君を殺す化学反応
ある春の日、隣に座った幼馴染はこう言った。「恋愛、してみたくない?」
それは愚かな幻覚、君はそんなものを見たいと言うのか。全く馬鹿げているよ。
穢れを知らないショートボブに櫛を通し、私は彼女の毛の指通りを確認した。
「いいね、誰とするの?」
「誰でもー」
なんと浅はかな!君は一生に一度の恋で止まらないつもりか!
私は桜の花を取って彼女の髪に刺した。こんなキャラクター、どこかにいた気がする。
「誰でもって、随分危ない考えだね」
「ん?そう?ならちーちゃんでもいいよ」
振り返って笑う彼女は、木漏れ日できらきらと輝いていた。
「えっ」
「だって、賢いし、かっこいいし、王子様みたい!私、ちーちゃんのことずっと好きだもん!」
全く、君という奴は。愚かにも程がある、そんなだからこんな高校もギリギリで受かるし、そんなだから中学では美術以外良い点を取らなかった。
「…しょうがないな。いいよ」
「ほんと!?やったー!じゃあ、一緒に帰ろ!」
「それはいつも通りじゃないか…」
彼女が飛び付くように抱きついてきたため、髪に刺した桜はあっという間に落ちてしまった。無意味に木から剥がされた思考しない植物の悲鳴が、木のそよめきによってかき消されていた。
私に初めて恋人ができた。それはいつも可愛いだけの幼馴染で、いつか消える関係性であることは統計的に証明されている。
幼馴染は兎に角馬鹿だった。数学の知識は中二で止まっているようで、私は彼女の受験勉強を手伝う羽目になった。国語もできているかといえばそうではない、社会も理科も最低限に届いていない。私は頭を抱え、彼女にチョップした。それでも何とか高校は近くの公立に行けるようになった。彼女の両親には酷く感謝された、なんでも塾に入れるには頭が悪すぎて面子が丸潰れと言われるほどだったらしい。
私の家は然程裕福ではなかったし、それならば多少レベルの低い高校でも主席になれば学費の半額が免除されると聞いたため、私は特に理由もなくその高校を志望した。当然、頭の良い高校を望めばそれだけ学費が掛かるし最悪でも自転車圏内でなければならない。糞がつくほどの田舎でそんな高校は無いのだ。母はこれでもかというほど泣いた。貴女のせいではないと伝えても泣き止んでくれなかった。
勉強会の休憩時間の最中、その話をすると彼女は目をぱちくりさせて呑気に同じ学校だね、と笑った。それに何と返したかは覚えていない。
そして入学式を終えてから二週間ほど経って冒頭に至る。彼女の世話を焼くのはこれからも私なのかと思うと頭が痛くなった。
彼女との付き合いは年齢に比例する。私の家の近くにある豪邸、それが彼女の家だった。幼稚園が同じで、私はその頃からちーちゃんと呼ばれ懐かれていた。綺麗で清潔な制服に身を包んだ可憐な少女は、穴の空いた制服を着た私に興味津々に話しかけにきて、何の本を読んでるのとか何が好きとか、しつこいったらありゃしなかった。彼女の両親は会社の社長らしいが、娘に継がせる気はないようで好きなように生きさせているらしい。まあ、私も多くの従業員を路頭に迷わせるかもしれないこの女に会社の命運を託したりはしないだろうなと、阿呆な顔をした彼女を見て思った。両親は賢明なようである。
「ね、夏休みはどこ行く?別荘借りようか?」
「どこにも行かない、君は早く問題を解く」
「えー!!折角恋人になったのに!?」
「あっ、馬鹿」
恋人になった次の日の昼休憩、彼女がそこそこ大きな声でそう言った。大慌てで口を塞ぐが、周囲の目がここに集中する。まずい、そんな噂が立ったら学費の半額免除が…。ぶわっと高くなった体温に比例して汗が背中を伝った。しかしクラスメイトたちは一瞥しただけで気にもとめていない様子で、また下らない世間話に花を咲かせ始めた。
そういえば、ここにいるのはほとんど顔見知りだった。ならば焦ることはなかった、何せ彼女の言動に振り回されるのはみんな懲り懲りなのだろうから。ほっと一息吐いて、私は彼女のすっからかんの頭を叩いた。よく響く頭だった。
ちなみに中間も期末も赤点は免れた。平均点に及ばないのは何故なのだろうか。私は一生彼女を理解できないだろう。
夏休みになると、彼女に連れられて海が見える別荘に着いた。母は一人で寂しくないかと思ったが、楽しんでおいでと送り出してくれた。母にはお嬢様とお付き合いしているなんてとても伝えられず、私たちの関係は静かに続いていた。
「毎年家族で来てたんだけど、パパとママが二人で行きなさいだって!ほんと、優しいよね!」
彼女はキャリーケースをソファの上に置いてからテラスへ向かって小走りして、窓を開けてから海に手を振った。天真爛漫といえば聞こえはいい、アレについてはただの馬鹿だが。私は彼女の荷物と自分の荷物をそれぞれ部屋に運んだ。
「優しいというか…雑だよなぁ」
「そう?だって恋人だもん、家族と一緒とか嫌じゃない?」
「…君、まさかとは思うけど、ご両親に…?」
「なに?」
「…つ、伝えて、しまったのか」
「あったりまえじゃん!パパ、超喜んでたよ!ちーちゃんだったら何もかも安心だって!」
「…はぁああ…もう、何を考えているんだ…」
頭をまた抱える。今度は腹が痛くなってきた。しゃがみ込むと彼女は綺麗な手で体を抱きしめ、私の頭を撫でた。
「ちーちゃん、気にしすぎだよ。今時こんなのフツーフツー」
「全世界のLGBT関係者に謝罪しなさい」
「ごめんなさいっ、でも私たちは幸せだもん。それは変わんないよ」
「…そう、だね」
君はそういう奴だよ。
課題をそこそこに、水着を着て海へ出向いた。塩に揉まれる感覚は好きではないが、彼女が強引に引っ張るものだから二人で海に落ちた。プライベートビーチでなければこんなはしたない姿、誰にも見せたりしない。
水泳は苦手だ。幼い頃に川に落ちたことがあってから、どうも恐ろしい。その事を知っているはずの彼女は眩しい太陽の下で、色白の柔らかい肌をさらして私を誘惑した。
「気持ちいいね!海好き!」
「そうだね」
「あはは!」
私は唇を舐めた。やはり塩っぱくて、きっと彼女の唇も同じなのだろうと思った。
夜になると花火をした。パジャマとは呼べないジャージに対し、彼女はきちんとしたネグリジェだった。ここでも身分の違いを感じた。
「ね、どの花火する?私途中で色変わるやつ」
「私もそれでいい」
「じゃあ、蝋燭、火をつけるね。風がなくてよかった」
花火は綺麗だった。小学校の頃から彼女と過ごす夏の一項目に、それはあった。母は恐ろしげに火傷をさせるなと言ってきたが、こいつが勝手に火傷するのであって私のせいではない。
「赤色から緑だ、クリスマスだね」
「リチウムと銅だよ、化学反応だ」
「あ、なんだっけ、それ、えん…えんしょくはんのー」
「よく覚えているじゃないか、偉い偉い」
「へへーん、ちーちゃん先生のお陰だね」
塩のせいで若干髪が傷んでいる。後でまたトリートメントをしてあげないといけない。
目を閉じて、暗黒に落ちる直前に彼女が部屋に来た。ノックもしないなんて珍しいと思ったが目を開ける気にはならなかった。
「おやすみなさい、ちーちゃん」
そう言って彼女は花の香りを纏った髪を近づけた。
唇に優しく触れて、彼女は去っていった。微かに響いたのはリップ音だったが、私のものか彼女のものかはわからなかった。
どうするのが正解だったのだろうか、アインシュタインならこの問題に答えられるのだろうか。
扉が閉まる音を聞いて、少し後悔した。
別荘から戻るとすぐにメールで夏祭りに誘われた。受け取り次第すぐに、行く、と一言だけ返した。
「じゃあ、ちーちゃんの分の浴衣も用意しておくね!」
その返事はまるで彼女が喋っている言葉がそのまま写っているような、短くも明るい文体だった。
浴衣を着付けてもらい、私と彼女は縁日に繰り出した。彼女は幼少期から派手なものが好きだったが、今日は抑えていた。しかしその髪飾りのダイヤモンドが本物であると私は知っている。
「君、どうして髪を切ったんだ。長いのもよかったけど」
「だってちーちゃんとお揃いにしたかったんだもん」
「そんなことしなくても…」
「いーの」
長い方が、君の好きなツインテールに適しているのに。
そう思っても言葉にはできない。私は愚かにも彼女のその言葉に心を踊らされていた。
「ねえ、アレ食べよう。たこせんべい」
「君は食べるのに向いてないよ、一度だって卵を落とさなかったことないじゃないか」
「今日こそは!」
「それも毎年だね」
空に花が咲く頃には、腹も荷物もいっぱいで、私は別荘の仕返しに彼女の頸に口づけをした。驚いて金魚のように真っ赤になって、口をぱくぱくさせていた。ざまあみやがれ。
夏休み明けの課題テストも満点だった、彼女もギリギリ合格だった。
二学期が始まった、これからは体育祭に文化祭、それから、クリスマスに年末年始…彼女と過ごすイベントはもう毎年変わらないことにようやく気づいた。随分長い間から一緒だったからだろう、今や特別な意味を持ったからと言って何も変わりはしないはずだった。
夏祭りのあの日から、彼女は私にキスをせがむようになった。恋人だからと言われれば、私は有無を言えず、応えさせられた。自然にできるようになるまでそう時間は掛からなかった。彼女の桃の香りがするリップクリームをこんなに味わっているのは自分だけだと思うと何だか清々しくて勇敢になれた。
夏の足音が遠ざかる月、放課後の居残り勉強をしながら彼女がまたキスをせがんだ。その日で三回目のキスだった。ひぐらしの悲しい鳴き声に隠れて、私は彼女のささやかな胸の膨らみを揉んでみた。彼女は顔を真っ赤にして、目を潤ませて、鼻から声を出した。
これでもかと心臓が鳴っている。ひぐらしの声が聞こえなくなるほど、お互いの鼓動が高鳴れば、もう一度深く深くキスをした。
風の噂で、彼女に告白した男子がいると聞いた。
その日、美容院にいってこれでもかと髪を短くすると、彼女は驚き、いつもの呑気な笑顔で似合うねと私の頭を撫でた。彼女は噂については何も言わなかった。彼女の髪が伸びた気がする、このまま伸ばせば、あの花火のような美しい円をベッドに描くだろうか。
今日は彼女の足の甲にキスをした。彼女にこんな事をするのは自分だけだと思うと、溜飲が下がって、混ざった心臓も肺も肋骨も、元の位置にもどった。
彼女はプリンセス、私は王子様。クラスでの立ち位置はそんなところだった。文句はないが、ああ見えて彼女は度胸がある。あの子の荒っぽさは獰猛な虎に似ていた。しかし力がなくて愚鈍なものだから、私がサポートしてあげるのだ。彼女についていけるのは、私だけだ。どこぞの馬の骨なんぞに、彼女を渡すものか。
体育祭の日、目一杯活躍してから彼女と手を繋ぎ、見せつけるようにキスをした。彼女は真っ赤になって怒って、私をぽこぽこ叩いた。学費が半額免除になってはじめての大事件となった。少しヤンチャが過ぎたようで教師にはじめて怒られた。
まだ夏の香りがする。秋までは遠い。
また彼女に手を出そうとした男がいるらしい。懲りない奴だ。彼女には私しかいらないのに。馬鹿な奴。
クリスマスが近づくにつれて彼女の周りにハエが集るようになった。こんなの、間違ってる。
期末試験、どうして赤点を取ったの?私と一緒に勉強したのに。仕方ないね、追試では合格できるよう、もっと一緒にいてあげる。
どうしたんだい、随分酷い隈だ。眠れないのか、怖いのか。嗚呼、可哀想に。僕がちゃんと守ってあげる。
「…ねぇ、別れよ…」
「は?」
「ちーちゃん、なんか変。私、前のちーちゃんがいい」
「…」
「…」
「…そう、わかった」
「…ごめんね」
「謝らなくていい」
いいんだ、君には僕しかいないだろ。
大丈夫、関係が少し昔に戻るだけ。君の隣には僕しかいない。
そうなれば、君は…。
誰かのものになってしまうんだろうか。
そうなる前に殺してしまおうか。
この化学反応は幻覚を引き起こすんだよ、君は知らないんだろうけど。
君を殺すのは、この化学反応だ。君が起こしたんだ。君のせいだよ。君が悪いんだ。
僕から離れようだなんて!
できるわけ、ないだろ。
「また明日」
「うん」
申し訳なさそうな彼女の頭を抱きしめた。
僕より少し小さい君が、拒もうとしている。愛おしくて、可愛くて、たまらない君が大好きだ。
ねえ、次は、きちんとやってみる。今度こそ君の王子様になってみせる。だからチャンスが欲しい、君を愛していいという証が欲しい。
彼女はほんの少しだけ背伸びをしてキスをした。
「ねえ」
彼女を目一杯抱きしめてやりたくて、でももう恋人じゃないのに、どうして?どうすればいい?
なんて酷い子なんだろう、君は私をなんだと思っているの。冬の直前散る枯れ葉みたいに、もう生きる価値がないって思わせておいて、頭の中で君を殺させて。
涙が止まらない、鼻が熱い。行き場のない手は空をつかむばかりで、君にちっとも届かない。
「ちーちゃん、私と付き合って」
仕方ないな。君に振り回されるのは、僕しかいないから。