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第六話  神田和泉

 

 父の顔を思い出す事は出来ない。ただそこにぼんやりと居たんだろうな、という事だけは覚えている


 葬式もしたのだろうが、なんとなくのシルエットだけが記憶の片隅にあるだけだった


 写真で見た事のある父はまだ若く二十代の頃の物だ。写真が嫌いという訳ではなく、その頃の物が父の最期の写真だったのだという。


 自分の父がどういう人だったのかとか、母に聞いたことは無かった。


 死んでしまった人にそこまで興味が無かったのと、自分の為に働く母への感謝を優先するべきだと思った。


 父や母に親族はなく、これから先二人だけで生きていく事を余儀なくされていたのだから、自分もこれから母の為に生きていかなければならないと考えていた。


 神田和泉かんだいずみ 十五歳は高校進学なんか考えて居なかった




 小さい頃からハツラツとした子供ではなかったが、そこまで不愛想でもなく社交辞令くらいならこなせる女の子だった神田和泉は、特に親しい友人などは作らず母にも迷惑が掛ける事の無いように、クラスで流行っている物や必要以上の贅沢は望まなかった。



 モデルの様に整った容姿に落ち着いた雰囲気は学校中の男子を魅了するに十分だった


 近寄ってくる男子たちを興味無さ気にあしらう姿は一部の女子の羨望の的にもなっていた


 そんな和泉も中学校をそろそろ卒業しようかという時期に差し掛かると、進路相談の際に先生から進学の意思はないかと何度も問われた。三者面談が開かれると母を説得しようと必死だった程に。



 成績は確かに優秀だったが、いい学校に推薦で入り奨学金で大学に入り、優秀な学歴によって初任給の良い企業に入社するなんて、自分の人生においては長すぎる助走だった。


 今すぐにそこそこのお金を稼ぎ、そこそこの安定した生活を母と二人で過ごす事が何よりも優先するべき目標だと私は考えていた



 ならばと母を説得する事に決めた教師はなんとか娘さんの為に、と言うと普段はおっとりとした母も眼光鋭く「娘の人生の幸せは娘が決めるので」と教師を突っぱねた。


 それもそうだ。たかだか三年ほどの学校生活でその人の人間性など表面上しか見えないだろう教師に比べ、ここまで育て上げた母からすれば自分の娘が心から進学を望んでいない事は明らかだった。




 中卒という経歴ながら働ける職場というのはかなり限られるものだが、そこまで体に負担のかからないような職場を母と二人で探す事にした。そして辿り着いたのが花屋だった


 母の提案で実際に店頭で就職の交渉をしたのが功を奏したのだろう。和泉の整った容姿は客寄せに最適だろうし、本人もそこまで花が嫌いでは無かった事から二つ返事で内定が決まった。


 恵まれた容姿はそれだけで武器になるのだと、いつもスナックで働く母から教えられたのだった。それから就職に向け、学校に通っている間も花の知識を学ぶ事にリソースを割いた。お花屋さんになりたいと小さな頃に思う女の子は多いそうだが、実際の花屋はもっとシビアなのだ



 特別な日に花を買いに来るお客さんは、花に興味の無い人がほとんどだ。なのでその時々に合った花を間違えずに選べるスキルが重要になってくる。それに加え、どういった形で束にするのか等も重要になってくるのだから、簡単に花屋と言っても学ぶ事はかなり多い大変な仕事なのだ。



 普段軽く挨拶を交わすだけのクラスメイトも和泉が進学しない事をどこかから聞きつけ、惜しむように話しかけてくる事が多くなった。男子からは「ならば卒業前に!」と告白される事が増え、何十人にも興味が無い事を伝えるのに疲れる日々だった


 本来ならこれだけモテると女子から生意気だといじめられるのが関の山だろうが、どれだけ顔が良くて人気者な男子からの告白もことごとく断り、それを慰める事で結ばれる男女も少なくない事から、もはや恋愛成就の神様かのように扱われていたという。




 卒業も間近になり、受験を控えた生徒の為に登校時間が少しずつ減っていき、受験の無い和泉は空いた時間に花屋の体験入店をさせて貰える事になった。


 花屋では生花を扱っているので家庭で飾った時に水を吸いやすくする為、活け花でなくとも花の根元を切るのだと切り方を教わった、花の種類によってはバラ以外にも棘の付いた花が沢山存在するため、花の幹を傷つけないように取り除く技術も大切だと教わった。


 それらを事前に勉強していた事もあり思いの外すぐに出来てしまった和泉に「こんな子が就職してくれるなんて嬉しい!」と店主も手放しで喜んだ。ただ一つだけ怒られたのは、棘の処理をカッターで行うのは見てるお客さんに威圧感を与えるのでやめなさいという事。


 授業中に鉛筆を削る事で身に着けた技術は無駄になってしまった。



 そんな日々が続き、段々と仕事に対して向き合う娘の姿を見るたびに、自分の手から離れる日が近いのかもしれないと母は少し寂しく感じた



──翌日警察から連絡があった。自分の娘が同じ学校の男子生徒3人をカッターやハサミで重症を負わせたのだと。二日酔いの事など忘れ、警察署へ急いだ



 そこには血だらけのままどこか一点を見つめる娘と、ただ傍に寄り添う女性と数人の警察官の姿があった。後から入ってきた壮年の刑事の口から今回の経緯を聞かされる




 いつもの様に花屋での体験入店を終え自宅に帰る途中、路地裏からにゅっと伸びた手に引きずり込まれた。そこには見た事のある男三人がにやにやとした笑みを浮かべ自分の体を羽交い絞めにする。


 突然の事に頭が真っ白になった、何かを言いながら携帯のライトをこちらに向ける男を目にして吐き気を催した。臆病な性格では無かったため身体がすくみ動けないという事は無かったのが幸いした


 思いきり暴れる事でまだ男子中学生だった男の手から逃れる事が出来た、そこまではよかったのだが見張りをしていた男に道を塞がれてしまう。


 どうしようもなかった状況で、自分のポケットに入っている刃物の存在を思い出した──


 これからの明るい未来の為に、就職を決めた花屋で使っている大切な商売道具で男に向かって切りかかる。


 花の枝を傷つけないようにと慎重に扱っていた刃物を、後ろから迫ってくる男にも振りかぶる


 カッターの刃が折れハサミに持ち替え、男達の顔や腕に傷を付けながら路地から走って逃げ出した


 無我夢中で走り、たどり着いた先は花屋だった。なぜここに帰ってきたのかは分からなかった。店主が人の気配に気付き店の前まで出てきた瞬間、言葉を失った


 先ほどまで一緒に花の扱いを学んでいた少女が、片手にはさっきのハサミを持ち血だらけで佇んでいたのだから。なにか事件に巻き込まれたのだろう。自分からなにか事件を起こすような子ではないと付き合いの短い店主でも分かるほど、普段からおとなしく花の扱いからも心の優しさが伺い知れたのだから


 それから店主に付き添われ、警察に連れて行かれた所で詳しい事情聴取を受けたのだと言う



 殺してやりたいと思った。大の男が三人がかりで自分の娘を手にかけたのだから

 警察はその男達の事を被害者と呼び、自分に説明して来たから

 被害者は誰がどう見てもうちの娘じゃないか、正当防衛じゃないかと

 被害者の家族の方とも話し合って…と言われた瞬間に自分の中で何かが切れた



 警察官に掴みかかり、そいつらを連れてこい、今すぐ殺してやると喚いた

 取り押さえられ落ち着くようにと言われても落ち着ける訳がない


 自分がどれだけ大切にこの子を育ててきたと思っているのか、あの人のいない人生で何を支えに生きてきたと思っているのか。それをクズ共のせいで一瞬にして汚され、あまつさえ自分の娘が悪いと言うのか。放心状態の和泉を連れ、逃げるように家へと帰った母はその日から仕事を休んだ。


──この子の傍に居てあげられるのは自分しかいないのだと改めて思った




 それから被害者だと言われていた男達の携帯から一部始終を収めた映像が見つかったと警察から連絡があり加害者の家族から謝罪をしたい、慰謝料だけでもと言われたが一切応じなかった。


 そんな畜生共を育てた人間の金で自分の大切な娘を育てる訳にはいかないと思った


 今まで手を付けなかった夫の遺産に手を伸ばし、それから数年の間この金で娘を育てる事を決めたのだ。




 警察署から帰ってきた和泉は部屋の隅で小さくうずくまっていた。現実感の無いぼやけた頭のままで


 今までの自分の生活をただただ繰り返していた。食事をし、排泄もする。ただそこに理由は無かった。なんとなくそうしなきゃいけない気がしたという理由で。


 それらが終わるとまた部屋の隅に戻り、ボーっとどこかに目を向ける。


 頭に靄が掛かったまま、これといった苦痛など感じずに朝目覚め、食事をすると制服に着替え家から出ようとする。そうしなければならないという気がしたから。


 母に外出を止められた。どうしてだろうという気持ちになったが、まぁ母が言うのだからそうなのだろうと言われるがままに従った。頭にはまだ靄が掛かっている


 ボーっとしていると時間が過ぎている。お腹が空くと部屋を出る。用意されている物を食べる。部屋に戻る。それだけの人生に何の疑問も退屈も感じなかった。今までの人生もそんな事の繰り返しだったのだろうと感じるようにもなった。


 たまに母から声を掛けられると、何秒かしてから話された内容を理解する。風呂に一緒に入る。座っているだけで良い。目にお湯が入ると目を閉じなければいけない気がした。目が痛むからだ。


 髪を乾かされるドライヤーの音もうるさく感じなかった。ゴー、ゴーという音。あぁ、聞いたことがある音だと思った。そして眠った。



 こんな日々が五年も続いた






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