身代わり、にゃんこ。
※※※
函館を旅している最中に、君を見つけた。函館山の近くの、ロープウェイをすぐそこに見据える道で、君を見つけた。坂が多い街にあって、より勾配がある坂道を下りたところで、君を見つけた。
君はいたんだ。
海が見える坂の下で僕がふざけて「にゃーお」と鳴くと、君は顔をくしゃくしゃにして生真面目に「にゃーお」と返してくれたね。
忘れられないんだ。
そのときの、君の顔、笑顔が。
そう。
君は僕を見て、確かに笑ってくれたんだ。
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その日の夜はひどかった。よさげかなあと思った居酒屋。実際によかったのはおとおしまで。まだまだにわかにとげが動いているウニが出されたのだけれど、それはまあ、おいしかった。でも次が最悪で。函館といえば、イカ料理が名物であるわけなのだけれど、そのイカ刺しはずいぶんとイマイチだった。イカがかわいそうだなとまで思わされた。そうではなくとも、ヒトの気分次第でさばかれるのだから、イカはやはりつらいのだ。函館でイカを食べるのはオススメしない。どうあれ命を食べるということについて、えらく考えさせられちまうぞ、ってね。
とはいえ、結局のところはおいしいものにありつくことはできたわけで。だから、函館旅行は悪くなかったわけで。帰りの日に食べた”函太郎”のお寿司は確かにおいしかったわけで。
ああ、話がだいぶん逸れちゃったね。
なにより重要なのは君の話だ。
僕は君のことを、大切に語らなくちゃいけない。
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君は坂の下にいたね。ヒトを避けるようにして、ぴょこんぴょこんと跳ねていた。白い毛並みに少しだけ茶色を含んでいる。君はそういう猫だった。左の耳の先がちょん切られていた。君は地域猫だったんだ。
なんの理由もなければ、君を連れて帰ろうだなんて思わなかった。だけどそのとき、君はケガをしていたんだ。大ケガだ。車かバイクか、そんな無慈悲な暴力に晒されたんだろうね。君は左の後ろ足を引きずっていたんだ。
ごめんね、本当に。
でも、ゆるしてほしい。
僕には君を無視なんてことはできなかった。
だから、本当にゆるしてほしい。
君の生き方に水を差してしまうことはわかっていた。
それでも僕は君と、仲良くなりたかったんだ。
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結局のところ東京に持ち帰った君は……って、持ち帰っただなんて言うと、スゴくひどいね。失礼だね。どうあれ君は僕に、僕達夫婦についてきてくれたんだって思うんだ。僕のエゴにも付き合ってくれた。僕の奥さんのわがままにも付き合ってくれた。
赤ちゃんを作ることができない僕達にとって、君は本当に希望だった。
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僕の奥さんが癌にかかったんだ。見つかったときにはステージ3。僕は呪った、自分ののろまさを。さらに僕は呪った、やはり自分ののろまさを。悲しい以前にむなしかった。悔しい以前にゆるせなかった。僕は無力だ。無力でしかなかった。
それでも奥さんは僕と一緒に過ごせ時間を指して「とても幸せだった」と言ってくれた。
だけどさあ、僕の奥さん。君は満足して逝くのかもしれないけれど、君を亡くしてしまう僕は、この先どうやって生きていけばいいと言うんだい? なにを生きがいにして、なにを大切にして生きていけばいいと言うんだい?
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もう明日明後日にも死ぬだろうと、僕の奥さんには死刑宣告が下された。僕にはそれを受け容れることなんてできなかった。だって僕は、僕の奥さんのことがとても好きなんだから、大好きなんだから。
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奥さんがもう亡くなってしまうだろうという日になって、僕は夢を見た。奥さんの命が終わりを迎えようとしているのに、確かにその夜、僕は寝こけていたんだ。本当に僕は、とんでもない夫だ、男だ。だけど、そういうこともあるんじゃないかな? 多分、そういうことなんだ。
函館の坂道で見つけた君、名前はみーちゃん。奥さんがつけた名前だ。彼女からすれば、猫といえば、みーちゃんであるらしかった。
奥さんが病床で息も絶え絶えなときに、僕は奥さんと一緒に過ごしたベッドの中で、君のことを、みーちゃんのことを力一杯抱き締めていた。奥さんが死んでしまうと寂しいなあって思いつつ、せめて君だけはいなくならないでと願いながら泣いていた。
みーちゃん、みーちゃん、みーちゃん。
本当に、君だけは僕のそばにいてほしい。
それって、身勝手な思いだったのだろうか?
あるいはそうなのかもしれない。
でもニンゲン、わがままくらいは言ってもいいと思ったんだ。
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死ぬしかなかったはずの奥さんが助かった。本当にすぐにでも失われておかしくない命だったんだ。なのに、救われた。お医者さんもびっくりしていた。だって、昨日と今日のレントゲン写真がまるで違うんだ。死の淵にいたはずの僕の奥さんの体から、癌の影が全部消えてしまったんだ。
えっ?
なんで?
どうして?
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いつも外出しては機嫌よくしていた、東京は大田区の蒲田あたりを根城にした我が家の立派な猫、それすなわち我らがみーちゃんが、体中に癌を抱えて突然死んだ。さっぱりと、この世からいなくなってしまった。
「わかりません。癌だとはいえ、これほどまでに急激に悪化したケースは目にしたことも耳にしたこともありませんから……」
獣医さんから、そう聞かされた。
みーちゃん、君は、とても穏やかな顔をして、眠るようにして死んでしまったんだ。
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癌からすっかり回復した僕の奥さんは、泣いた。
僕にもわかった。本当に不思議なことだし、そんなこと、実際にはあり得ないと考えつつも、肝心な部分で僕はそう感じて、そう信じて、だからこそ、涙が止まらなかった。
「みーちゃんは私を助けてくれた。救ってくれた。つらい癌を全部持っていってくれたんだよぅ……っ」
そう言って、僕の奥さんも泣いた、泣きじゃくった。
僕達は抱き合って、わんわん泣いた。
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きっと僕達のために死んでくれた君へ。君のお骨、どうしたらいいかなって、函館にまた、戻ってきちゃったんだ。函館山のロープウェイは高所恐怖症の僕にとっては怖かった。展望台に着いたら着いたで建物自体が揺れて怖かった。ロープウェイの狭さからはヒトの息遣いを知った。広がる夜景からはヒトの暮らしが確かに感じられた。そんな思い出ばかりがよみがえる。
ごめんね、みーちゃん。
僕と僕の奥さんは、やっぱり君から自由を奪ってしまったんだ。
でもね、みーちゃん。
僕は、僕達は、君がいたからこそ、きっと生きているんだよ?
最後に、みーちゃん。
生まれ変わっても、またどこかで会おうね?
約束だよ?