ではなくなっていた。
楽しんで私は次々と答えていった。私にとってそれはテレビで覚えたことばかりだった。
試験が終わると、周りからため息とどよめきがおきた。見ると、ほかの子の入学試験を終えた教師たちに囲まれていた。私は急に緊張した。
廊下で待っていた母が呼ばれてその教室に入ってきたのは、他の親子が全員入学試験を終え退室後しばらくしてからだった。
よほど疲れていたのか、私はそのあとすぐ寝たらしい。
だいぶ後に聞いた話だからこの時かどうかわからないが、親たちは直接、それぞれ入学試験の合否を聞かされたらしい。
私の親は、本校始まって以来の優秀な成績だと称賛され、「お子さんはぜひうちに欲しいから、尼崎市の教育委員会から川西市の教育委員会にはたらきかけてもらうよう本校からすぐに要請します」と言われたらしい。
これも後に聞かされたのだが、川西市から行った他三人の子の親は、ひきこもごもだったらしい。
一人の親は、普通の成績だったようで、来させたければどうぞ、という、非積極的な言い方をされたらしい。残り二人は不合格とされ、来なくてもいいとの内容だったらしい。二人の親はぎりぎりまで交渉し、なんとか出たのが、私との抱き合わせで入学を許可する という回答だったそうだ。二人の親にとって屈辱的な回答だったであろう。しかし、子供のため、この条件を、呑まざるを得なかったのだろう。
これは、川西市の後ろ盾かなかったことと、当時、特殊教育の場である養護学校ですら、全ての子供に教育を・・・などという、確固たる理念や信念がなかったことをものがたっている。
憲法も教育基本法も、意味を成さず、まったく助けでくれなかった。法とはしょせんそういうものであることを、その後幾度となく思い知らされることなど、当時子供の私には知る由もなかった。
入学試験の合否を聞かされ帰ってきてすぐ、家に川西市の教育委員会から呼び出しの電話がかかった。
私の親がさっそく出向いたところ、憮然とした表情であの無能な不適格者の教育委員長が待っていた。
教育委員長はその無能さをいかんなく発揮し、開口一番「あんたら!よう、まあ、勝手なことしてくれましたな!私らの顔、丸潰れでんがな!どないしてくれまんねん!?」といった。
これはチンピラより低脳な言いがかりだった。
当時、市どうし力関係があったようだ。川西市は立場が弱く、尼崎市には頭が上がらないようだった。
教育委員長はさんざん低脳な言いがかりを言った後、ようやくしぶしぶ四人の尼崎養護学校への入学は認めた。認めざるを得なかったというのが、正しい表現だろう。
ただし「通学は勝手せぇ」ということだった。
とんだドタバタ劇だった。
私より二年上に川西から尼崎養護学校にすでに通学していた障害児がいた。
その子は頭脳明晰で、杖をつきながらもなんとか自力歩行していたから、特例として入学をみとめられたらしい。過去にも何人か特例として入学をみとめられていたらしいが、あくまでも個別の問題として処理されていたようで、それが後に続く私たちには、波及してこなかった。
通学の問題はあるものの、私たち四人の障害児の義務教育を受ける権利は守られた。
1970年4月、桜舞い散る中、温かい春の穏やかな日差しに包まれながら、私は尼崎市立尼崎第一養護学校に入学した。