第七十五話 折角なので旅行でも~北海道編~
年末年始というネタに事欠かない時期に放送が出来ないとなると旅行にでも出かけるしかない。如月兄妹は北海道の大地に降り立った
「くっそ寒いななんだこれ…」
「だからもっと厚着してくればって言ったのよ」
「どっかのバカが"ロシアよりも寒くないですよ~"とか言ってたから完全に油断してた! やっぱ寒さなんかある程度行くと変わんねえって!!」
もう寒いというよりも肌の表面が空気にへばりついてしまったように痛みを感じる。もちろんロシアに住んでいた経験もある大我でもこの寒さは辛い様子で…それに比べてこれからロシアにでも行くんだろうか?という程の厚着をしているのが妹のイズミだ
インナーからダウンジャケットを合わせると四枚の重ね着、下半身もヒートテックを三枚重ねて履いている徹底ぶりだ。寒さだろうが暑さだろうが気候にストレスを与えられる事が我慢ならないらしく妥協する気なんてさらさら無い
「それより早く行きましょう、もうお腹が空きすぎて我慢出来ないわ」
「北海道と言えば食の宝庫だからなぁ、今日は食って飲みまくるぞ~!」
勇んで札幌の街並みを歩く二人だが、この試される大地には思いもよらぬ試練が待ち受けていた──
「ほらイズミ! ジンギスカンだって!」
「羊、羊肉じゃない。ここにしましょう兄さん」
「えぇ~! でも海鮮置いて無さそうだしぃ…」
「後で別の所に行けばいいじゃない。もう決めたわ入りましょう」
空腹に抗う事が出来なかったイズミはまだそれほど吟味していないにも関わらず、即決で目の前にあったジンギスカン屋に入って行った。自動ドアの開いた後に店の外まで香って来たニンニクの匂いに俺も抗う事が出来ず、記念すべき一軒目はこの店に決まった
不思議な形の鍋が各テーブルに備え付けられており、店内のお客さんは慣れた手つきでラム肉や野菜を焼いて楽しんでいる。ジンギスカンなんて北海道に来なければ食べる機会がない物で調理の工程も初めて見る
「マトンとラムって何が違うのかしら?」
「マトンって言うのが親羊で、ラムが子羊なんだよ。成長度合いで名前が変わるのは魚意外だと珍しいよな」
「そういう学術的な話じゃなくてこの切り方とか味よ。興味無いわその話は」
「そんなぁ…」
本場なだけあってしっかりとしたメニューの端には"ジンギスカンの歴史!"なんてコラムも載っているのにイズミは情報そっちのけで様々な肉に目を落としている
「ラムって方が薄切りで円形になってるな…対してマトンの方は焼肉のサガリって言われても分からない位のゴロゴロカットだ。ロースもあるみたいだし…意外と種類が多いんだな?」
「もう適当に頼みましょう。とにかく腹の虫がおさまるまでは気にしなくても良いわ」
イズミの言う腹の虫は別に不機嫌という意味では無く、胃の中で声を上げながら鳴いている虫達の事だろう。本当に何十匹と詰まっていてもおかしくない位の食欲なんだから、あながち冗談でもないのかもしれない…と時々怖くなる
本当に適当にセットを頼むと野菜と肉が別皿で運ばれて来て、すぐさま肉を焼き出そうとしたイズミを見て思わず俺は止めに入ってしまった。ジンギスカンにはそれ相応の焼き方が有るのだ
「まずはこの行者ニンニクって野菜を焼くんだ。北海道原産のニンニクで匂いが凄いんだけど焼くとかなり凝縮される香味野菜なんだ、東京では中々食べられないぞ~!」
「まだ食えないの? もうこのままでもいいわ…」
「ダメに決まってるだろ!? 米でも食って落ち着け!」
不服そうにニンニクの匂いと肉を見ながら茶碗一杯の米を平らげるとそのタイミングで鍋上の野菜はシナっとしてきたのでいよいよ本命の肉投入だ。ジンギスカンではこの野菜の上で肉を焼くのが定番というか、その為にこんな歪な形の鍋で焼いて食べる
凸状の鍋を使ったジンギスカンでは羊特有の臭みがある油を、先に焼き置いた野菜の水分と一緒に外周へ流しながら焼くのだ。だから下に敷く野菜は香りの強い行者ニンニクと水分の沢山出るモヤシが使用されている
「薄切りだからすぐ火が通るな、タレもこの店伝統の物らしいからさぞ美味いんだろうなぁ…」
「……まだ? もういい? もう食べるわよ?」
「よし! もう大丈夫そうだな。では…いただきます!」
パチパチと火の上がる焼肉とは違いふつふつと音の鳴るこれがまさに"ジンギスカン鍋"と呼ばれている所以だろう。ビールを片手に野菜を楽しんでいる俺とは対照的に茶碗片手に肉を頬張るイズミは、言葉を発する事も忘れるほどに目の前のご当地グルメを堪能している様だ
なによりもこのリンゴを基調としたタレが野菜にもよく合う。やはり臭みを消す事に重きを置いてるんだろうが野菜の味が完全に消えてしまう程強烈な訳でも無く、いい塩梅で調合されている。これぞ伝統の味という事か
次々に運ばれてきたラムやマトンの肉をイズミ一人で数皿食べた辺りでようやく俺にも肉が渡った。当人は満足そうにまだ食べているが当然イズミは食レポなんてしてくれず、俺は本日初めてジンギスカンとの邂逅を果たす事が出来た
驚くほどに臭みの無い肉はこの調理法だけの功績では無く、飼育の段階でもストレスを与えない様にかなり気を遣っている事が分かる。 しかもマトン肉は筋を残しながらも"噛み応えのある肉"という段階で踏みとどまっていて嫌な筋が口の中に残るという事も無い、見事としか言いようのない調理だ
イズミが試す事は無かったが俺は野菜と一緒にタレに潜らせて一口…これが本来のジンギスカンの楽しみ方なんだろう、口の中の満足感が段違いだ。 このザクザクとした野菜の食感と噛み締めるほどに味の出て来るラム肉との相性は抜群で酒も進む
海産物が名産として広く知られている北海道で、一番楽しい過ごし方とは案外ジンギスカンなのかもしれないと新しい気付きを得られた
イズミは既に満足そうにしているが、これから何軒巡る事になるのか分からない俺は腹三分ほどに留めたままこの店を後にした。食べる事の無かったロース肉はまたの機会にしよう、きっと北海道に滞在している間にもう一度食べる事になるだろうから
外に出ると自分達が北海道に居る事を実感させる厳しい寒さに思わず顔を顰めてしまう。アルコールで熱を持った頭も冷えて酔いも醒めるだろう。 これでは動けなくなるまで飲み続ける人も現れるのではないか?と梯子酒に適した冬の北海道という場所に流石の大我も酒飲みの身を案じてしまう
そして次の店は焼き鳥屋だ。北海道では焼き鳥と注文すると豚肉が出て来るなんて言われているが、あれは極一部の地域だけで現に店頭のメニュー表には"豚串"として個別のメニュー扱いで載っている。地域特有の文化は大げさに語られがちなので仕方ないが…なんて考えながら店内に入ると
「満席…みたいだな」
「並んでも居るみたいね」
流石冬の北海道、自分達以外にも旅行客が多いみたいでこれから訪れる店はどこもこの調子だった…寒い中数々の店をチェックして、客引きに声を掛けられては断って…居酒屋で妥協しようにも相席だなんて冗談じゃない。隠れ家的なバーでは腹も膨れないし俺達が最終的に出した結論は…
「やっぱホテルでコンビニのツマミ食いながら飲む酒が一番だなぁ!!」
「だからあの店でお腹いっぱい食べればよかったのよ」
泣きそうになりながらも東京にいる時と何ら変わりない目の前の光景を特別な物として納得させようとしている。もう少し粘ればいいと思っている人は多いかもしれないが冬の北海道、完全に甘く見ていた
往来する人を足場の悪い中避けて歩き、しかも人の歩いた後の雪は踏み固められており滑りやすく足に披露を蓄積させていく。 しかも追い打ちとばかりに今も外では雪が降っている…ビル風に乗って飛んで来る雪はほぼ礫なんだからもう嫌になって帰って来てしまった…俺は負けたのだ、この北海道という大地に
「なんだこれ、美味い…あんなに安かったのに美味すぎないか?」
「見た事無い看板だったけど北海道にしかない店なのかしらね?」
セイコーマートという知る人ぞ知る伝説的なコンビニが有るとネットで見た事が有ったのでやけになりながら寄ってみたんだが…これは確かに凄いな
店内で作られた弁当とホットスナックはとてもコンビニのクオリティでは無く、ほぼワンコインでこれが食べられるとなると北海道では定食屋泣かせとなっている事だろう。 驚いたのはツマミのコーナーも充実していて、鮭とばやタラの干物も売っていてどれも美味しかった点だ
まさか北海道らしさを感じるのがジンギスカンの次にコンビニだとは思わなかったが…
「こんな事ならもっと買っておけばよかった…」
「物足りないならロビーに行きましょうよ。確か冷凍食品の自動販売機があったわ」
「それだっ!!」
ホテルやサービスエリアで見かける冷食用の自販機で売られている商品は妙に懐かしさが感じられるラインナップで、その商品の多さにときめきを覚えるがそれはイズミも同じ様で。ていうかまだ食うのかこいつは
チキンナゲットや焼きおにぎりが定番ではあるんだが俺としてはこのふやけた皮のタコ焼きがお気に入りで、もうソースとかつお節でタコを食べていると言っても過言ではない皮の薄さも味だと感じられる
旅行に来たにしては随分と質素な晩酌になってしまったが、まだ明日も有るんだからと前向きに考えると共にあの"セイコーマート"とかいう謎のコンビニの商品がまだ気になっている自分も居る…北海道という土地は退屈させないなとウキウキ気分のままこの日は眠りについた
…ベッドが二つあるのにイズミは平然と俺の隣で寝ようとしている事については、単純に部屋料金の無駄だと反省した




