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ばたばた足早に駆けていくルンフェイの姿を見かけたシヨウとセイジュは首を傾げた。
いつもよりも帰るのが早いなあと。そして恐ろしく足が早いと。
ルンフェイはかなりの俊足の持ち主だったのかと思いながら、二人は執務室へと向かった。
「閻羅様、失礼します。少し早いですけれど、お仕事の時間が……」
迫って参りましたと声をかけようとして、シヨウは思わず立ち止まった。
執務室の空気は重苦しかった。
まるで人界の通夜のようだとシヨウはセイジュを振り返った。
お互いにこくりと頷くと、生気を失ってくたびれている閻羅に声をかけた。
「閻羅様」
司録であるシヨウは追加の書類を手にしながら、机にうつ伏せになっている閻羅に声をかけた。
「そろそろ、お仕事の時間ですよ」
「ルンフェイ……」
「こちらの書類にお目をお通しください。今月末、地獄から解放される魂の目録です」
「ルンフェイに……」
「それに伴う開廷の日取りを組まねばなりませんので、もしもお休みが欲しければ、早めに仰って下さいね」
閻羅は脱け殻のようになっていた。
ルンフェイ、ルンフェイと馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉を繰り返している。
何があったのだろうかと、シヨウは眉間に皺を寄せた。
(ついに阿呆だとバレたか……?)
しくじったのかと閻羅を見ると、閻羅は青い顔でようやく呟いた。
「ルンフェイに、……別れてくれと……言われた……」
「……まあ、今月で三ヶ月目ですしね」
閻羅はのろのろと顔を上げた。
「それが、なんなのだ……」
閻羅はあからさまに落ち込んでいた。
別れを告げられたことが余程堪えているらしい。
「三の倍数が、恋人に飽きてしまう目安なんだそうですよ。ほら、倦怠期も離婚も別れ話も三日とか三ヶ月とか、三年目とかでやって来ますから」
なんの慰めにもならないその言葉に、閻羅は顔を力なく伏せた。
「ルンフェイ……」
泣きそうな声にシヨウとセイジュは肩をすくめた。
「重症ですね……」
「何があったのだろうな?」
「ついに気持ち悪さが露呈したのでは?」
シヨウの無情な言葉が閻羅の心にぐさりと突き刺さった。
そんなに気持ち悪くはなかったはずだと、必死で記憶を掘り返した。
「隠してはいたのだよな……?」
セイジュが閻羅に確認を取ると、閻羅はこくりと頷いた。
ルンフェイの目の前で、醜態をさらしたことなど一度と無い。
まだ、無い。
「なにかあったのか?」
恋人同士の無情な現実を告げるだけのシヨウと違って、セイジュは閻羅の心情に寄り添おうとしてくれた。
「ルンフェイに、……口づけしたんだ……」
ーーーああ、そう言うこと。
シヨウとセイジュは即座に察した。
「そしたら、………わ、別れてくれと……」
閻羅は涙目だった。
そんな閻羅に哀れみの視線を送りながら、二人は色々と察してしまった。
たぶん、感情が先走ってしまい、ルンフェイに無理強いするような口づけでもしたのだろうなと。
もしくは雰囲気も相手の心情も汲み取れないような、情緒の無い口づけをしたか。
あとは単純にやらかしたかのどれかである。
「まあ、……思わず口にしてしまっただけかもしれませんよ? ……ほら、突然口づけなんてするから驚いたのかも」
シヨウは珍しく慰めの言葉を口にした。
このままでは仕事にならない。なんとか立ち直って貰わなくてはと必死だった。
「そうだぞ、王よ。女性は気を引こうとそう言うことを言ったりするらしいぞ」
セイジュも珍しく口を開いた。
初めての恋愛に苦しんでいる閻羅を励ましたいという、純粋な気持ちゆえである。
「そうですよ閻羅様! 引き止めてほしくてわざと別れてって言う女性は結構おりますよ! ほら、駆け引きってやつですよ閻羅様!」
しかしセイジュの言うことにも一理あると、シヨウは全力で乗っかった。
女性であれ男性であれ、恋人にわざと別れの言葉を告げるのは、よくやる常套手段なのである。
そうして相手の気を引いたり、もしくは相手の気持ちを計ろうと試したりするものだ。
別れたくない、の一言を聞きたいがためにわざわざ演技までして言うこともあるくらいである。
(ルンフェイ様がそんなことを考える方には見えませんでしたが……取り敢えずそう言うことにしておきましょう)
さもなくば仕事にならないとシヨウは思った。
この萎びたカエルのようになっている閻羅を、何とか立ち上がらせねばならぬ。
「……ルンフェイはそんなことしない……」
萎びたカエルのようになっていても、判断力は残っているらしい。
「ルンフェイは……ルンフェイは……本気で、私と……」
ーーー面倒くせえ。
いまだにうじうじと落ち込み続ける閻羅に、シヨウは思わずそう思った。
純然たる本音であった。
自分で言って自分で落ち込むくらいなら、おとなしく他人の口車に乗せられておけばいいものを。
「うっ、……ルンフェイ……」
想像以上に傷が深いらしく、閻羅はなかなか立ち直らなかった。
あまりのじめじめさにキノコまで生えはじめてしまい、事は深刻だとシヨウはセイジュを振り返った。
「これは困ったことになりました……」
「王が落ち込んでおられる……」
そんなもの見れば分かると、シヨウは眉間に皺を寄せた。
こんな状態の閻羅を法廷に出すわけにはいかない。
干からびた魚のような閻羅を法廷に出しなどすれば。
冥界の王、冷酷無慈悲な冥府の裁判官という、いつの間にか貼り付いていた閻羅の人物像に傷が付く。
十王にも罪人にも、官吏や役人たちにも、王としての面子が立たなくなってしまう。
「閻羅様、また明日もルンフェイ様は来られるのですから。そのとききちんと謝罪して、話をすればいいではないですか」
「そうだぞ、王よ」
閻羅の肩を叩きながら、シヨウとセイジュは閻羅を慰めた。
「……でも……ルンフェイ……」
これは本当に重症だと二人は思った。
「閻羅様、とりあえずお仕事行きましょう……?」
「ルンフェイ……」
「閻羅様……」
これた駄目だと、シヨウはため息を吐いた。
閻羅がルンフェイに入れ込んでいるのは分かりきっていることではあった。
しかし、少し冷たく扱われただけで、干からびた魚のようになってしまうのは予想外であった。
「今日はもう……お休みにしましょうか……」
シヨウは青冷めながら口にした。
これは無理だ。
こんな閻羅を法廷には出せない。
(ルンフェイ様……早くどうにかして……)
明日になればルンフェイがどうにか閻羅を元に戻してくれるはずと、シヨウはそれだけ祈るのだった。
セイジュに担がれながら寝室へ運ばれていく閻羅を見送ると、今日の法廷を全て延期にするように、シヨウは官吏達に指示を出した。
しかしその翌日、ルンフェイは冥府に来なかった。
この二ヶ月間、閻羅との約束を守り、毎日足しげく冥府に通ってくれていた。
そんなルンフェイが、はじめて冥府に姿を現さなかったのだ。
別れたいのだと言った言葉は真実だったと思い知らされたようで、閻羅はいよいよ立ち直れなくなった。
そしてそのまま、閻羅はあまりの衝撃に寝込んでしまったのだった。
閻羅が寝込んだことで法廷を開くことが出来なくなり、日に日にたまっていく罪人と魂と書類の数に、シヨウは頭を抱えるのだった。