第201話 父親として旦那として
これは今から20年前のこと。神田慶二という男が生きた時間の一部を切り取った話である
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「朝陽さん、和泉行ってくるよ」
「気を付けてくださいね? 今日はすごく暑いって言うから……」
「はい、ありがとうございます」
神田慶二24歳。この時彼は神田朝陽と結婚し一人の子を儲けていた、いや厳密に言うとこの2年前には彼と厳島カガリとの遺伝子を掛け合わせた試験管ベイビー・如月大我が誕生している。彼はその事を知らされており産まれた時には自分の血を分けた子供とはどういう物なのだろうと顔を見に行ったこともある。
『これが……僕の子供……?』
『あぁ、キミと私の子であり、三沢晴香の胎内で育った如月家の養子でもある』
厳島カガリは三沢晴香との友人でもあったため出産にも立ちあったが、神田慶二に伝えたのは大我が無事産まれた後の事だった。もしも出産の過酷さに母子のどちらかが耐えられなかった場合、呼び立てられた側としては迷惑でしかないだろうと考えたからだ。養子縁組としての契約を済ませ三沢晴香が退院してから改めて神田慶二にも報告し今回の面通しと相成った。
『もう引き取り先は決まっているのか』
『名家だよ、キミも相当の収入を得ているだろうにその差は月とスッポン』
『そうか……幸せになれると良いな』
カガリは慶二のどこか寂しそうな表情を見て、彼もまさか自分と同じ感傷に浸っているのかと感じた。確かに目の前には自分の遺伝子を分けた子が存在しているのに、親であるはずの自分は彼の出生には何も携わっていないという無責任さ、戸籍上にも自分の名前が残らないのだから自分の事を親として認識する事は一生無いのだろうという寂しさがどこかにあったんだろうと。
『連絡先は? 大きくなった時にまた会いに行くんだろう?』
『いいや、やめておく』
『どうして?』
『……僕は彼の父親では無いから』
子を成すという儀式をあんなに簡単な形式で済ませてしまった無責任さが、目の前の我が子を見つめる時間と共に自分の胸を締め付けて来る気がした。自分以外の人を愛し支える決心もせずに、誰かに人生を捧げる事を面倒臭がった人間にこの子は眩しすぎると感じたのかもしれない。それはカガリも同じ事だった……そのせいでカガリもこれから十数年後、海外の大学で如月大我に出会うまで彼の家族には一報も入れる事は無かった。
この日が彼にとってのターニングポイントとなり得たのかは定かではないが、これから約1年後に当時まだ20歳になりたての朝陽と出会い恋に落ちるのだった。そして彼女を愛し自分の人生すべてを捧げ働いた事で彼にも待望の子供が出来たという。
『朝陽さん、ほ、本当に……? 間違いじゃなくて……?』
『はい、あなたとの子供です……』
『う、動かないで、今すぐ布団を……体に障る……』
神田慶二は狼狽していた。多くの家庭で子供が出来たという時には大抵事後報告される男の方が動転してしまい話にならないというが、ここまで見事にあたふたする人は珍しいのではないか? 数年前の彼にとってはまさに夢物語とでも言おうか、子供なんか愛しあった男女の間に出来る歪な副産物とでも言いたげな態度で人々と接してきた男がこうまで喜べるものが結婚なのだろう。
『もぉ……まだ二カ月なんですからそんなにしなくても』
『あ、朝陽さんとお腹の子に何かあったら! 明日から仕事も休むぞ! 僕が身の回りの世話を何でもするからね!』
『この子が産まれてからの事も考えて沢山稼いできてくださいね?』
『あ、あぁそうか……そうだ……よーし! 働くぞ!』
『ふふっ……男の子と女の子どっちでしょうね?』
『女の子が……いいな』
この時慶二の頭の中によぎったのは大きくなった大我とこの子が仲良さそうに遊んでいる姿だった。二人とも男の子であれば自我の芽生えと共に母の朝陽と遊んではくれないだろうと自分の経験則から考え、この子はかわいい物が好きな女の子で朝陽さんと一緒に料理を学んで……なんて事を想像してしまった。もしも彼が大きくなり自分が父だと告げた時、一緒に食卓を囲んでくれるだろうか? あの日決別したはずの父と子という関係を、今はどうしようもなく欲してしまっているのはムシが良すぎるだろうか……?
しかしその後の彼がどうなったのかは言うまでもないだろう。この日、妻と娘に別れを告げ会社に到着した慶二はデスクに立て掛けてある二人の写真をにこやかな表情で眺めていると手元にあった厚紙の資料で指を切ってしまった。こんな間抜けな事は子供が出来るまで考えられなかったと彼の部下からも笑いが起こるほどだった。
絆創膏で出血を抑え再び仕事に戻ろうとした時体に異変が起きた、軽い貧血というか少しくらっと来る程度の物で(最近は和泉が産まれた事で張り切りすぎたのか……)なんて栄養剤を飲み、これからは少し家族との時間も増やそうかと考えている矢先だった。
彼の指から出血が止まらないのだ。
あの程度の切り傷なら絆創膏を貼っておけばすぐに出血は止まりかさぶたになる筈が、ガーゼは真っ赤に染まりポタポタと机の上まで血が滴り落ちるほどの出血量に職場は騒然となり病院へ行く事を勧められた。深く切ってしまっただけで大袈裟だろう……と考えていた慶二だが貧血の事もあり渋々病院へと足を運ぶ事にした。
「落ち着いて聞いてください、急性白血病です。ご家族が居れば今すぐ連絡と入院の準備を」
白血病は今の医療でやっとの事"不治の病"と呼ばれる事は無くなったが、当時は一般的に患ってしまえばほぼ完治する事は無いだろうとされていた病気であり、慶二の患った急性白血病は前症状なども無く急激に症状が悪化する特殊な事例である。これに関しては現在でも発症の原因が分かっておらず早ければ発症から一か月ほどでこの世を去る事になる大病だ。
また、白血病の治療には抗がん剤を使った治療が主で特殊な療法だけに多額の治療費を要し、そしてどれだけ延命できたとしても完解する事は無いと言われていた。家族のために働いて来た慶二は悩んだ、もしも自分が助からないのなら気休め程度の治療なんか受ける必要は無いと。潔くこの人生の幕を引き朝陽さんには新しい旦那を、自分の生きた証として娘の和泉には大学まで行くだけのお金は残せるだろう。
そして社会に出て自分と同じ様に仕事をし、いつか素敵な人と巡り会い自分と朝陽さんのように素敵な夫婦に──────
慶二の目からは大粒の涙が流れた。嗚咽を漏らし娘の成長する過程に自分の姿はどこにも無いという事実に絶望し、娘の成長を見届けられない不甲斐なさと悔しさに何度も頭を掻きむしった。そうしているうちに連絡を受けた朝陽と、彼女に抱かれまだ何も知らない愛する娘の和泉が病院に到着した。
自分が彼女たちに残せる物は何だろう?
もしも自分が居なくなれば彼女たちはどうなるのか?
その日慶二は朝陽の隣で子供のように泣いたという。
結局神田慶二は妻から懇願された抗がん剤による治療を受ける事無く、病気が発覚した僅か二か月後に健康だった時の体重から10kgほど落ちやせ細った姿のままこの世を去った。仕事ばかりだった自分の人生で唯一他人に自慢できた貯金を、世界中の誰にでも自慢できる最愛の家族に残し。
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「ほら大我ちゃんここよ~!」
「……あい」
「何年振りかしらね」
「最後に一緒に来たのはイズミが中学生の頃だからぁ~……」
「なんて事はない、目の前にあるのはただの石の塊だ」
「ふふっ、慶二さんも同じ事言いそうね?」
「むぅ……」
如月大我は記録に残された神田慶二の姿しか知らないが、この時初めてその存在に触れる事になる。頑なに父親の話を聞こうとしなかったのは自分に似た所があると言われ続けた事が原因か? もしも彼の事を知ってしまえば、会ってみたいと思ってしまうから。取り返しのつかない時間という壁が彼を理解するには障害となったのだろうか。
「よぉ、死人」
三沢生花店で買って来た花を花瓶の中に突っ込むと乱暴に酒を注ぎながら大我は墓石に一言声を掛けた。先程までの話が大我に語られるのはこれからの事、父の死の全貌を聞き大我は何を思い、当時の記憶がないイズミは何を感じるのか?
神田慶二の墓前には昔彼が思い描いた、彼の家族が集まっていた。
つづく




