第八十二話 バレンタインデーの乙女心
「母さん、これで良いの?」
「そうそう、上手ね~」
明日はバレンタインデー。兄さんに私の気持ちを伝える日
「いいなぁ大我さん…」
「そうかね? おこぼれに預かれるかもしれないのだから感謝すべきでわ?」
「おこぼれったってなぁ…」
日頃の感謝と共にどれだけ私が兄さんの事を愛してるかも伝える為に…
「これで後は一日待つだけよ」
「そう…上手く出来るかしら」
「大丈夫! 美味しそうに漬かってるもの!」
漬物を渡すのだ
~数日前~
「そろそろバレンタインだな! まぁお前らには無縁だろうけども」
いつもの様に放送をしていた兄さんだけど、こんなイベント事には興味を示さないはずの兄さんが珍しく放送内で流行り事に触れていた
「でも俺はあんまり甘い物は得意じゃないって言うか…量が食えないんだよな」
しかも好みまでこれ見よがしに公表している。兄さん…まさか私に期待しているの?バレンタインの日に贈り物を
「ホワイトデーとかは面倒だと思うけど、いざ貰うと嬉しくて返したくなっちゃうんだろうな」
お返しは何が良いかしら…催促する訳では無いけどある程度の希望は通るわよね。どんな権利を主張しようかしら…
「そうだねぇ…一番魅力的だなって思うのは"漬け物"かな?」
「チョコよりも一日漬ける事によって愛情を感じられるっていうか、嬉しいと思うわ」
「え? こ、これを俺に?/// 漬けてくれてありがとう…/// みたいな」
なるほど、流石兄さんね訳が分からないわ。別に何貰っても嬉しいで良いじゃないの、なんで自分から分野を狭めていくのよ?そういう所がたまらなく愛おしいわ
「浅漬けでも何でもいいし、でもキムチとか匂いが凄いのはちょっと…え? この子正気か? とは思っちゃうね」
「そうそう、なんか市民権得てるけどあれって本来臭いけど美味い物だから…」
「大事な日に臭い物作って来る神経を疑ってしまう」
なるほど…こうなってはババア団体に相談するしか無いわね。漬け物みてぇな酸っぱい匂い毎日漂わせてるんだから頻繁に漬けてるでしょうし
待ってて兄さん、私が至極の漬け物を渡して見せるわ
* * *
「それでイズミちゃんは一生懸命に漬け物を作ってると」
「おかしいだろアタシの息子も義理の娘も」
「確かに愛情まで染みてそうな感覚は分かりますね…」
「分かんのかよ」
こっちではチョコレートを作りながら酸味の強い浅漬けの香りが蔓延し、脳内がバグを起こしそうになっていた。甘酸っぱいと言われれば聞こえはいいかもしれないが、この匂いの中でそう感じられる人はオブラートに包む事が上手な人だろう事が想像できる
「でもなんで母さんも漬け物の作り方なんか知ってるの?」
「昔おばあちゃんがね、嫁に行くなら漬け物くらい作らんね! って教えてくれたのよ」
「でも慶二さんに作る機会なんか無かったわねぇ…」
「そう」
古い人間の考え方としては確かに日持ちもするし時間に拘束される事も少ない、安価な食材なので合理的だと言えるだろうが嫁入りに適しているかと現代で問われれば難しい顔をするだろう
自分も兄さんが好きでもなければ作る機会なんか無かったろうし、作りながらも手に染みつくこの匂いが気に入らない。食べる物すべてを飲み込んでしまうくらいの強烈な酸味だ
「でも大我ちゃんも喜ぶんじゃない? イズミがそんな思いしながら作ってくれたって気付くでしょうし」
「そうかしら…兄さんは意外と鈍感なのよ」
「料理を作る人はその大変さも知ってるもの。大丈夫よ」
確かにツマミを作って持って行けば同じ食材だとしても一層美味しそうに食べてはくれるし、それを見た私も充足感で満たされているのも事実。手作りに意味が生まれるのは本当の事なんだろう
「どう思いますか? 私はこんなイチャイチャをもう何カ月も見せられてるんですよ」
「よく平気な顔でチョコなんか作ってられるな」
「不思議と幸せな顔を思い浮かべると手が止まらないんですよ、一種の禁断症状ですよもう」
「恋は盲目とは言うけど中毒とは初めて聞いたね、勉強になるよ」
そう言ってる実母たちだって大我に向けてチョコを作っているのだから、人の事を言えないと感じるかもしれないが、この二人は明確にお返し目的の既成事実を作ろうとしているに過ぎない。こんな汚い大人にはなりたくない物である
そして当日
「面倒なババア衆にチョコレートを貰ってしまった。そして実に不味そうなのが未婚のリアルさを醸し出していて嫌だ」
「兄さん、私も作ったのよ」
「イズミもチョコを? 教わりながら?」
「いや…私はこれを…」
おずおずと漬け物の入った容器を取り出すと大我に見える様に少し傾ける。漬け汁が零れそうになって慌てるバレンタインなんて実に日本らしくて風流ではないか
「漬け物…なんでまた?」
「兄さんが配信で言ってたじゃない、貰うなら漬け物だって」
「確かに言ってた気がする…漬けたの?」
「丸一日」
目を覆っている大我の表情は明らかに笑いを堪えている。そんな様子に心配そうな表情をしているイズミだったが大我の胸中に去来しているのはもちろん面白いという感情では無く…
(どうしよう…俺の妹からの愛情表現に死んでしまいそうなほど嬉しい、そして可愛すぎるだろ…あんな適当に言った一言を真に受けて慣れない漬け物を?)
限界寸前だった
「めちゃくちゃ嬉しい…どうしようこれ…食べなきゃダメ?」
「もう一日余計に漬かったら美味しくないかもしれないじゃない」
「そっかぁ…惜しいけど食べるか…」
白米と酒を用意してどちらでも楽しめる様に万全の状態を整えると白菜とキュウリの漬け物を一口食べてみた
程よい塩味の後にまだ食感の残る野菜から出た甘みが感じられ、最後にはほのかな酸味が鼻を抜ける。
「うん、ちゃんとそこそこ美味い!」
「何てこと言うのよ」
「あと白菜とキュウリは野菜の中でも水分量多いからもっと深めに漬けても良かったかもね」
「うるせえなコイツ」
味と気持ちは別だから、と抜かす大我には最低限のデリカシーも無かった
自分の行いによってホワイトデーのハードルは非常に高くなっている事にまだ大我は気付いていない
「うまいうまい」
「…そう」
神田家の仏壇と大田家の神棚に供えられているこの漬け物は、チョコレートと同じかそれ以上に人の顔を笑顔にした事だけは事実のようだ




