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第六十四話 如月イズミの奔走

 


 あれから兄さんはいつも苦虫を噛み潰したような顔をしている。忘れられないというのは本当に難儀するらしい、なにかにつけてあの瞬間を思い出すのだろう



 流石にあれだけ激昂というか…自分の理性を手放す兄さんの姿を見た事は無かった。そして悔しい事に三沢晴香の姿を見ていたら、そこにどうしようもない"母"という存在を感じてしまった。そんな自分の感情にすら嫉妬している



 癇癪を起こす子供の喚き声を受け入れ、飲み込み言い返す事もせずにきっと言い分も有っただろうに我慢して兄さんのしたいようにさせた。これが愛情と呼べるかは分からないし正解かと言われれば違うと答えるだろう。 ただ母親かと聞かれればそうだと答えた筈だ




「母さん、兄さんが落ち込んでいるのよ」



『あらぁ~…イズミから連絡して来るって事は相当ねぇ…』



「母親と会ったのよ。産みの親と血の繋がった親と」



『まぁ…流石の大我ちゃんでも堪えたのかしら…?』



「どうすればいいと思う?」



『それは私にも分からないけど…お母さんの気持ちは少し分かるかもしれないから…』



「諸事情で迎えには行けないけど、家に来る事って出来るかしら」



『たまの娘の頼みなんだからもちろん行くわよ!』



 自分の母親に我が儘なんか言った事無かったのに、こういう時には頼れるというか一応は自分の事を愛してくれてると知っているから、子を想う親の気持ちを聞いてみたくなった。それは逆も然りで



『はい、親との関係は今も良好ですけど?』



「そう、じゃあ今日家に来てくれる?」



『もちろん構いませんけど、どうしたんですか? 今日のイズミさんなんだか思い悩んでる様に感じますけど…』



「まぁ、兄さんがね…」



『…分かりました! すぐに行きます!』



「そう、ありがとう」



 また都合よく使ってしまい申し訳ない気分になるが、今更何を言っているんだという話で使える者は文字通り親でも使うんだから、大田さんにも協力して貰わねば。今までの人生で培った感性の乏しさを恨めしく思うが、同時に助けてくれる人の暖かさを感じられるいい機会になりそうだ



 当の兄さんはと言うと、今日もパソコンに向かって何か調べ事をしている。覗き見なんかしても仕方がないし自分が納得のいく答えを必死に探しているんだろう、今はただ傍にいる事だけが優しさだと信じるしかなかった



 * *



「ごめんなさいね、急に集まって貰って」



「それはいいんだけど…どういう事なの? 急に大我ちゃんのお母さんなんて…」



「そうですよ、それが本当だとして大我さんなら知るかー! とか言って終わりそうなモノですけど…」



「まあ…これは私の主観も多分に含んでいるんだけど…」



 先日の会談を掻い摘んで話していると聞いている二人の反応に大きな違いが出た部分があり、それは三沢晴香が産後兄さんに会わなかった理由についてだった。母の朝陽は共感するように頷いていたが大田さんはと言うと首を傾げて納得のいって無い様だった



「という感じなんだけど…」



「私は母親目線だから、三沢さんの気持ちもよく分かるわぁ…」



「私は大我さんが怒る気持ちも分かりますね! 自分勝手すぎると思います!」



 思った通り二人共意見は分かれた。私個人としてはどちらとも共感しかねるけど、だからこそ詳しく話を聞いてみたいと思った。子供側の意見として大田さんは怒っているそうだ、もしも自分が同じ立場だとしたら…と



「出生の経緯くらいは知らせる事が出来た筈じゃないですか、そこは義理の両親含めて悪い部分だと思いますけど…大我さんからすると勝手に現れて勝手に落ち込んで、泣きたいのはこっちの方だと思うじゃないですか!」



「まあそうかもね」



「結果として今はイズミさんとか私達と楽しく暮らしてますけど、義理のご両親が亡くなった後も一年以上連絡もせず大我さんが本当に辛い時には素知らぬ顔で、元気だと知ったら接触してきて親だと認知して欲しいって…それは親のエゴですよ!!」



「なるほど」



 大田さんの言う事も理解出来る。本当に子供側の意見というか、主観モリモリで忌憚のない意見だった。あの時の兄さんが子供っぽく見えたのはきっと元からこういう感情を内包していて、それが表面化した事による影響だったんだろう



 母と二人暮らしだった自分では考え付かない感情というか…自分もちょっと普通の家庭では無かったからだろう。義理の両親でもなく、本当の両親でも無く。片親だけに上手い具合に支え合う事が出来たのかもしれないと思う




 逆に母さんは自分が兄さんの母親だったなら、実際に子供を産んだ母という立場で答えた




「三沢さんは大我ちゃんを産んでからずっと独りぼっちだったのかなって…」



「それは親としてって事?」



「それもあるけど、代理出産だったから本来一緒に暮らしてくれる夫も居ない訳でしょ? それに自分が産んだ子供も手元に置いておける訳でも無いっていう状態で…」



「三沢さんがそうだったかは分からないけど、出産後のお母さんには"産後うつ"っていう症状が有るのよ」



「鬱病の一種って事?」



「う~ん…私は実際なった訳じゃないけど、雑誌なんかで見た事あるのよね。出産の影響でホルモンのバランスが崩れて精神が不安定になったり、無気力だったり急に泣き出しちゃったり…」



「確かに無気力だったとは言ってたわね」



「ほらやっぱり…」



 まだ若くして決断した事だったのも裏目に出たんだと言う。経験不足から誰にも相談する事が出来ず誰にでも訪れるその症状を抱え込んでいたんだと。こんな風に自分が子供に対して罪悪感を抱いて、考えているだけで行動に移せない事に対しても自己否定してしまう。産後うつの典型的な症状らしい



 三沢晴香も誰にも知られる事無く苦しんでいたんだと知る。母に聞かねば気付けなかった事だが…これを聞いて兄さんはどう思うだろうか。そんな状況になりながらも苦しんだ母に感謝の念を送り仲直りするだろうか? それとも誰が産んでくれと頼んだのか?と子供側の被害者意識で押し通すつもりだろうか?



「それで…結局兄さんはどうするべきなのかしら…?」



「「う~ん…」」




 両者の意見を加味してみても解決策は導けなかった。やはり自分の中で納得のいく答えを出すしかないんだろうか、二人が帰ってから兄さんと二人きりになった家の中がいつもより少しだけ広く感じた


 いつもは兄さんが居るだけで満たされたこの空間が



 ──だから私達の間には誰一人として居て欲しくなかったのに



「兄さん、母さん達は帰ったわ」



「そうか…で? 何の話だったんだ?」



「兄さんの事よ」



「・・・」



 やはり避けたかった話題なんだろうか?いつも近くにいるからこそ弱みを見せたくなかったのか…また一人で何でも解決しようとする。抱え込んで、誰かに助けを求める事が悪い事だと考えて…



「兄さんも三沢晴香と一緒じゃない」



「…ははっ」



「俺もそう思ってた」




 言えばいいのに。助けを必要とすれば私にまで重荷を背負わせるとか考えていたんだろうか?もう二人だけでこんなにも同じ重荷を背負ってるっていうのに



「どうするの? 逃げちゃう?」



「それは俺の道理に反する」



「でも私は肯定するわよ」



「だから今まで悩んでた」



「甘える事と逃げる事は一緒じゃないからさ…」



 どうしようもないほどに親子なんだろうな。この人達は

 きっと三沢晴香も今頃…



 * *



 当たり前の幸せの中で、そのどれもが自分の身体をすり抜けていく感覚に戸惑っていた。決して満たされる事の無い器に注がれる幸福は水で薄められた様に感じる



 本来有る筈の物が無い人生は、それが誰かに奪われたと錯覚した。そんな喪失感を持つ自分が卑しく醜く映って、あえて見ないようにしていた。誰かから差し伸べられる手をずっと待ち続けて納得したフリをして生きていた人生。それがもう二十年も続いているのかと我に返る



「…みっともない」



「そんな事無いよ。三沢っちは立派さ」



 肯定されても埋まらない隙間に顔を覗かせるのは、一度たりともこの手で抱く事の出来なかった我が子の姿だった。金と引き換えに手にする事が出来なかった幸福の偶像


 あんな事を言われて当然の情けない親だ




 自責の念に押しつぶされそうになっていると玄関口からバキッという音と共にこちらに向かって来る足音が聞こえて来た。何事かと顔を上げるとそこに居たのは如月大我だった



「おう、飯作りに来たぞ」



「ちょ、ちょっと大我クン!? どうやって入って来たんだね!」



「この家玄関の建付け悪くてな、一回外側に持ち上げて開けると鍵無くても開くんだよ」



「電話くれれば普通に開けただろう!!」



「めんどくせぇから良いよ別に」



 少し遅れて妹のイズミが食材を持って入って来た。二人の表情は前回この家に来た時と変わらない様に見えるが、そっちはそっちで解決したのか?と晴香は思っていた。 しかしそんな事も無く、行き当たりばったりでどうにかなるだろう…と二人もここに居る。とりあえず飯でも食って落ち着こうといった風だ



 台所からは甘辛いタレの香りが漂って来るばかりで一言も会話は無く、それでも唐突に訪れた兄妹は皿までも用意して家から持って来たのか米を温めだして…



「いただきまーす」


「・・・」



 豚丼だった。目の前に置かれ、隣には大我が座りモリモリと食べ始めている。気乗りしないが、まるで最後の晩餐みたいに暗い表情で一口食べてみる。ちゃんと美味しいじゃないか…



 そういえば昨日も碌に食べてなかった。何かパンをかじってたが食べた気がしない感じで…それに比べて今日のご飯は温かくて、暖かくて、自然と涙が溢れ出した



 夢にまで見た自分の息子との食卓に感極まったというのもある。こんなに美味しいご飯が作れるまでに成長している、時の流れを実感して零れた涙でもある。嬉しいのか申し訳ないのか分からない感情がぐちゃぐちゃと混ざり合って、それら全てを咀嚼すると喉の奥に流し込んだ



 隣では食べ終えている大我に自分とは対照的に成長しているんだ…とまた目の奥から涙が零れそうになるのを必死に堪えた。立派になったと言うには大我の事を知らなすぎるし、誰も何も言わないが…どうして来てくれたんだろうという事も考えてしまう



 食べ終えた後には満腹感だけではなく、満足感というか…もう死んでもいいやという気さえしていた。それくらい夢に見ていた光景で…ここにもし、もしも幸枝さんが居てくれたなら…なんて虫が良すぎるだろうな



「んで…どうよ。気分は?」



「…えっ?」



「俺は正直よく分からん。一緒に飯食ってても違和感も無ければ嬉しくも無い」



「そこんとこどうなの?」



 単純に大我自身も確かめに来たんだと、この時に分かった。自分の親だという実感も無く、ただ事実としては残っている事だから。自分の中の不確かな気持ちでは無く細胞に聞いてみたんだろう。いつも放送を見たり、SNSで見ていた大我らしいと思う



「嬉しいよ…本当に…今までに無いくらい」



「そうか…そういうもんか」



 何かを確かめるように視線を外した大我は妹のイズミを見ると照れくさそうにしている。それからまたこちらを横目で見ると吐き捨てるように言ってみせた



「親孝行…っていうのか…? した事無いから」



「…え?」



「ジジイもババアも勝手に死んで…ネットで調べたら飯作れって書いてて」



「・・・」



「よく分からんけど…これで良いんだな」




 もう今まで悩んでいた事なんて、どこかに飛んで行ってしまったような。無くしていた時間を忘れてしまえる程の幸福感に自然と身体は大我を抱きしめ、声を上げ泣いてしまった。カガリは顔を伏せただ震え、イズミちゃんは面白くないといった顔をしていただろうか



 ずっと言えなかったこんなにも単純な言葉を、今はハッキリ言えた



 ──私の子でごめんなさい、こんな母親でごめんなさいと



 何も答え無かったが、背中に回された手に込められた力がそのまま返事の様に感じた



 今はこうしてくれるだけで、何物にも代え難いほど幸せだった




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