第172話 大我の好き嫌い
"漢如月大我"現在妹の目の前で空前絶後、未曽有の危機に晒されているのだ。
「どうしたの兄さん? 食べないの?」
「ん……? ん~……いや、食うよ?」
「冷めるわよ」
実は先日視聴者からおすすめされた店に昼間から食べに行こうかと足を運んだのだが、この店は昔ながらの古めかしい蕎麦屋だ。ランチ限定で出て来るカツ丼がとてつもなく美味しいと評判だった。それを聞いたイズミが
「久しぶりにカツ丼が食べたくなった」
と言って聞かないので、昨日の今日でこの店を訪れた訳だ。
これだけ聞けば先程から俺の箸が進んでいない理由に疑問を持つだろう。しかし俺が頼んだのはカツ丼ではなく『天ぷらそば』だった。
「お得意の逆張り精神ですか?w」
なんて言われるかもしれないがそんな事は無く、イズミの口に合えばどうせまた訪れる事もあるだろうしカツ丼はその時でも良いかと考えたのだ。寿司屋では寿司を食い、蕎麦屋では蕎麦を食うのが定石というか礼儀だと考えているのも有るが。
しかしこの選択が俺の運命を大きく変える事となってしまったのだ……
(なんでこんな古風な店でパクチーの天ぷらなんか出してくんだよぉぉぉ!!!!)
如月大我25歳、生来好き嫌いは少ない方だと自負しているが今までの人生史上断トツで嫌いなのがこのパクチー。正式名称コリアンダーなのだ。
見た目的には山菜の天ぷらかとも思い一度は口に運ぼうと口元に近づけたが……衣を纏っていながらもくっせぇくっせぇカメムシみたいな匂い放ちやがって……おかげでこの場で嘔吐する事は避けられたが、普段からイズミに
「好き嫌いしないでちゃんと野菜も食べなさい!」
なんて言ってる手前、張本人の俺がよもや野菜を食えないなんて知られたら……
『信じられないわね。自分で言った事も守れない兄さんなんか嫌いだわ。金輪際話しかけないで頂戴』
こんな事になりかねない!!だが待ってくれ、このパクチーという物体はただの野菜ではなく、宇宙から飛来し人類の嗅覚を鈍らせる目的で作られた外宇宙からの兵器で、きっと地球侵略の際に用いる毒ガスの匂いをカモフラージュする為の卑劣極まりない……なんて言っても聞く耳を持ってはくれないだろうな。
それに好き嫌いが良くない事というのも事実だし、俺だって何度か克服の為にネットでパクチーのレシピを調べて、嫌いだった人が食べられるようになった物も作ってはみたものの、てんでダメ。それらの苦手克服レシピはパクチーを食わそうと画策しているからか、細かく刻んで混ぜ込む物がほとんどだった。
しかしあの匂いは小さくなるどころか繊維を傷つけられた事により香りが強くなる一方で、克服レシピどころかパクチー嫌いに対する拷問もいい所。散々な目に遭った事で俺のパクチー嫌いはさらに加速したのだ……
「兄さん」
「な、なんだイズミ……? かつ丼美味しいか?」
「えぇ。ところで天ぷらは食べないの?」
「ん……いや……食ってるよほら……」
「そう」
俺が今まで手を付けたのはエビと椎茸のみ。他のナスやレンコンは魔のパクチーゾーンに配置されているので匂いが付いているんじゃないのかと怖くて手が出せない。かき揚げに至っては所々緑色の部分が見えているので中に混ぜ込まれてる可能性が大だ、もう俺の目からはかき揚げではなく爆弾にしか見えない。
しかし蕎麦屋や定食屋にありがちなメニュー表に商品名しか書かないの、もう辞めませんか?俺がもしパクチーアレルギー持ってたら死んでますよ?ただでさえ蕎麦アレルギーなんて日本で生きている人にとってポピュラーな疾患と向き合う立場なんだから、もっと表示形式にこだわりを持つべきでは?
「うちは蕎麦打ってうん十年なんでぃ!」
なんて誰も気にしてない所を誇る前にもっとやるべき事あるんじゃないのか?天ぷらにパクチー使わないとかさ!!
(イズミはもう9杯目……そろそろ食べ終える頃だけど対して俺はざるそば一枚と少量の天ぷらのみ、残り一枚と大量の天ぷら達が俺の目の前には残されているか、万事休すだな。ここから俺が大逆転するシナリオを導き出すとしたら)
"プランA:お腹がいっぱい"
これはまったく見知らぬ人や友人相手なら体調不良も言い訳にして何とかなるだろうが、俺の誤魔化す対象は一緒に生活する妹であり、この後帰ってから晩飯も作るしなんなら満足に昼飯を食わなかった今日の俺はめっちゃ食うだろう。だから一般的に使われるこの手法は完全な悪手、構想から外した方が賢明だろう。
"プランB:残して帰る"
一見プランAの内容と似ている様に思えるが、こちらの場合は『この店の天ぷらはとても食えた物ではない』という悪評を伴い店を後にするという非人道的行為だ。俺も昔は料理を作る立場にいたのだからこれが何を意味するか十分理解している。作り手からすれば二度と来る事のない客に対して罵声の一つでも浴びせてやりたい所だが、味覚なんて人それぞれなのだからこいつの舌がおかしい事にしよう……と胸の奥にそっとしまってストレスになる。これだけは俺がやってはいけない行為だと心の中で猛省した。
"プランC:頑張って食べる"
えぇ~……嫌だなぁ~……シンプルに嫌だよこれはぁ~……いいじゃんちゃんと他の所で好き嫌いしてないんだからぁ~……たまには大目に見てよぉ~……
そうこうしている間にイズミは食べ終えてしまったらしく、着席から一向に箸が進まない俺を怪訝そうに見ている。仕方ない、こんな物食うくらいなら何も言わずに残して帰ろう。イズミに聞かれてもそれとなくはぐらかせば、店側からすると体調不良だったのかな?と思われイズミからすると不味かったのかと思われて誰も傷つかない平和的解決が望めるだろう。
「兄さん、やっぱりこの店のそば不味いの?」
なななななんて事言うんだこの女ぁ!?後ろで作業してたお母さんこっち見てるんだけど!?そば自体は文句なしで美味いし、このそばつゆだって食後のそば湯と合わせて飲んだら大層美味い事間違いなしの逸品で……ただこの緑の葉っぱがよぉ!!!!
えぇいままよ!!!!
「いや、うまいうまい。イズミにカツ丼一口くれって言うか迷ってたら中々食えなくてな。あははは……」
「そう。一口くらいならあげたのに」
俺は目の前のそばを口一杯に頬張るとその後を追ってパクチーを押し込む。大量のそば越しだというのにとんでもない匂いが鼻から抜けて口の中の物をすべて吐き出しそうになるも、咄嗟に小皿にこんもりと盛られていた生わさびをそばつゆに放り込んで半分ほど飲み干す。一気に大量のわさびを流し込んだことで鼻から強烈な辛味が抜け涙目にはなるものの、パクチーの匂いよりも強烈な刺激があの嫌な匂いを打ち消してくれている。今だ!!この機を逃すな!!俺は次々と天ぷらを口に詰め込むと先程同様口の中の物をそばつゆと共に胃の中へと流し込んだ。
「ごちそうさまでした……さ、帰るぞ」
「もっとゆっくり食べても良かったのに」
店を出る時にはお母さんも嫌な顔をしていなかったし、残さず食べた事が功を奏した形だ。しかし未だに鼻の奥が痛くて気を抜くと涙が出そうだ……しかし俺は大きな壁を越えた達成感と共に店を後にした。克服したとはとても言えないが俺は逃げなかった、その事実がとても重要なのだ。
満足感とほどほどの満腹感から俺は帰り道でゲップをしてしまったのだ。
胃の中から押し寄せる強烈なパクチー臭
車の中という密閉された空間で俺は意識を保つだけで精いっぱいだった
そして俺は……
────オェッ




