第三十五話 女子会×恋バナ×お風呂
食事を終えワインをほぼ一本開けようかという大田さんはすでにほろ酔い気分だ。このまま寝てしまってもいいんじゃないかと思えるが、寝る時はイズミの部屋を借りると聞いて風呂に入らせてほしい、と初夜でも迎える生娘のような事を言っている。
しかし大田さんの下着のサイズはとてもイズミの物で代用できる訳ではない、悪く言うつもりはないのだが着けていないのと変わりない気がするので替えの下着を今すぐにでも買いに行かねばならない。夜も遅く外は生憎の豪雨、女性が出歩いて良い訳もなく…
「大田さん…俺が行くよ…」
「で、でもお兄さんは体を動かすのもやっとなはず…」
「いいんだ…俺さ…もし無事に帰ってきたら…」
「イズミと大田さんが一緒に風呂入ってる音聞いててもいい…?」
「うわキッモ…」
さすがの大田さんも素で暴言を吐いてしまうほどの気色悪い男は体に力を込め大嵐の中、必ず帰ってくるぞと女性物の下着を求めドンキに向かった。大田さんのサイズが書かれた紙を握りしめ
大我の去った後、二人は別に心配する事もなく大田さんは酒を、イズミは配信でプレイ出来るゲームのリストアップをしていた。酒が入っている事もあり憧れの神田和泉と仲良く一緒に食事を楽しみ、この後は一緒に入浴も出来る事で舞い上がっているのだろう、顔がにやけたままで戻る気配がない
そしてイズミの作業しているデスクに昔自分の渡したキーホルダーがある事にも気づいて少しだけ涙が出てしまった。本当は紛失した物が帰ってきたので置きっぱなしにしているだけ、という事は内緒にしておきたいほど綺麗な涙だった
お酒の力がそうさせるのか、夏も間近に迫り雨に濡れたアスファルトから立ち上る匂いがそうさせるのか。形容し難い寂しさを感じる
毎年この季節は訪れるのに、飽きもせずにこの時期には雨が降る。昨年と違うのは仕事を辞めた事と神田さんに出会えた事。変わらないのはこの雨だけだから懐かしく、その中に寂しさを感じるんだろうか
「神田さん、今お話してもいいですか?」
「えぇ。いいけれど」
「神田さんはお兄さんのどんな所が好きなんですか?」
「全てよ。その言葉通り、毛の一本すらも。血の一滴すらも」
「どうして、そこまで愛せるんでしょう…今まで私にはそんな経験が無くて」
「兄妹だからでしょうね。愛情の質が違う、細胞の繋がり方が別物なんだから」
「でもそれって…家族としての愛情なんじゃ…?」
「そうは思えないわ。優秀な遺伝子に惹かれるのが生物としての本能、その対象がたまたま身内だっただけ。だからこそ他人とは比べ物にならないくらい惹かれ合うのよ」
「でも私…お兄さんにそこまで魅力を感じません…もちろんとても優秀な方だとは思いますけど…」
「そう、一度強姦未遂でもされてみれば変わるかもね」
「か、神田さんっ!!」
「冗談よ。兄さんなら手を叩いて笑うのにね」
「私は…笑えませんよ…」
今でもまだ信じられずにいるのだから。なぜあんなにも卑劣な行為を…自分よりも弱い女性に対して大の男が何人も…あの時、噂になった頃にその生徒たちの名前を覚えておけばよかったと本当に思った。そうすれば私が…なんて
でも、神田さんにはお兄さんがいるからもう二度と危険が及ぶ事はないのが救いかもしれない…私よりも強いらしいので…本当に?100kgを超える男の人も容易く投げられる私よりも…?でもお兄さんも体は大きいし、筋肉も…それでも、腹の底に湧くドス黒い感情は収まりがつかなそうに私の手足を動かそうとする
「あ~…買ってきたよ大田さ~ん…」
「…ありがとうございます」
「ふぅ…着替えないとな、これじゃあ余計体調が悪く…」
ごめんなさい…お兄さん
「ん…? どうしたの大田さ…」
「ズェェェェェアアアア!!!」
懐に入り、下着の入った袋に手を伸ばすフリをして懐の中から腕を獲った。そのまま足から腰へ力を伝達させ立ち上がるように腰を浮かす そのままの勢いで腕を前方に投げるように引く。非の打ち所無し、完璧な一本背負いが決まった
が、大我の体は一ミリも動かなかった。それどころか左手で首を捕まれ逆に身動きの取れない状態になっている。そのまま片手で空中に釣り上げられると耳元で大我は冷たく言い放った
──人間なら殺せるかもな
顔を見るまでもなく怒っているのだと伝わった。このまま地面に叩きつけられるか首を絞めあげられるか、どちらにせよ無事ではすまないだろう。それでも確かに自分よりも強いことを確認できたのだ、思い残すことはないだろうと目を瞑った
「いやぁ…がっかりだよ大田さん…聞いてるほど強くないんだもん…」
「そうね、弱ってる兄さんも投げ飛ばせないんなら熊殺しはデマだったのかしら」
「はい、風呂入ってきな。あぁ~あ、背中もビシャビシャになっちゃって…洗濯機に入れといてね」
「あ、あの…私…」
確実に痛めつけられると覚悟していたが、二人とも今までと変わらない様子で自分と接していることに動揺を隠せない。傷つける可能性だってあったのに、それでも意に介さないようにいつも通りの二人のままだ
「その…すみま…」
「はいはい、はやく脱いで! 洗濯できないから! イズミ脱がして放り込んでやれ!」
「えぇ、分かったわ」
それから引きずられるように風呂場で裸にひん剥かれると、浴槽の中に放り込まれた。顔を上げると神田さんも…もちろんの事一糸まとわぬ姿でそこに立っていた
それから二人でも余るほど広い浴槽の中で気まずい沈黙が流れた。それはそうだ…神田さんの愛する人を、それも私のためにこんな雨の中買い物に行ってくれたお兄さんを急に投げ飛ばそうとしたんだから…最低だ、私
自己嫌悪と自責の念で潰れてしまいそうな私の顔を、神田さんは隣から覗き込むように見て言った
「あなた…もしかして責任でも感じているの?」
「あ、あの…本当に失礼をしてしまい…申し訳…」
そこまで言うと神田さんは私の頭を掴み浴槽の中に沈めた。お酒を飲んでいたし咄嗟の事だったからだろうか、凄い力で自分から顔を上げる事は出来なかった
「ぷはっ!! か、神田さっ…はぁ…はぁ…」
「この程度よ、あなたなんて。私でもどうにかなるくらいのね」
「そ、そんな事は…」
「競技の一歩外を出ればこんなものなのよ。水の中から顔を出す方法を柔道では習わなかったかしら?」
「それは…でも力は確実に私のほうが!」
「それだけじゃ兄さんに敵うわけないでしょう。化け物なんだから」
それでも、自分も小さい頃から怪物だ、神童だって言われてきたのに…結局男の人には勝てないのだろうか…?
「というかどうしたのよ、急に人でも殺したくなった?」
「あっ…いえ…そんな…」
言えるわけがない。神田さんのためにだなんて…
それ自体も勝手な妄想と的外れな怒りに身を任せただけなんて、恥ずかしすぎて…
「ダメよ、今度は刃物を持って掛からないと。そうしないと殴ってもくれないでしょうから」
神田さんは…神田さんを守るのにも私はそれだけ…
「神田さんを守るにも…力不足でしょうか…!」
「は?」
「私が神田さんの隣で、それじゃあダメ…なんですか…!」
幻滅するだろうか…結局は嫉妬だったんだと知れば
愛されてなんかいないと分かっていようと、あの時
あの時間だけが私の人生の中で一番の…かけがえのない
憧れって、思ってたんです
「まぁとりあえず髪洗ってもらえるかしら。いつもは兄さんがやってくれるんだけど」
「はっ、はい!」
長くてキレイな髪、あの頃から少し伸びてるのかな。当然か もう六年も経っているんだから
その時間の中に私が存在していないんだから、忘れられていて当然だと思ったのに いっその事あの時、忘れていてくれれば良かったのに
期待してしまった、運命なんじゃないかって
気づかなければよかった、こんな気持ち
憧れのままなら、これからもいつもと同じような時間の中で生きていけたのに
「そういえば女性同士でも子供を作れるように医学は進歩しているそうね」
「えっ…? ど、どうしたんですか急に…?」
「いつだって急じゃない。今日だって」
「そうでしたね…」
「兄さんが言うのであれば一緒に子供を作ってあげてもいいわね」
「えっ!? そ、それって私と神田さんの…?」
「えぇ、兄さんも同性愛には寛容みたいだしあなたも私のことを好いているのだから」
唐突な告白に混乱して手が止まってしまった。困惑しているふりをして顔を逸してしまう
それでも嬉しそうな顔ができてしまうのはそういう事なんだろう
でも、ここで突き放してくれないのなら…私はまた、神田さんに…
「私も別に、あなたの事は嫌いではないわ」
――堕ちていく
返事は出来ずに居た、その後は神田さんが私の髪を洗ってくれた。幸せな時間のはずなのに、心の中には棘が刺さったような感覚…そう、『お兄さんの許可』この事実がチクチクと私の心を冷静にさせてくれない。結局は一番ではないのだから…それでも、今日は完全に私の方が悪いし何も言う権利はないよな…と反省する
「もう上がるわよ」
「あっ、私も!」
もうそんなに時間が経ってしまったのか、なんだか生きた心地がしなかった…でも幸せだったなぁ…最後になるかもしれない神田さんとのお風呂を噛みしめるように浴室のドアを開いた
「あっ、もう上がるの?はいタオル」
「イッヤアアアアアアアアアア!!??」
扉の前に普通にお兄さんが座っていた、完全に裸を見られてしまった…しかも当人は慌てる様子もなくスルメを食べている。咄嗟の事についつい平手が飛んでしまった
が、平然と受け止められた
「イヤだなぁ、聞かせてもらうって言ってたでしょ。忘れてた?」
「ダメよ兄さん、そういう時は殴られてあげなきゃ。漫画でもそうでしょう」
「…でも大田さんの裸より俺の顔のほうが価値が高いだろ!」
「まぁそれはそうね」
勝手に裸を見られて、勝手に格付けされて…そんな事よりも神田さんとの時間を邪魔されて…
「最ッ低!!!」
「何度も言わせるな…始終聞かせてもらった」
「イズミの隣には俺だけでいい」
私の目を真っ直ぐ見つめて、威嚇するように私の手を強く握る
これは事実上の宣戦布告だ。私がお兄さんから神田さんを奪い取るために
「絶対に私の方が好きなのに…!」
「とっとと寝ろ"クソガキ"」
そう言い放って神田さんを抱えて浴室を出ていった
あんな人に神田さんは勿体なさすぎる
神田さんに借りた服を着て、神田さんから部屋を借りて、神田さんのベッドに潜り込む
体の隅々まで神田さんに包み込まれる感覚に脳が蕩けそうになった
六年前のあの日よりも近くに神田さんを感じる
深くまで吸い込み肺の中を神田さんで満たしながら私は意識を手放した
「はぁ~…にしてもショックだった」
「大田さんの事?」
「あぁ…せめて投げ切ってくれるものだと思ってたのに…」
「まぁそんなものよ。兄さんと違って普通の子なんだから」
「流石に熊と直接戦うのは今の時代許されないだろうから、せめて"熊級の人間"を期待してたのになぁ…」
神田…如月イズミはそんな彼女の気持ちを知ってか知らずか
大我の布団の中で大我の腕に抱かれ大我に抱きついている
「でもイズミに目をつけるとはいいセンスをしている。競争相手は最悪だろうけどな」
「始まった瞬間から負け戦っていうのは同情してしまうわ」
「まぁでもあんなに分かりやすく焚き付けてやったんだから発奮するだろう」
「目的は?」
「なんにでも全力の方が諦める時も綺麗に終われる」
「そう、なんだか複雑だわ」
「鞍替えするか?」
「出来るものならしてみたいわね」
「あぁ、俺もだ」
大我が手を握ると握り返す。世界中でたった二人だけの対等
六十兆の細胞そのどれもが抗うことが出来ないほどの相思相愛
もはやそれは呪いと呼べる程に他人を愛する事が出来ない
「おやすみ」
「えぇ…おやすみなさい」
純度100%の愛は、他者からすれば欠陥にしか見えなかった




