第207話 岩窟のアロイス
またパチっと弾ける音がした。
暖炉に入れた薪の乾燥が、完全では無かったのだろう。
「なぁじいさん、そのアロイス爺さんとは……」
「うん、帝国に来てからは会っていない。実家からの手紙では、八年程前に死んだと聞いた」
「そうか……」
八年前か。かなりの長命だったんだな。
とは言え魔族は人族に比べれば長命ではあるが、それでもだな。
じいさんが子供の頃に、既にアロイス爺さんと呼ばれていたのだから、それなりの年、つまり老人であったはず。
アロイス爺さんは、その魔族の中でも長命であった部類だ。
「あの爺さんは死ぬ前に、あの双頭竜の酒を飲んだのかな? ドワーフ殺しの酒。あの酒を飲んだらもう、他の酒が飲めなくなるほどの美酒。天上の神々が飲む様な酒。だから爺さんは俺に言ったんだ・・・・・・・・・」
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いわく、その酒を飲めば他の酒など酒モドキの何か。
どんな銘酒ですら馬の小便にしか感じなくなる。だからアロイス爺さんは、飲むのは死ぬ間際、それまで飲まずにおくとクランツ青年に語ったらしい。
自分用に一本だけ残す。そしてその酒を末期の水ならぬ、末期の酒にすると。
そしてこうも言ったそうだ。
『もうお前の物だから飲むのはお前の勝手だが、一度飲んじまったらもう、他の酒が飲めなくなる。その位の美酒だ。だからこそドワーフ殺しと言う』と……。
アロイス爺さんは先程言った通り最初、餞別としてタダで渡すつもりだったらしい。
だがじいさんは若さ故か、そんな物をタダで受け取れないとそう言った。
とは言えアロイス爺さんは餞別だ、金なんか受け取れないと言い、二人で払う、金は要らんとの話になったらしい。
クランツ・ハイラーも今とは違い若かった。その為、融通や柔軟さが当然今より利かず、そして意地になった。
じいさんはアロイス爺さんに金を払う。一本につき金貨五枚払うと、そう言った。
そしてアロイス爺さんはため息を吐いたらしい。
そんなに払ったら、サザビー帝国に行くまでに家族四人、野垂れ死にしてしまう、と。
そう言われじいさんは言葉に詰まったらしい。
アロイス爺さんの言う通りだし、それ以前の問題として、魔族の国チェリッシュを出る事すら出来ない。
黙り込んだじいさんを見て、アロイス爺さんはまた、ため息を吐いたそうだ。それも深く長いため息を……。
そしてアロイス爺さんはこう言った。
『俺も人の事は言えないが、お前の頑固さは相変わらずだ。だがだからこそ俺はお前を気に入っている』と。
とは言うものの、このままでは話は平行線だ。だがじいさんが、一度言い出したら引かない事もそうだが、今更引っ込みが付かない事もアロイス爺さんは分かっている。
なので妥協案として酒一本に付き金貨一枚、それだけ貰うとそう言った。
だがじいさんも一度口にしたからには、やはり引っ込みが付かない。金貨五枚払うと、そう言った。
若さ故。言葉にするのは簡単だが、当事者達にとってはその若さは、簡単な事もややこしくする。若さとは面倒な問題となる原因でもある。
若さは馬鹿さ。と言う言葉を俺も聞いた事がある。
頭文字を一文字変えれば、若さと言うのは馬鹿さになる。それは言葉だけで無く、人間の在り方にも繋がっていると。
実際その当時のクランツ青年は、若さと馬鹿さを兼ね揃えていたし、先々の事を考えれば一本につき、金貨五枚を払う等どう考えても間違ってるし、若さ故にと言うのは言い訳にもならない。
だがアロイス爺さんは、伊達に年を取っていなかった。クランツ青年より一枚も二枚も上手であった。
クランツ青年の言に安易に乗らず、妥協案を出し、若いクランツ青年を言いくるめた。
年をとっても、頭が足りない奴なら熱くなり、頭に血が上って意地を通そうとするが、アロイス爺さんは他人に頑固だの、偏屈だの言われて居たが、思慮深い男でもあった。
『クランツ、お前が金貨五枚出す、俺はタダで良いが、妥協して金貨一枚で良いと言った。だがこのままじゃ話が進まん。だから俺がもう一つ妥協する。金貨三枚。俺は金貨一枚、お前は金貨五枚。なら間を取って一本金貨三枚ならお互いの丁度真ん中だ。それならお互い納得出来るだろ?』と。
じいさんが言うには、今にして思えばアロイス爺さんは納得もしてないし、だが仕方がないと思い、じいさんが何とか納得出来る様にしてくれたと。
あの時は分かったつもりになって居たが、今にして思えばあれはそう言う事なのだと。自分も年を取り、アロイス爺さんのあの時の気持ちが、ちゃんと分かる様になったそうだ。
じいさんは結局、アロイス爺さんから双頭竜の酒を買った。
本来は餞別として渡すはずだった物だが、クランツ青年に売ると言う形になってしまう事になる。
だがアロイス爺さんはアイスブルーから、サザビー帝国までの旅費。そして帝国での当座の資金と、受験に必要な諸々の経費を計算し、その上でクランツー家に必要な金、そしてクランツ青年が納得出来るラインを見極めている。
双頭竜の酒を持っていたのもそうだが、何故そこまで人の気持ちが分かり、色々と計算も出来る人間が世に埋もれ、じいさん以外の者を寄せ付けず、周りから人嫌いだと言われていたのか不思議でもある。
言い方は悪いが、アイスブルーと言う都市の、何処にでも有る様な町の、それも町外れに一人で住んで居たのだろう?
多分訳ありだったのだろうな。
アイスブルーと言う都市の、それこそ何処にでも有る町。
アロイス爺さんとの出会いと別れ。
それは帝国にもある様な、どこにでもある都市や町の片隅に、世に出る事も無く、独りで只ただ住む者にも人生があり、訳があり、日々をただ暮らしている様に見える人間にもソレはあって、だけど他人には分からないドラマの様な物。
ソレとはアロイス爺さんの人生劇の一場面であり、クランツ・ハイラーはアロイスの人生劇場の登場人物の一人であり、二人の出会いと別れは、その人生劇の場面一つだったのだろう。
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「今にして思えば、アロイス爺さんの好意を素直に受け取っておけば良かった。あの時は分からなかったが、アロイス爺さんは、その方が喜んでくれたんだろうと思うよ。結局最後まで心配かけてしまった……。爺さんは思っただろうな、こんなんでコイツは大丈夫なのだろうかと、そう思っただろうな……」
アロイス爺さんにしたら、人嫌いで人を寄せ付けないその自分が、子供の頃から知っていて、唯一心を開き、自分の近くに居る事を許した青年の事が心配になるのは当然だし、むしろ心配しない方がおかしい。
年を取らなきゃ分からない事もある。
自分が経験し、それで初めて分かる事ってのはあるのだから。
分かったつもりになっていても、実は全く分かってはいないってのもある。
ガキの時は特にそうだ。分かったつもりになって、でも実は全く分かってはいないって事等幾らでもあるし、それは経験を積まないと分からないのだから。
しかし……。
「なぁじいさん、さっきも聞いたけどじいさんはその双頭竜の酒、飲んで無いんだよな? 全部売ったってのは前に聞いたけど」
「飲んで無いよ。今にして思えば、本当に一本位は手元に残しておけば良かったと、心から思うが」
「そうよね。クランツともあのお酒の話をする事がたまにあるけど、全部売らず、一本位は手元に残しておけば良かったって、何時も言ってるの。私達が年を取って、人生が終わる前に二人で飲みたかったって、お互いそう思ってるの」
「幻と言われた酒だもんなぁ……。もうこの世には存在しないのか。飲んでみたかったな。いや、飲まずとも一目見て見たかったな」
本当に残念だよ、一目見てみたかったし、出来れば香りだけでも嗅ぎたかった。
と言っても、もう存在しないのなら仕方ないか。
「俺も飲んでみたかった。あの時は売った金で助かったが、今にして思えば本当に、一本だけでも売らずに取っておくべきだったな」
「そうよねー。後悔先に立たず、本当に今にして思えば、一本だけでも残しておけば良かったわ」
だよな。俺もそう思うよ。
先帝陛下にその話をした時は、既に陛下の寿命は尽き掛けてた。だからもし手に入ったとしても陛下は飲む事が出来なかったが、陛下はその様な酒を飲み死ぬのなら、後悔等一切無いって仰ってたな。
サリバンよ、何故もっと早くその話をしなかった? って叱られたっけ。
先帝陛下がまだお元気で、まだまだ気力溢れる時で在られたのなら、もしそうなら、その時に双頭竜の飾りの付いた酒を、どんな手段を使っても探し出し、必ず手に入れ様とされただろうな。
その場合、探索及び入手責任者は、俺になっただろう。うん、間違いなく地獄を見る事になっただろうな。
そう考えると先帝陛下には悪いが、良くぞ双頭竜の酒の話をもっと前にしなかったって、自分で自分を褒めてやりたい。
「あの……。そのお酒はまだありますが」
「「「えっ?」」」
マデリン嬢、今何とおっしゃった? 俺の聞き間違いじゃ無かったら、まだあると、そう聞こえたんだが?
「マデリン嬢ちゃん、今何と言った? 俺の聞き間違いで無かったら、まだあると、そう聞こえたが?」
「はいおじ様、まだあります。我が家に」
「ちょっと待ってくれ! 嬢ちゃんのひい祖父さんは全部売ったんじゃ無かったのかい?」
「その……。曾祖父は、おじ様から購入した十八本の内の十三本は売り、五本は残してましたの」