第四十四話 酒と海水浴と熱中症
八月前期の某日
子供たちが退屈している夏休み後期は絶好の配信日和なので、否が応でもその時期は配信漬けになってしまう。それまでの間一度くらい自分たちの時間が欲しかった為今日は視聴者には悪いが休みを貰った
日本は今日も猛暑。それなのに家から出るなんて自殺行為に等しいのではないか?クーラーも無かった時代であれば外のほうが涼しかったのかもしれないが、もう今は海やプールの方が暑いのだから
家から一歩も出なければ熱中症対策なんか必要ないだろう。わざわざ自分から死ぬリスクを取るなんて馬鹿げているんじゃないのか?とイズミと話していたんだが…
「いいじゃない。行きましょうよ海」
「は?」
「今年はなんだか行きたい気分だわ」
「ウソつけ、じゃあ前みたいにプール貸し切るからそれでもいいだろう?」
「海じゃなきゃ意味がないのよ。磯を感じたいわ」
「コイツ…」
どうせイズミの目的は何かしらのトラブルだろう。俺と大田さんとのトラブルか、はたまたイズミに色目を使った男相手に俺が暴れる所でも見たいんだろうか?どちらにしたって誰も平和にならない。 動画にするのだって肌色成分が多すぎてBANされるリスクのほうが高い、百害あって一利なしなのだから今年の夏は大人しく家に居よう。と説得していたが
「もしもし、今日海に行かない?」
『海ですかー! 良いですね行きましょう!』
「だって」
単細胞のバカが足引っ張りやがって
案の定夏休みの子供連れも多かったが、やはりカップルや友人と来ている若者の方が多く見られる。こんな場所でイズミの肌を露わにするのが本当に嫌だった俺はギリギリまで車の中で粘ったがイズミは一人で勝手に出ていってしまった、大田さんと俺は慌てて後を追う。今日だけは休戦協定を結び俺と大田さんは全力でイズミの身を護ることにした
女子更衣室の前で腕組みしながら待つ俺を周りの人間がジロジロと見てくる。分かっている、どう見たって不審者なのは十分理解しているが、俺の大切な妹のためなんだ勘弁してくれ…そして出来ることなら警察は呼ばないでくれと心の中で祈っているとようやくイズミ達が出てきた。なんとかギリギリ助かった…いや、本番はこれからだ。なんとしてもイズミのことを守り通さねばと兜の緒を締め直した
「んだよ女連れかよ…」
「えぇ~…めっちゃいい男なのに残念…」
「身体ヤバぁ///」
「てか女の方もヤバ…芸能人?」
元より周囲の女性の声など大我には聞こえていないのであった。
道中で買ってきた安っぽいパラソルを地面に突き立て椅子とシートを広げると早速その上にイズミが寝転んだ
「誰か日焼け止め塗ってよ」
そう言うとビキニの紐を自らの手で解いた。俺は大田さんを右手一本で土の中に捻り込むと誰にも見られる事がないように体を張りながら急いでクリームをイズミの身体に塗り込んだ
しかしその最中、誰かが俺の水着を全力で引きずり下ろした。顔中が土塗れになった大田さんが這いずりながら俺の水着を掴み、遂には丸見えになるまで脱がされてしまったのだ。その水着を遠くまで放り投げると俺から日焼け止めを奪い取り、イズミの肢体を味わうようにねっとりとクリームを塗りだした
俺は持ってきたタオルを腰に巻き急いで水着を拾いに行く。休戦協定という話はどこへやら、以前よりも敵対意識がハッキリとしており、このままではどちらかが溺れ死ぬまでエスカレートしてしまう。そう考えた大我は心を鎮めてゆっくりと水着を履き直した
"大田さんの眼前で"
恐らく大田さんはもろに見てしまったのだろう。「ぎゃっ!?」と叫ぶと急いで目を覆ってしまった…日焼け止めクリームの付いたままのその手で。 目を押さえ転げ回っている大田さんから日焼け止めを奪い取るとイズミの身体の隅々まで塗り終えることに成功した。ざまあみろ
転げ回っている大田さんの顔に水をかけてやると目を真っ赤にして怒っている。これじゃあ充血なのか怒ってるのか分からんな。日焼け対策バッチリなのにも関わらずイズミは日陰から出る気は毛頭ないようだ…やはり俺達を争わせて楽しんでるだけなんだろうか?この悪女は
しばらくボーッと海を眺めていた俺達だが、そんな姿が逆に目立つのか周りからの視線が気になりだした。するとイズミも同じ思いだったのかスッと立ち上がると海の家でご飯を食べたいと言った
前々から海の家の焼きそばだとかラーメンに興味を持っていたらしく、今回のメインも海水浴なんかではなくて食べ物だったそうだ。やはりスタイルの良いイズミを連れていると男衆からの視線を強く感じる。 俺は自分の羽織っていた上着をイズミに着せると、俺の機嫌次第では貴様らがどうなっても知らんぞという威嚇の意味を込めて筋肉を隆起させた
しかし今度は女性と一部の男性からの視線を強く感じた
多くの人で賑わう海の家はフィクションで見る物に比べて何倍も小綺麗に見える。内装もカウンターテーブルに鉄板などもあり目の前で貝などを焼けるようになっているらしく、居酒屋としてもかなり魅力的に見える。
しかしメニューを見てもっと驚いた。想像していた以上に品数も多く揚げ物にも対応しているのかと。タコの唐揚げやフライドポテト、フランクフルトなんかも有るしこれは俺もイズミも退屈しなさそうだ。しかし流石というべきか、アルコールの値段は居酒屋の相場よりも1.5倍ほどに設定されていた
350mlで600円というほぼ法外な値段のビールを五杯ほど頼み枝豆や冷奴、ポテト焼き鳥、唐揚げなんかも頼んで海に来たはずなのに完全に居酒屋ムードとなってしまっている。これなら普通に居酒屋に行ったほうが安上がりだし良いんじゃないのか?と俺もそう思っていた。しかし海の家にはそれなりの醍醐味も有ったと気付く
コーラを飲みながらサクサクと小気味いい音でポテトを食べているイズミ。しかしこの気温のせいで結露した水滴が時々グラスを伝ってイズミの胸元に零れ落ちるのだ。この水滴になりたいと思わない人間なんか居ないだろう、隣でカシスオレンジを飲んでいる大田さんの鼻の下も見事に伸び切っている。まさに海の家がもたらす至福の時間だ
酒を飲むとどうしてもトイレが近くなりがちだが、その際には俺と大田さんが顔を見合わせ、双方が頷けばそれがOKのサインだ。こういうところではしっかり休戦協定が結ばれている事に安心感を覚える
と思ったのも束の間、俺がトイレから帰るとイズミの胸元に零れた水滴をヌラヌラとした手付きで拭き取っている。その様は大義名分の旗本にて狼藉を働く下衆のそれだった
空になったジョッキで頭をぶっ叩くとしっかり脳天に響いたのか、さっきまでニヤニヤといやらしい表情を浮かべていた大田さんは頭を抱えたまま黙り込んでしまった。悪いことはするもんじゃないな…と嘲笑を浮かべた瞬間、イズミが見てないのを良いことに机の下で思いっきり足の甲を踏みつけやがった。人体の急所なのだから小柄な女性の一踏みでも致命傷だ
二人が内乱によって悶えている間にも次々と運ばれてくる料理を一心不乱に食べ進めるイズミだったが、彼女の胸中に去来した感想は『別に普通』だった。そう、海の家の料理とはどこまで行っても普通なのだ。こんな場所で手の混んだ料理を繊細に作ったところで、客の回転率と釣り合わない。みすみす客を逃してしまう前に速さだけを優先する、だから普通だっただけでもかなりの儲けもんなのだ
別にそれで不味かったとしてもクレームを入れる客なんか居ない。なぜならこんなクソ暑い中わざわざ海に来る人の頭の中では『料理が不味い=じゃあ泳ごうぜ』というロジックになるのだから、この海の家という施設は無敵なのである。様々な物が近代化した昨今でも廃れない理由が見えてくる
すべての料理を平らげたイズミは満足そうに帰りの支度を始めた。本当に飯だけ食いに来たのか…と驚愕したが、必要に肌を曝け出さないのなら好都合。俺も速やかに撤収作業を開始した。
大田さんはと言うと別に遊んでもいないのにヘロヘロだった。熱中症だろうか?仕方がないので更衣室まで担いでやることにした。元はと言えば海に来たのも自分のせいなのに最後まで面倒な女だ
着替えの最中は先程と同じ様に羞恥プレイの時間だ。しかも砂などを落とす時間も加味すると来た時よりも時間がかかる…そうすると面倒な事が多々あり…
「お兄さんナンパ待ちぃ~? めっちゃイケメンじゃ~ん!w」
「うわ、筋肉すごくな~い?ww 触っていい~?w」
ギャルだ。嫌いなんだよこういう女…なんだその髪の色は、きな粉でもぶっかけられたのか…辟易としたまま適当に相槌を打っていると体を触られまくってしまった。減るもんじゃないしもうどうでもいいから早くイズミが出てきてくれるように祈っていた。しかしギャル特有のよくないノリが災厄として俺に降り掛かった
「てかお兄さんチンコめっちゃでかそうじゃな~い?ww ほらぁ~ww」
「やばぁww あーしもさーらしてぇ~ww あっはっはww」
「ちょっ! やめろ…触んなって!///」
「えぇ~めっちゃ嫌がんじゃんww ちっちゃいの?ww うそぉww」
「勃ってんじゃん?w さっきからめっちゃ胸見てくるし~!ww」
「彼女と来てるから! 早く帰れって! オイ!///」
助けを求めるつもりで更衣室の方を見るとカーテンの隙間から血走ったイズミの目がこちらを睨んでいた。見ているのなら早く助けてくれればいいのに、なぜそんなホラー映画さながらの覗き方をしているのか…
イズミが出て来たことによってギャルたちは爆笑しながらどこかへ去っていった。本当に有害生物として国が処分しなくてはならないレベルだろうあれ…軽いトラウマを植え付けられたまま我々は帰路に着く
車の中でも気怠げな様子で目を閉じている大田さんの事が多少なりとも心配になってくる、夏場の飲酒といえば気を付けなくてはならないのだが、アルコールには利尿作用が有るため、飲んだ量の水分よりも多く体内の水分が出ていってしまい、適度に水分補給を挟まなければこの様に熱中症に陥ってしまう。こういう場合は速やかに水分補給するのが適切な処置だ、大田さんに呼びかけてみる
「大田さん水飲みな、熱中症なんだから」
「う、うぅ…うへへぇ///」
「ひぃ…きっしょぉ…なにこいつ」
あまりの事態に人生で一番情けない声が出てしまった。なんでこんなに至福そうに笑っているんだ、マジで死ぬ寸前なんじゃないのか?まぁ関わるのも嫌だから水だけぶん投げて運転中のイズミの方を見ると悪い顔で笑っていた。またなにかやったのかこの女は
「イズミ、大田さんになんかした?」
「兄さんと同じ事を聞いただけよ」
「ウソつけ。それで人間がこんな風になるわけ無いだろ」
「本当よ。もっとも兄さんよりも近くで…もっとゆっくり聞いたのだけど」
「壁に手をついて『大田さん…? ねぇ…チューしよぉ…?』って具合で」
「いいなぁ…」
病人相手に狼藉を働いたことを怒るよりも先に羨んでしまった。自分よりも背の低い大田さん相手だからこそ壁ドン出来る訳で、俺が味わうことの出来ない臨場感だっただろうと嫉妬してしまう。
というかその『熱中症』の言い方とシチュエーションは完全に意識してるだろ、最近大田さんの事をおもちゃにし過ぎではないのか?と言おうともしたが何よりも本人が幸せそうにうなされているのでなんとも言い難い所だ…そんな色んな意味での病人である大田さんを家で下ろし、少し懐かしい気すらする自宅に帰ってきた。
どうせ来年には使うことなんか無いパラソルや折りたたみ式の椅子をマンションの自室まで運ぶことが面倒で、もうそこら辺に捨ててやろうかとすら思う。しかし配信業なんかを営んでいると本当にいつどこでなにが必要になるかもわからないので、一応物置にしまっておく。
砂浜というのは思っているよりも足に来るんだな、と張ったふくらはぎを揉みながら思う。スポーツ選手が合宿に使うのも実に合理的だ、とビールを持ちながら一人で考えているとつまみを作りに来たイズミとかち合ってしまいうっかり壁ドンのような形になってしまった。
なるほど、大田さんの様に背が小さくないのなら自分がすれば良いのかとコロンブスの卵的解決をした。珍しい事態に驚いた様子のイズミは柄にもなく心配してくれているようだ。瞬時に悪い考えが頭の中に浮かんだのだが、今日のイズミに俺を攻める権利はないだろうと俺は悪戯っぽく笑うと顔を近づけながら言った
──熱中症…かも?




