第七十四話 正月早々パラドックス
新年あけましておめでとうございます。如月兄妹本日も粛々と放送を…
"配信チャンネルでは現在放送を開始する事が出来ません"
そう、BANされているのでした。皆さんも自分は何も悪い事をしていないのに理不尽に襲われる事は有りませんか?僕はちょうどこの間ありました
それは精神的なダメージも計り知れないものながら、酒を言い訳に何とか自分の責任から逃れようとする大人達を見るというまた別角度からの精神攻撃を受けたのです。あの時の何とも言えない時間が僕は大嫌いでした
それでも隣に居てくれるこの妹のおかげで僕の心は平穏京。イズミと一緒に正月休みを満喫しているのでした
「イズミ、お年玉あげようか?」
「いらない」
「なんで? お金なんかいくら有っても困らないじゃないか」
「兄さんが居れば払ってくれるから要らない」
「そっかぁ…」
確かにイズミと離れて行動する事なんかあまり想像出来ない、イズミの欲しい物はすべて買ってしまうし買えない金額の物はそれほど多くは無いだろうし…あげてみたかったなお年玉
「ちょっとした催しも考えていたから兄さん少し残念だ」
「どんなの?」
「"封筒の中のパラドックス"」
【封筒の中のパラドックス】別名"二つの封筒問題"とも呼ばれている
まず初めにパラドックスとは何なのかを簡単に説明しよう。分かりやすい物で言えば"矛盾"の語源となった最強の矛と最硬の盾では双方を競わせた際にどちらが勝るのか?という話は皆さんも知る所だろうが、この話に正解は無い事も知っていただけているだろう
どんな構造をしているから矛は強く、どれほどの耐久性を誇っているから盾は強いのか、なんて話は一切してくれないんだから優劣を決めるにはぶつけ合うしかない。一種の思考実験の域から出ない言ってしまえば出題者が勝った気になりたいいじわる問題と言える
この様にどちらも真とは言えない状態を作り出すのが"パラドックス"だ
この封筒の中のパラドックスでも同じ事を言えるだろうか?では実際にイズミにこのパラドックスを仕掛けてみよう
「俺が持っているこの二つの封筒の中には今日の晩御飯で出て来るおかずの量が書かれています。そして"どちらかの封筒にはそのおかずの量より倍の数字が書かれています"」
「どういう事?」
「まぁまぁ、まずはどっちか選んで中身見てごらん」
イズミは俺の右手に持っている封筒を選んだ。その中には"鶏のから揚げ五十個"とだけ書かれた紙が入っている
「これが今日の晩のおかずって事?」
「さぁイズミ、ここからが本番なんだけど…一回だけ俺の左手に持っている封筒と交換しても良いよ?」
「…何の意味が」
いまいちこのゲームのルールが掴めていない様子のイズミに俺は提案する。そう、一見このゲームは自分が満足するだけの数字が出ればその場で辞めてしまっても良いと思えるのだが…
「最初に言った通りに、この左手に持っている封筒には五十個の倍…百個のから揚げ券が入っているかもしれないんだよ」
「……? だったら交換するに決まってるじゃない」
「でもさ…イズミが持っているその五十個のから揚げは"既に倍になった後の数字だとしたら?"」
「・・・」
ようやく理解できたようだ。最初は『一を得るか?二を得るか?』という簡単な二択だったこのゲーム、実は最初に手にした封筒を開いた時点で"その封筒は確率の外に出てしまっている"のだ
俺から封筒を受け取った際に中身を見ずに選択すれば"損"という概念が生まれない。しかし明確な数字を提示されてしまえば『この一という数字が倍になるか?半数になるか?』という損得を秤にかける感情が邪魔をする
これが簡単な問題を複雑な作りに替えてしまうのだ
「俺が持っている封筒には二十五と書かれた紙か? それとも百と書かれた紙か?」
「じゃあ今持ってるこの紙で良いわ。減る事は無いんだし」
「だけど五十が百になれば"五十の利益"が出て、五十が二十五になったとしても"二十五の損"にしかならない…それでも現状維持のままで良いのかな?」
「…交換しない手は無いとでも?」
分かりやすくメリットを強調して利益と損益の比重を伝える。イズミの脳内でもすでに二分の一という確率ながらもローリスクハイリターンであると錯覚している筈
しかしこの問題においての正解はイズミが考えている通り"交換をしない"なのだ。俺の左手にある封筒の中身を見なければ損もしないし得もしないんだから
「なるほどね…つまりこの問いにおける正解はやっぱり私が言った通り"交換しない事"って訳ね」
お見事。やはり直感で生きるタイプのイズミにはこんな搦め手通用しない…
「ただその考えこそが落とし穴でもあるって事よね?」
ん?何を言い出してるんだイズミは?
「つまり私が損も得もしないという事は、その封筒を手にした時に損をする私と得をする私も存在するという事。これこそがこの問題に起こるパラドックス」
いやもうイズミが交換しないって言った時点でこの問題は終了して…
「シュレディンガーの猫という話を聞いた事が有るわ。箱の中に存在する猫は誰かが観測するまで死んだ状態でもあるし、生きている状態でもある。つまり今の私もその封筒の中身を見るまでは損をしている状態でもあるし、得をしている状態でもある訳」
そうだね…まぁ確かにそうなんだけど…
「だから私がその封筒の中身を観測しなければ"少なくとも今の手持ちが無くなるような事は無い"と言えるでしょう。よって私は交換をしない事で利益を生むわ」
「そうそう…だから結局は──」
「でもそう思わせるのが兄さんの策略なのね?」
「は?」
「私が損をしないという事は得もしないという事、得もしないというよりも得をする道を自分から閉ざしてしまっている状態ね。 だからここで手元の二十五個のから揚げが無くなる事を"五十個の利益を追った結果"として考えれば交換しない理由は無いわ!」
イズミがバカになっているのではない、パラドックスとはこういう物なのだから。どちらが正しい訳でも無く結局は本人が正解だと思った事を正解とするしかない
なぜならイズミはこの左手に無限の可能性を見ているかもしれないが、俺にはただの"から揚げ百個券の入った封筒"にしか見えていないから。半分に減る可能性なんか初めからこの空間に存在していない"イズミの作り出したまやかし"に過ぎない
「ネタバラシをしよう。この中にはから揚げ百個券が入っている」
「どうして兄さんにそんな事が言えるの? その中はまだ観測出来ていないのに」
「ほら、から揚げ百個」
「……手品?」
冷静になるにはもう少し時間が掛かるみたいだが…改めてこの問題のキモとなる部分をイズミに説明した
「出題者の俺がこの封筒に紙を入れている時点で"シュレディンガーの猫"と同じ状況にはなり得ないんだよ。絶対に正解は決まって居るんだから単にイズミが交換するかどうかって言う意思決定を待つだけで…」
「じゃあ兄さん以外の人がこの中に紙を入れた場合は?」
「さっきみたいな選択者の心理を揺さぶるゲームでは無く、どちらを選択すれば成功の期待値が上がるかっていう確立を求めるゲームに変わる」
「同じゲームなのに性質が変わるの?」
「それが面白いんだよ」
これは"モンティホール問題"としてテレビで取り扱われたゲームショーが元ネタなので気になる方は調べてみると良いだろう。そして最後にイズミにはもっと分かりやすい問題を出してみる事にした
「イズミは無限の部屋数を持ち、無限の宿泊者が泊まるホテルに宿泊したいと申し出た。イズミはそのホテルに泊まれたでしょうか?」
「そんな気持ち悪いホテルには泊まりたくないから帰るわ」
「外は硫酸の海とする!」
これはパラドックスというか、回答者が文系か理系かを確かめる時に用いられる問題だ。俺はもちろん理系だったが果たしてイズミはどうだろう?俺は文系と予想するが…
「泊まれなかったんじゃない?」
「ほう、どうして?」
「無限は無限を追い越せないから、部屋が空かないわ」
「なるほど、やっぱりイズミは文系か」
ここでイズミを文系としたのはホテルに宿泊するという物事を額面通りに受け取っているからだ。分かりやすく文章にして見てみよう
『 』をホテルだとした場合『無限』に一を足しても"『無限』一"になってしまいホテルの許容量を超えてしまうとイズミは判断した。文章にしてみるとイズミの言っている事が正しい様に思えるが
しかし理系は問題なく泊まれると回答するのだ。彼らの言い分とすると、"無限に一が足されようとも無限だから"数学的に考えるとこの理論も正しい
"無限"というのは数字では無くあくまでも"無限数"という枠組みで、そこに"有限数"の一が足されても『無限+一』にはならず"無限"のままであるとするのが数学的考えだ
物事の捉え方一つで様々な意見や意味を持つのは珍しい事ではない。あちらではこれが正しいとされ、こちらではあれが正しいとされる、こんな事を聞いてしまえば絶対的な世界平和なんて訪れないだろうと感じてしまう
それでも今までの事を踏まえれば、自分達が平和だと観測している内はこの世界は平和なのかもしれない。つまりBANされて放送できない今の俺達だって、捉え方によっては長期休暇なのだから幸せだとも感じられる筈だ…
新年早々、普段使わない頭を酷使したイズミはから揚げを食べながら眉間に皴を寄せている。放送が無い事でいつも準備する画面も、編集する動画も存在しないのは幸いだったな…
食後も俺の膝に座りながら難しい顔をして一緒に動画を見ている。
「やっぱり腑に落ちない?」
「当たり前よ。主観だらけで誰も正解教えてくれないのよ」
「そういう物だと割り切るしかないよ…」
哲学にもある"五分前世界創生論"も同じ、過去を行き来する人間が存在しないのだから誰も否定できないという人からすると暴論だと言われてしまう論法だが、俺は胸に残るそのもやもやが癖になってしまうタイプなんだ
だからこそその靄を腫らす術も知っている訳で…
「でも目に見えなくても俺がイズミを愛してる事は信じられるだろ?」
「それは私が兄さんの事を知ってるからでしょ?」
「イズミがその答えを信じたいからとも言える」
「まぁ…そうかもね」
理屈じゃないのに理屈で解こうとするからおかしな事になる訳で、これが人間にだけ許された遊びだと考えれば夢中になる人が居る事も頷ける
「よ~し、風呂でも入れば忘れるだろ」
「そうね」
結局イズミは風呂の中でも難しい顔をしていたので、いつもは隣り合って座っている所を今日は抱きかかえるようにして入浴する事に。案の定イズミの脳内はパラドックスどころでは無なくなった様だった
が、しかし今度は寝る時にも俺の股間から目を離さなくなってしまった。全か無かの極端な所もイズミの魅力だと思うしかないだろう…




