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「恋人……私が、恋人……? 」
恋人同士と言われてから、ルンフェイは呆然とした日々を過ごした。
「ゆいのう、……ゆいのう? 」
詰まるところ結婚のことである。
混乱しながらも、ルンフェイは言われた通りに毎日弁当を作っては、冥府にいる閻羅に会いに行っていた。
最早冥界の役人で、二人の関係を知らぬ者はいなかった。
お陰で、毎日長い時間、昼休みを頂くことになっているのだが、特に事務所からは注意を受けなかった。
むしろ、おめでとう、おめでとうとお祝いされる始末であった。
「どうしてこんなことに……? いつの間に恋人同士に……? 」
ぐるぐると思考を巡らせ、一生懸命考えているうちに、二ヶ月が過ぎた。
「どうしよう、このままじゃあと四ヶ月で結婚してしまうわ……」
ルンフェイは閻羅と別れたあと、一人とぼとぼと事務所に戻りながら青冷めた。
今日も今日とて真実を言えなかった。
本当は好きじゃないから、婚約を解消してほしいと、それだけ告げればいいのだが。
あの鋭い目付きの前ではどうしても萎縮してしまい、なかなか言うことが出来なかった。
「閻羅様もどうしてあんなことを……? 」
たった一度食事を共にしただけの、数回話した程度の、初対面同然のルンフェイを何故恋人にしたのだろう。
と言うか、そもそも告白すらされていないと思うのだが、何故だか次の日に恋人同士になっていた。
このまま恐怖に震えて何も言えずにいたら、閻羅の嫁になってしまう。
誤解し合ったまま結婚だなんて駄目に決まっているのだ。
何とかこの、いつの間にかかけ違えられてしまったボタンを元に戻さなくては。
あと四ヶ月。いや、今月のうちに婚約を解消して見せると、ルンフェイは再び固く誓った。
(閻羅様は怖いけど……根はお優しい方だもの。きちんと話をすれば分かってくださるはずだわ……たぶん……)
この二ヶ月間で分かったことだった。
鋭い眼光に不機嫌そうな顔をしているため、怒っているのかと勘違いされることが多い閻羅だが。
本当はそこまで厳格な人物ではなく、どちらかと言うと気遣いの出来る人なのだろうとルンフェイは思っていた。
弁当に対する感想は厳しいし、いつもしかめっ面だが、仕事は完璧に……むしろそれ以上にこなしているし、部下を気遣う素振りも見せる。
先程の言葉もそうだ。
閻羅は先ほど、ルンフェイに来るのが遅いと注意した。次は事務所まで見に行くぞと。
あれは、迎えに行こうかと聞いてくれているのだろう。
……おそらく。
言動こそきついが、いつも決まってルンフェイを事務所まで送り届けてくれようとするのだ。
忙しいだろうとルンフェイはいつも断るのだが、送迎を申し出ようとするほどには、相手を慮ることの出来る人なのだ。
初めて出会ったときも、迷っていたルンフェイを助けてくれた。
話せば分かる人なのだろう。
そんな人に誤解を与えたまま、不誠実に結婚などしたくない。
(きちんとお断りして、婚約を破棄して頂いて、それから……)
それから、許されるならもう一度やり直そう。
そっと繋がれる手や、温かな抱擁をルンフェイはもう忘れることが出来ない。
怖いけれど、その怖さの中に気遣いを忍ばせる閻羅に、そっと微笑んでくれるあの穏やかな優しさに、ルンフェイは少しずつ惹かれていた。
いつの間にか掛け違えられた関係ではなくて、本当の、心からの恋人にルンフェイはなりたい。
(もう一度きちんと始めたい。……だからきっと貴方に伝えます)
閻羅様、私本当は貴方が好きでお付き合いしてるんじゃないんです。だから、別れてください。
……それから今度こそ、貴方のことをちゃんと好きになりたいのです。
そう伝えようと、ルンフェイは心に決めたのだ。
***
ルンフェイが去った後の執務室は静かだった。
先程までルンフェイを抱きしめていたのだと、閻羅は己の手を見つめた。
まだ少し熱の残る手に、ルンフェイに告げられた言葉を思い出す。
「……ルンフェイ、好きだ……」
染々とそう思った。
改まって何を言うのかと思ったら、わざわざ閻羅に想いを告げてくれたのだ。
三日に一度くらいの頻度でルンフェイは閻羅に想いを伝えてくれていた。
言いづらそうにしながら、何度も瞬きを繰り返し、そして意を決したように言葉を紡ぐ。
鈴の鳴るような可憐な声で好きだと言われて、閻羅は口元が緩むのが止められなかった。
「ルンフェイ、また会いたい……。……ああ、早く明日にならないものか……」
こんなに想いあっているのに、一日のうちの僅かな時間しか会えないなんてと、閻羅は窓の外に目を向けた。
ルンフェイが帰ってからかなり時間がたってしまっているので、もうどこにも姿は見えない。
「ルンフェイ……いい匂いだったな……」
そっと触れた手は小さくて、滑らかだった。
髪の毛はさらさらで、抱きしめた体は細くて柔らかで、花のような香りがする。
あの体を抱きしめていると、胸が高鳴ってしかたがない。
あの芳しい香りが鼻孔を擽る度に、酒でも飲んだかのように酩酊してしまう。
あんな女性は冥界中探したって、他にいないだろう。
いやはや全く、最高の恋人と結ばれてしまったものだと閻羅は嬉しくなった。
「……もう一度抱きしめたい……恋人同士なのだし、もう二ヶ月も付き合ってるのだから、もう少し触れても良いんじゃないのか……? 」
二ヶ月経ってるし良いんじゃないのかと、実はいつもタイミングを計ってはいる。
しかしどこですればいいのか分からず、今日のように想いを伝えてくれた日くらいしか、閻羅は抱きしめることが出来ずにいた。
本当ならもっといちゃいちゃしたい。
「それに、そろそろ……口づけも……」
してもいいのではないか?
昔、冥府の女性官吏が持ち込んだ雑誌をたまたま目にしたことがあった。
何気なく開いた場所は恋人特集と書かれており、恋人同士のあれこれの事情が濃密に特集されていた。
その記事によれば、付き合い初めてから二週間以内が、恋人同士が口づけを交わす一般的な平均らしい。
それ以上の親密な行為ならば一月以内だとも書かれており、閻羅は愕然とした。
ルンフェイが閻羅にとっての初めての恋人である。
この年まで恋愛経験も無く、またそれに伴う大人な関係も、誰とも持ったことは無かった。
つまり、あれである。あまり多くは語るまい。
「一般的な恋人同士に比べれば、かなりゆっくりな方だ……」
しかし、結婚はかなり早い方である。
「……もう少し、攻めてみてもいいのではないか……? 」
閻羅が手を繋ぐのも、抱きしめるのも、ルンフェイは嫌がってはいない様子だった。
それどころか三日に一度は好きだと可愛らしく告白してくれる。
「……はっ! ……もしや、あれは寂しいという合図なのか……!? 」
そうでなければこんな頻繁に言ったりなどしないだろう。
もう少し親密な仲になりたいという、ルンフェイなりの合図なのかもしれないと閻羅は思った。
「そんな……。こんな簡単なことにも気付けないなんて……」
私はなんて間抜けなのだろうと閻羅は唇を噛んだ。
本当はまったく違う意図で伝えられている言葉なのだが、閻羅はまるで気が付いていない。
いやはやまったく、実に間抜けであった。
ルンフェイも、閻羅と同じ気持ちで居てくれたのだ。
それに応えなくてどうするのだと、閻羅は決意した。
明日は、明日こそはその合図に応えて見せる。
具体的に言うならば、ルンフェイに口づけをして見せる。
「ルンフェイが望んでくれるなら……いくらでもするのに……」
あのルンフェイの、花びらのように小さく可憐な唇に、己の唇を重ねるのかと、妄想するだけで口端が上がった。
にまにましてしまい、なかなか口が元に戻ってくれない。
「いかん、いかん」
このままではルンフェイの前で締まりの無い顔を晒してしまう。
今のうちにたくさん想像しておいて、直面したときに冷静さを保てるように訓練しなくては。
「早く明日にならないものか……」
山積みの書類を片付けながら、閻羅は期待のため息を漏らしたのだった。