第四十二話 如月イズミの慕情
最近兄さんと大田さんが仲良く話している時間が多くなった気がする
今までは兄さんの傍には私しか居なかったのだから、朝も昼も夜も私が兄さんを独り占めできていたのに。最近は大田さんが配信を手伝ってくれる様になった事で会話の向かう先が私だけではなく、また私が受け答える相手も兄さんだけではなくなっている訳で
正直まだ違和感がある。何年間も母親と話す事もなかったのだから兄さん以外の人と上手く受け答えができているのか自信がない。しかも多くの場面で兄さんを通して間接的に話している節すらあるのだから大田さんと2人きりでの会話はそれほど多くもない
嫉妬している訳ではないと思っていた。ただ、羨んではいただろう
普通の人間らしく、普通に人と話せている二人を見て、劣等感に近い何かを感じていたんだろうと思う。六年という空白の時間が、確かに自分の人間らしい部分を奪っていったんだと実感した
兄さんと一緒に住んでいるのだから、私の人生に必要な物はこの部屋の中に全て存在した。外の世界に出る必要は皆無だった私は他人に興味を失っていった
だから懐かしい顔を見たあの瞬間に、一瞬だけ元の"神田和泉"が顔を出した。小さな小さな出来事だと思っていたのに今ではこんなにも思い悩むだなんて、こんな些細なことで自分の人生経験の無さを恨むことになるなんて人生は分からないものだ
もちろん大田さんの意中の人間が兄さんではなく私だということも把握しているけれど。それならそれでもっと私と会話することも大切なんじゃないかと思う
ん?いや、別に今はそういう話はしていないか。そう、私が二人と話す話題の無さを痛感したという話なんだから、こちらから話しかけられる話題を用意するのが最善の改善策で。
そもそもそんな話だったか…?
普通に兄さんと大田さんはマヨネーズがどうのと言って、健康のために控える話をしていて、そこで兄さんがもう中断してもいいって。ここだ、ここで私が途中で辞めるなんてって…どうして?別に好きにすればいいだろう。
他人の健康状態なんてどうでもいいし、欲望に正直に生きることを否定なんてしない。好き勝手に生きてこそだって兄さんともよく話しているし、じゃあどうしてそんな余計な事を…?
兄さんが私以外の人に優しくしたから?母さんにもいつだって優しくしているじゃない。大田さんが私と会話する回数が少ないことが不満?別にそんな事ないわ。兄さんと二人で居ることだけが私の幸せで…二人だけで…?これじゃあまるで大田さんが居ることが悪いみたいじゃない。
そんな事別に思ってないわ。それなのに…この胸の締め付けられる気持ちってなんなんだろう?今までの人生で感じたどの感情とも違う。兄さん、兄さんに聞いたら教えてくれるだろうか?この切ない胸に穴が空いてしまったようなこの感覚の答えを
「兄さん…あのね…?」
「うん? どうした元気ないな、体調悪いのか? 夏バテ気味だったらご飯軽めに作るけど」
「そうじゃなくてね、そうじゃないの…」
「そっか、なにか欲しい物でもある?」
「そうでもなくて…この…なんて言ったらいいか…」
自分の感情を言葉にすることが出来ない。今すぐにこの胸中を開いて兄さんに曝け出せたらどれだけ楽だろう、この不安の正体を兄さんに察して貰えないことがどうしようもなく不安だった。
自分がこの黒くて重たい感情に飲み込まれてしまう感覚があったから。それでも兄さんは何も言わずに私の言葉を待っていてくれる、はやく吐き出さなきゃいけないのに、ごめんなさい。ごめんなさい兄さん
「私ね…兄さんと…二人でね」
「うん」
「とても幸せだった…もちろん、大田さんも好きよ…でもね」
「あぁ」
「もっと、兄さんと…私…兄さんに…」
「うん。ちゃんと聞いてるよ…」
「私…寂しいの、かも、しれない…」
「兄さんが…私以外の人を見るの…でもそれは大田さんだから…問題ないの」
「なのに兄さんが取られたって…そんな事無いのに…あるわけないのよ?」
「どうすれば…どうすればいいのか、分からなくて…それで…」
兄さんは静かに私を抱き寄せて、それから頭を数回撫でられた。それは愛する女性にするものではなくまるで自分の娘に対して、安心させるかのような力強くて優しいものだった
自分の頭の中で整理できなかった言葉を一つずつまとめる時間を用意してくれているかのように、ゆっくりと優しく背中を叩かれる。大きく息をすると今まで自分が見せてこなかった一面を少しずつ兄さんに話し始めた
「本当は…怖いのよ…また一人になることが」
「あなた達は私のことが好きだと言ってくれるでしょうけど…自分のどこにそんな魅力があるのか…この他人よりも恵まれた容姿も年月を重ねるごとに衰えていくのよ…」
「結局…私って何を持っているのかが分からなくて…いずれ私から離れていくのなら、いっそ今すぐになんて…考えないこともなかったわ」
「兄さんが…魅力的すぎるから…大田さんが私よりも明るいから…不釣り合いかもと思ってしまうのかしら…それとも元々これくらい自分に自信がなかったのかもしれないわ…もう何が何だか分からないわよ…」
それだけ言うと兄さんの胸から顔を上げて、初めて自分の目から涙が溢れているのだと気付いた。何年ぶりかというレベルではなく、涙を流した記憶がまるで無かった。赤ん坊の頃に一生分の涙を流してしまったのだろうか?それとも自分の人生には悲しいと感じる出来事が無かっただけなのだろうか?それにしたって人生初の異常事態に頭の中は更に混乱した
兄さんも驚いているかと思ったが、表情一つ変えずに私の目元を拭うと今度は優しく微笑みながら私の好きな所を言って聞かせるようにゆっくり話し始めた
「なにかの比喩表現とかじゃなくてさ、俺の人生はイズミと出会うまでは俺だけの人生だったんだ。だからイズミと一緒に今感じられている幸せって、全部イズミが俺にくれたものなんだよ」
「他の男女がありふれてるって言うかもしれないこの毎日が、イズミのおかげで幸せなんだ。それはイズミがどんな見た目になって、何歳になろうが変わらない。棺桶に入ろうが骨になろうがね」
「俺も昔からさ、人の事なんか好きになれなくて。イズミのことを妹としてじゃなくて一人の女性として好きなんだって自覚した時にめちゃくちゃ悩んだよ」
「その…今まで自分がどれだけ愛しているかを伝えられていない事に気づいたんだ。それで勇気を出して『愛してる』って言ってみたんだ。でもイズミは寝ちゃってた。初めて聞いただろ?」
ううん…ちゃんと聞こえていた
「そんなだからさ…イズミのこと不安にもさせちゃうし、愛想尽かされても仕方ないかもだけどさ…出来れば信じて欲しい。俺が好きなイズミは表面上のイズミじゃない。神田和泉だっていい、如月イズミでもいい、目の前にいるお前だけだから」
「死ぬまでも、死んだ後も、それからだってずっと愛してる」
私も、同じ気持ちだって、今度は不安だからではなく満たされすぎた胸が苦しくて言葉が出てこなかった。兄さんの言葉で揺れた鼓膜を、自分の声で汚したくないと思ったのかもしれない
どちらが言うともなく手を絡め人生で二度目のキスをした。その時間が永遠に続けばいいと思うほど満たされた自分の胸の中から、さっきまでの悩み事は綺麗サッパリ消えていく。自信なんか無くてもこの人の言葉を信じようと思えた
息切れを起こす程の長い時間のキスを終えると頭が少しクラっとした。それでももう一度…もう一度と何度も兄さんを求めると兄さんもそれに応えてくれる。私はただの粘膜的接触なんかに価値を感じない。そんなものに価値が生まれるくらい兄さんの事を愛しているんだと、頭の中で反芻させながら
──刺すような日差しに照らされた七月の如月家には、二人の吐息と蝉の声だけが響いていた




