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第156話 気に入った髪の長さ

 


 八月も半ばになった所でイズミの長く綺麗な黒髪が少し暑苦しく感じて来た。という事でいつもの様に俺が手入れしてやることになったのだが、イズミにどれくらいの長さで切ろうか?と聞くと「兄さんが好きな長さで良いわよ」そんなイズミらしい返事が返って来た。



 俺は背が高く線の細いイズミには、それを引き立てる様な腰まで届く長さの髪が似合うと思うし、フェチ的な意味でも大好きだけど…流石にここまで長いと『常時トレンチコートを羽織っている』と言っても過言ではない暑さに見舞われるんじゃないかと心配になる。本当は毎年めたくそに暑いのを我慢して俺の趣味に付き合ってくれているだけなんじゃないかとも思っていて…



「俺はこのままが良いけど…イズミは不便に感じてないか? クソ暑いとか」


「髪は兄さんが洗うし、前はこれの倍くらいの長さが有ったでしょ?」


「まぁ…あれは例外というか…確かにあの時はかなり骨が折れたな」


「だから別にこのままでいいわよ」



 そう言って床に広げた新聞紙の上に座るイズミを眺めながら、俺とイズミがまだこの家で一緒に暮らし始めた頃の懐かしい記憶に思いを馳せたのだ



 ────────────


 ────────


 ──────


 ────



「とりあえずこんな物で良いだろう。不便な事があればまた聞くと良い」


「・・・」



 この家に越して来た俺とイズミはそれぞれの部屋に家具を運び、プライベートな空間の整理を終えると一息ついて初めて二人きりの気まずい空気を過ごす事になった。当時は今みたいに互いの事を何でも知っている訳では無かったし、それこそ出会ってからまだ数日の事だったから俺の対応もよそよそしかったと記憶している。



 それでお互い向かい合って座っている筈なのに一向に目が合わなかったんだ。原因はイズミの前髪が顔の半分以上を覆ってしまっていたからで、それを野暮ったくも思わないイズミに社会常識が通用しないと感じ、まずは普通の人と同じ生活水準に戻す事が重要だと考えたんだ。



「とりあえずイズミ…? その髪どうにかしようか」


「別に大丈夫。気にはならないから」


「俺が気になるな、ほとんど引きずって歩いているんだから」


「慣れてるわ」


「俺は未だに慣れないよ。切らないと」


「・・・」



 その時は他人との接触をまだ嫌っているのかとも思ったが、今になってみれば髪を切った後の事後処理とかが面倒だっただけなんだろう。風呂に入った筈がふとした時にちくっとした感触と共に、切った後の髪が出て来るあの感覚は確かに面倒だと思わない事も無い。しかし俺からしてみればそのクソ長い髪のまま日常生活を送る方がトータル的にはマイナスだと考えたので、ある程度の所までは切ってやろうと交渉を進めたのだ。



 俺はもちろん他人の髪なんか切った事は無いが、ノウハウというか技法くらいなら見ているだけでも理解出来たから自信だけは持っていた。しかし美容室でもこれほど長い髪を持った客など見た事が無いので少しだけ不安は有ったが、どうせこれから一緒に生活していく訳だから多少の失敗は大目に見て貰えるだろう。という甘えが有ったのもまた事実だ



「とりあえずどこが前髪かもう分かんなくなってるから、ヘアピンで適当に前髪留めるぞ?」


「・・・」



 前髪がアンバランスになる事を避けるには、生え際から髪を持って来てしっかりと境界線を作ってやることが大切だ。これを怠ってしまえば頭頂部から生えていた余分な髪を切ってしまったり、少し横から生えてるオシャレに使える部分の髪まで巻き込んでしまい、失敗への道のりを歩んでしまいかねない。この頃の俺ももちろん完璧主義者だったのだ



「にしてもよくここまで伸ばしたものだ。世が世なら高く売れただろうに」


「勝手に伸びたのよ」



 少し遠回りながらもなにか引っかかる話題が無いかと、散髪の合間に世間話を挟んで様子を見ていたんだが…当時のイズミは今なんか比べ物にならない程の無愛想で、こちらが出した話題はすぐに打ち切られてしまいその部分に一番苦心した。今度美容院に行ったら少しだけ愛想よくしてしまいそうだと思う程に…



「ふぅ…大分時間はかかったけど後は後ろ髪だな。どれくらい切ればいい?」


「…任せるわ」


「任せるか…そういうのが一番困るんだが、今回ばかりは自分へのご褒美って事で好みの長さにさせて貰うか」


「・・・」



 ここまで1時間以上も格闘しているのだから自分にも役得が有っても良いだろうと、半ばヤケになっていたんだろうな。俺はイズミが聴いている事も忘れて自分の好みなんかをぺらぺらと話してしまったはずだ。



「長くてきれいな髪はそれだけで目を惹く素晴らしいものだ」


「日本人は自分達の武器を理解できてないな。全員がこれくらい美しい黒髪なら俺ももう少しは…」



 なんて余計な事を話していたっけな。あの頃は切っても切っても短くならない目の前の黒髪に辟易しながらハイになっていたのだろう。イズミから返事が少なくなっている事も忘れて一心不乱に毛先を整え、髪を切り終えると外はすっかり夜になっていた。切った髪の毛を何かに再利用できないかと考えていたら、無慈悲にもイズミがゴミ箱に放り込んだ。あれは未だに惜しい事をしたと思っている



 何てことない共同生活の始まりだと思っていたが、今になって考えるとほぼ初対面の人間に髪を切らせるなんてちょっとどうかしてるよな。それがプロならまだしもずぶの素人な訳で…もう少し考えてから行動した方がよかったんじゃないかと自分の事ながら反省だな。



 ─そして現在─



「まぁこんな物か」


「なんだか急に軽くなるから落ち着かないわね」


「首が座らない感覚な?」



 今ではもう慣れたものであの頃から何倍も手際が良くなり、イズミ専属の美容師として文句なしの腕前だと自負している。欲を言えば一ショートカットのイズミを見て見たいとも思うが…一瞬で髪の伸びる育毛剤の開発を待つばかりだ。



「しかし未だにこの髪の使い道を考えてしまうな…」


「まだやってるの? 気持ち悪いわね…」


「あぁ! もったいない!」


「何に使うつもりなのよ…」



 そして髪を切った後には恒例の出前タイムだ。これも初めて髪を切った日に疲れ切った俺が提案して、以降定番化した行事の一つである。イズミが肉好きであると知り始めたのもこれがきっかけだったし、常軌を逸した野菜嫌いが露呈したのもフライドチキンについていた"パプリカパウダー"すらも毛嫌いしていた事で知った。



 ただ髪を切るというだけでも、俺達からすれば大切な思い出の一つという事だ。



「おう! どうだお前ら今日はイズミの髪切ったんだけど」


【切った?】

【わかんね】

【言われてみれば…】

【誤差レベル】



「見る目ねぇな、だからモテないんだろうな貴様らみたいなもんは」



 普段から見慣れている視聴者達ですら注視しても分からないレベル。にもかかわらずその日のイズミはどこかご機嫌なように見えたという。あの日の事は大我にも語る部分が有ったように、きっとイズミの心境に変化が訪れた日でもあったのだろう。



 ──ただそれはまた別のお話で


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