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「閻羅様、昼食休憩の後は書類作業になっております。執務室に必要書類を纏めてありますので、目をお通し下さいませ」
司録の言葉に閻羅は頭が痛くなった。
当代、閻魔大王となって早数年。
仕事にも慣れつつあったが、閻魔大王とは激務であった。
毎日の書類仕事に加えて、日に何百人という罪人を裁判にかけ、裁きを下す。
休む間もなければ食事を取る暇もない。
いましがた昼食休憩を言い渡されたが、どうせ書類を捌く作業に追われ、食べられないのだろうと閻羅は思っていた。
(最後に食べたのは何だったか……)
水だった気がすると思い至って、それは食べ物ではないと即座に頭を振った。
「それから、午後三時からは再び法廷が開かれます、それまでにお昼を済ませて……」
「分かったから、お前たちも行け」
閻羅は苛立ちながら司録と司命を置いて立ち去った。
司録と司命と言う官職は、閻魔大王の補佐官である。
司録の官職を与えられた青年はシヨウと言い、司命を任ぜられたのはセイジュと言う青年だった。
どちらも閻羅が赤ん坊の頃から、閻羅に付き従ってくれている従者であった。
当然ながら、二人も閻羅と同じように激務である。
ずっと閻羅に付いていたのでは、自分達の仕事もままならないだろう。
「まったく……休まる暇もない……」
父から閻魔大王の任を継承したことに後悔はない。
元より閻羅は世襲制。
閻魔大王の一族に生まれたときから、覚悟はとうに決めていた。
(それでも疲れるな……せめて一人になって静かに休みたい……)
常に従者にまとわり付かれ、十王達から追い回され、獄卒達を取り仕切らねばならない閻魔大王という官職は、一人になる暇も殆ど無い。
「広いです……」
北庭園の脇の廊下を抜けて執務室に向かっていると、声が聞こえた。
思わずそちらに目を向けて、閻羅は目を見開いた。
「ここは、どこでしょう」
目を瞠るほどの美少女がそこにいた。
麦わら色の素朴な髪をなびかせて、少女は庭に立っていた。
あんな美少女が冥府に居ただろうかと、閻羅は必死で記憶を手繰った。
(か……可愛い……)
思わず心の中で呟いて、少女に釘付けになった。
閻羅は己の胸が高鳴るのを感じた。
あんなに可愛い女の子は見たことがなかった。
基本的に冥府の役人は男が多い。荒くれものの男に囲まれて育った閻羅にとって、一番身近な女性は母親だけだった。
(なんだ……どこの役職の者だ……? 知らないぞ)
「小鳥さん、ここはどこですか? 」
木に止まっている小鳥に話しかける少女の姿に、閻羅の胸は鷲掴みにされた。
「くっ……」
思わず座り込んで胸を押さえた。
(なんだ……? なんなんだ……?)
一体どうしてしまったと言うのだろうか。驚くほど心臓が苦しい。
少女の一挙一動に、心臓がばくばくと高鳴る。
あの可憐な姿から目が離せない。
暫く眺めていると、少女はうろうろしながら歩き出した。
(行ってしまう……! )
このままでは見失うと思い、閻羅は表情を必死で戻しながら、少女に近付いた。
「何をしている」
声をかけると、少女は閻羅を振り向いた。
静かな緑色の瞳にじっと見詰められ、閻羅の胸はまたも鷲掴みにされた。
(……くっ、正面から見るとなおさら……っ)
可愛い。
その一言に尽きる。
なんだこの感情は、なんだこの愛らしい生き物はと思いながら、頬が緩まないように、閻羅は己の腕を必死でつねった。
「……何を、しているのかと聞いている」
中々答えない少女に、閻羅は焦った。
(突然話しかけたのはまずかったのか……? いやでも、別にまだ何も怖がらせるような真似はしていないはずだ……! )
「あ……えと、ご飯を食べようと思ったのですが、ここが何処なのかわからなくて……」
焦る閻羅と対照的に、少女は小首を傾げながら答えてくれた。
(…………可愛い)
「あの……? 」
こてんと、首を傾げるその姿が可愛いすぎる。
閻羅は心のアルバムに納めようと、少女の姿をじっと見詰めた。
この愛らしい姿を、何がなんでも記憶に焼き付けねばならぬ。
「……食堂に行きたいのか? 」
心情を察せられないようにと、閻羅はかなり顔を強ばらせながら問いただした。
傍から見ると睨み付けているように見えるのだが、当人である閻羅にはその自覚が無かった。
「いえ、どこか休める場所はないかなと……。お弁当があるのですけど、よい場所が見つからなくて」
(つまり、困っているのだな)
閻羅は深く頷いた。
冥府の法廷は男だらけだ。
美少女ならきっと引く手あまただろう。面倒な男から逃げてきたのかもしれないと、閻羅は結論付けた。
それならばと、閻羅は少女にひとつ提案をした。
「………来い」
「え……」
閻羅の執務室を貸してあげようと思ったのだ。
当分誰も近寄るなと言っているし、丁度良いだろう。
(せっかくだから、もう少し話を……名前も知りたい……)
閻羅はそわそわした。
女の子を部屋に招くなど初めてだった。
「来いと言っている」
緊張から自然ときつい言い方になってしまう。
やってしまったと閻羅は反省した。
「……! はいっ……! 」
しかし少女は、あまり気にしていないようだった。
素直についてくる少女に安心して、閻羅は執務室に向かうのだった。
閻羅は執務室に向かう廊下を歩いた。
その後ろを、先程の少女が大人しく付いてくる。
ちょこちょこ付いてくるその姿に、閻羅は頬が緩むのを止められなかった。
(かっ……可愛い……、まるで雛鳥のようだ……)
ちらちらと背後を盗み見ながら歩いていると、さっさと執務室に着いてしまった。
ーーーもう少し見たかった。
もっとゆっくり歩けばよかったなと、閻羅は少し後悔した。
「入れ」
「……はい、失礼します」
閻羅は扉を開けて入室をうながした。
少女は礼儀正しくお辞儀をしながら部屋に入っていく。
(可憐だ……)
そんな少女を閻羅はうっとりと見詰めた。
「……ここは? 」
少女はきょろきょろしながら部屋へと入った。
忙しなく動く頭も小さくて可愛いなと眺めていると、書類の山が目に入った。
一気に現実に引き戻される感覚に、閻羅の目が据わった。
「ここで食べるといい。……他にも部屋はあるが、役人達が使っているからな、お前には向かないだろう」
これを片さなくては、この美しい少女と語らいも出来ないと、閻羅は渋々席についた。
「え……いいのですか? 」
少女のきょとんとした表情に、閻羅の胸が再び高鳴った。
こんな可愛い女の子が居てくれる中で仕事が出来るなんて、なんて幸せなんだろうと閻羅は思った。
「構わない。……お前、名前は? 」
あくまで何気ない風を装いながら、閻羅は少女の名前を尋ねた。
(きっと……可憐な名前に違いない……)
「ルンフェイと申します。……輪廻の輪の管理人をしております」
鈴の鳴るような声でそう告げると、ルンフェイはぺこりと頭を下げた。
それから満面の笑みを閻羅へと向けた。
(ル、ルンフェイ……ルンフェイか……)
ルンフェイの笑顔に釘付けになりながら、閻羅は胸の中で反芻した。
「ご親切にありがとうございます。……あの、あなた様は……」
こちらを伺うように閻羅の名前を尋ねるルンフェイに閻羅は少し驚いた。
(え、私のこと知らないのか……? ……でも、聞いてくれるのか……)
知られていないことは少なからずショックだったが、知ろうとしてくれることが何だか嬉しくて、閻羅は頬が緩みそうになった。
慌てて顔を引き締めると、まるで怒っているかのような顔になったが、ルンフェイにしかその表情は見ることが出来なかった。
「私を知らないのか……? 」
「え? はい、すみません……」
ルンフェイは申し訳なさそうに頭を下げた。
「私は閻羅だ」
ルンフェイに名前を知ってほしい、そしてあわよくば呼ばれてみたいと、閻羅は素直に名を告げた。
「閻羅様。……閻魔大王様と同じお名前ですね、閻羅様はもうお昼はお済みですか? 」
(……呼ばれた……)
閻羅は感動した。
常人とは、少しずれた返答を返すルンフェイに、閻羅の胸はときめいた。
正直もう一度呼ばれたい。
(私のことまで心配してくれるのか……? )
閻羅はまだ昼食を取っていなかった。
そのことまで気にしてくれるなんてと、閻羅の胸は弾む一方だった。
「いや、そんな暇は無い」
しかし、表情に出すわけにはいかないと、必死で顔を引き締める。
そして書類と言う名の現実に手を伸ばした。
「……お腹空きませんか? 」
「別に。……暫く食べていないからな、何ともない」
ルンフェイの素朴な疑問に、閻羅は何気なく答えた。
本当にもうお腹は空いていなかった。
と言うよりも、何だか胸がいっぱいで、何も要らないという気分だったのだ。
「それは、大変です……! 」
しかし、ルンフェイはそうではないようで、慌てたように弁当箱を開け始めた。
「宜しければ、こちらをどうぞ、閻羅様」
ルンフェイにそっとタコさんウィンナーを差し出され、閻羅は固まった。
(え……どう言うことだ……? )
まさかくれるのか? 会ったばかりの男に、そんな簡単に食事を分けてくれるのか?
(天使か……? )
どちらかと言うと、ルンフェイも閻羅も死神の類いである。
しかし、閻羅にはルンフェイが天使に見えた。
後光が差さんばかりのその姿に、閻羅は釘付けになった。
「お仕事がお忙しいなら、私がお食事のお手伝いを致します。……はい、どうぞ」
箸でウィンナーをつまみ上げ、ルンフェイは閻羅の口元へ運んだ。
閻羅は目を見開いて、ルンフェイとタコさんウィンナーを交互に見比べた。
(えっ、えっ……これは、これはまさか……そんな……!? )
噂に聞くあーんと言うものだろうか。
親しい間柄でしか出来ないと言うあの伝説の。
(そんな、ことしたら……! もう、恋人同士じゃないか……! )
男所帯で過ごして二十二年、可愛い女の子と話したことなど閻羅には無かった。
閻羅に、女性に対する免疫など欠片もなく、また、恋愛経験もゼロであった。
話しかけられるだけで、気があるのかと錯覚し、触れられるだけで付き合ってるんだろうかと思い込むお年頃と、恋愛経験値はそう変わらない。
「ここまで連れて来ていただいたお礼に……はい、あーん」
閻羅は口を開けてタコさんウィンナーを食べた。
(……恋人同士に……なってしまった……)
会ったばかりなのにと、閻羅は照れた。
しかし、それを悟られまいと必死で表情を隠し続けた。
「閻羅様、これは自信作なんです。どうぞ」
「……あ、ああ」
ルンフェイはどんどん閻羅の口にお弁当を放り込んだ。
「こちらも。これは母直伝のハンバーグです」
「うむ……大義である」
旨味の凝縮されたハンバーグを味わいながら、閻羅はルンフェイから目が離せなかった。
(結婚しよ……)
ご両親に挨拶しなくてはと思いながら、閻羅は書類を片付けた。
***
「わざわざ送っていただいてすみません……」
冥府の入り口まで送ってもらい、ルンフェイは閻羅に頭を下げた。
最後まで礼儀正しいルンフェイの姿に、閻羅は胸をときめかせた。
「構わない」
「今日はお世話になりました。……今度またお礼をさせてください」
「お礼……」
付き合っているのだから、そんなこと気にしなくて良いのにと、閻羅は少し残念に思った。
付き合い始めの恋人は、相手に遠慮しがちになると聞いてはいたが、こう言うことかと閻羅は思った。
「はい」
是非お礼をと、ルンフェイは笑顔で尋ねた。
「閻羅様、また会ってくださいますか? 」
こてんと首を傾げるルンフェイに閻羅は固まった。
(なんて……なんて、いじらしい…… )
遠慮したかと思えば積極的に距離を詰めてくる。
(こ、この甘え上手め……)
その台詞はまた会いたいと言っているようなものではないかと、閻羅は胸の高鳴りが止められなかった。
「明日……」
「明日……? 」
本当なら毎日だって会いたいと閻羅は思った。
出会ったばかりでお互い何も知らないのだ、もっとルンフェイのことを知りたかった。
恋人と言うのはそういうものでは無いだろうか。
「明日、またここに来い。同じ時間にだ。……また、その弁当を持ってこい」
しかし、明日と言うのは性急過ぎるかと、閻羅は少し恥ずかしくなった。
そのせいで顔に力が入ってしまう。
「お弁当でいいんですか? 」
言い訳が弁当なのは無茶苦茶すぎただろうか。しかし、ルンフェイの手弁当をまた食べたいのは事実だ。
恋人の手作りと言うのは嬉しいものだ。
「そうだ。まさか、断るつもりか? 」
「いいえ、とんでもありません」
ルンフェイはくすくす笑いながら首を振った。
その笑顔に見惚れていると、ルンフェイはペコリと頭を下げた。
「では、また参ります、閻羅様」
ルンフェイはそういうと、閻羅に背を向けて歩き出した。
閻羅はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
姿が見えなくなっても、今しばらくの余韻を引きずりながら、執務室へとふらふら戻った。
執務室の机に突っ伏して、ルンフェイのことを考えていると、扉が激しく開かれた。
「閻羅様……! 閻羅様、先程見知らぬ女性と歩いていたと言うのは本当ですか!? 」
司録と司命が現れて、血相を変えて閻羅を問いただす。
「冥府中で噂になっておりますよ……! 一体どなたですか……! 」
困惑しながら問い詰める司録に、閻羅はのろのろと顔を上げながら答えた。
「…………私の恋人だ」
ほんのり笑いながら答える閻羅に、司録は絶句した。
***
冥府を仕切る十大魔王の一角。
その日、閻魔大王、閻羅に恋人が出来たと冥界中に激震が走った。