第八十三話 人間の口の脆さたるや
普段からビタミンの接種を怠っていたイズミちゃんに口内炎が出来てしまったそうです。料理を作るこちらにも重苦しい空気が流れ責任重大といった感じですね
「なにか食べたいものは?」
「口に染みないヤツ」
「野菜でも?」
「や」
あまり喋らせすぎると"口内炎を噛む"という地獄の苦しみをイズミが味わいかねないので、話もそこそこにレシピの厳選を始める。なるほどヒレ肉や乳製品、卵も効果的らしいな
でもゆで卵なんか作ってしまえば口の中に残った黄身を舌でこそぎ取る時に口内炎に触れ、患部の悪化を招いてしまう可能性がある。しかも目玉焼きは半熟派のイズミだとしてもとろける黄身なんか以ての外、ほとんど溶岩の塊だ
となるとスクランブルエッグか…いや、ここはチキンライスの鶏肉の代わりにヒレ肉を使った"カウライス"方式でのオムライスなんかはどうだろうか?これなら卵と肉、更にはみじん切りの玉ねぎやケチャップで野菜も摂取できる。これにしよう
なんだか面倒な事に熱い飲み物なんかを飲んでもいけないらしく、折角のオムライスだというのにスープの一つも作れやしない…これでは料理人としての欲求を満たす事が出来ないでは無いか!
でもイズミの日頃の不摂生が祟っただけなので口内炎に怒る事では無いなとふと我に返る。時に人とは理不尽な怒りを爆発させたい日だってあるのだ。すまんな口内炎
今回に限っては玉ねぎも食感を残さない様にとろとろの飴色玉ねぎに仕上げる。口の中に残った玉ねぎを追いかけて口内炎を噛んでしまった時には、自分の不注意では無く玉ねぎに怒りが向いてしまうだろう。さっきの俺みたいにね
食材には毎日感謝しながら食べましょう、が我が家のモットーなのでイズミと共に食材にも気を遣いながら調理をしていきたい。これが日本人の食に対する真摯な姿勢だとジョンも絶賛していたよ、最近は何やってんだろなアイツそろそろ死んだか?
ヒレ肉もカップ麺に入っている謎肉くらいの大きさで、そぼろ肉と言っても差し支えない位には小さくしておこう。さっきの玉ねぎの時と言ってる事が違うって?はは…まだまだイズミ検定三級って所だな
イズミが口の中で肉を捕えきれない訳がない。本能的に口の中に存在している肉を追尾してかみ砕き最速で栄養とするまさに"捕食者"なのだ。
「食べ終わったらちゃんと薬塗るんだぞ? そうしないと治りも遅くなるんだから」
「アレ嫌いなのよね…口内炎が大きくなった感じがして」
「わがまま言わないの。俺だって早く治って欲しいんだから」
結局は市販の薬に頼るのが一番だという事で塗り薬はもう購入済みで、確かに口の中に日焼け止めクリームを塗っているみたいな感覚は気持ち悪く感じるだろうが、口内炎とどちらが苦しいかなんて事は比べるまでも無いだろう
早く夢中になって俺のご飯を頬張るイズミを待っているのだから、なんなら明日には治って貰わなくては。食事中なんかは痛くないのか、噛まないか、肝を冷やしながら見ているのでこちらとしても普段の倍は疲れてしまうから心から完治を願っている…
とりあえず調理が済めば一皿ずつ丁寧に盛り付けイズミの元へ運ぶ。胃の容量が減った訳でもないのでこれから何皿も作るのだが、スプーンが食器に当たる金属音が聞こえるたびに口内の状況を案じてしまって気もそぞろのままオムライスと向き合っている。すまないと思うがお前も気にならないか?と問いかけても焼かれている卵はジュウジュウと音を立てるだけだ
酸味の強い物が染みてしまっては元も子もないので、ケチャップも少し控えめにして提供しているが今の所問題はなさそうだ。というか本来は味の濃い食事なんか控えねばならないんだが…そうなると候補に挙がって来るのは野菜だらけで、これがベストな選択肢だったと俺も思いたい
五皿ほど作ってからイズミの様子を見ると左に出来た口内炎を避けるようにして右側に顔を傾けながら咀嚼をしている。なんて事だ、可愛すぎる。国に見つかれば即日天然記念物になってしまうだろう。こじらせたオタクが度々発する"見つかって欲しくない"とかいう言葉を聞いて「なんだこのエゴ塗れのキモオタ共は」と思っていたがなるほどこういう感覚か
今の光景はSNSや放送でも一切発信したくない俺だけの思い出フィルムにするんだ
まぁ口内炎を避けるように右側に傾ければ必然的に歯の近くに口内炎が寄る事になるので、案の定イズミは少し噛んでしまったみたいだ。目に涙を浮かべて悶えているその姿も愛おしい。フランスの画家なんかに見つかっていたら「女神と口内炎」というタイトルでオークションに出されているだろう。描くのは死後評価されるタイプの画家だろうな
「まぁこればっかりは気を付けてても無理なのは分かるよ…運が悪かったな」
「もう絶対噛まない…不摂生もしない…」
「二日酔いのアル中と同じ事言ってるな…やっぱり朝陽さんの子だよお前は」
食後はすぐにクスリを塗るのだが鏡によって左右や距離感が分かり難く悪戦苦闘している。今日のイズミは可愛いの宝庫だなまったく…こりゃ俺も大好きな猫飼わないはずだわ
「貸しな、俺が塗ってやるから」
「他人に粘膜を任せる事への怖さが半端ない」
「他人ではないだろ…痛くは無いから安心しなさい」
こちらに下唇を突き出しているイズミを眺めているとキスしてしまいたい衝動に襲われるが、一番やってはいけない事だとは理解している…なんて惜しい事を…今度治ったらもう一度やって貰いたいななんて考えながらも、イズミにストレスを与える事無く任務は完遂できた。あ~あ、可愛かったな…
いつもは食べているアイスも我慢して、歯磨きも恐る恐るで今日は口内炎の恐ろしさを十二分に感じた事だろう。でもこれからも野菜なんか食べない事は知っているんだ、人間とは都合の良い生き物である。健康な時にはまさかこんな事が起きるなんて想像もしていないんだから
「じゃあ寝るけど…俺寝相いいんだから明日痛くても俺のせいにするなよ?」
「えぇ、でも現行犯だったら起こすからね」
「無理して一緒に寝る事も無いだろうに…」
なるべく強く抱きしめてしまわない様に眠りについたのだが、うとうとし始めた所でイズミの身体が大きく跳ねたのを感じて俺も驚き飛び起きてしまった。するといつもの癖で顔を擦ってしまい見事に口内炎を…考えるだけでもおぞましい痛みに同情が禁じえなかった
その後はイズミが眠るまで頭を撫でながら待ち、いつもより大分と時間が掛かってしまったが何とか夢の世界へ逃げる事に成功したようだ。明日は治ってると良いな…いや、今日だけでも追加で二回の攻撃をしてるんだから治る訳も無いか…と悲観して眠った
翌日の食卓には元気に牛丼を頬張るイズミの姿が有った。とんでもねぇなこの女




