第106話 お土産が買いたいんじゃい! -中編-
「おい…なんかホタテ焼き始めたけどあれだけか…?」
「まさか…あれで一人分でしょ…?」
小声でぼそぼそと話し合っているのが実の母親であり貧民街出身の晴香とカガリだ。同じ貧民街出身の大田さんと朝陽さんはあんなにも目を輝かせているのに、こいつらはどれだけ腹が膨れるか?どれだけ酒が飲めるのかという事しか考えていないらしい。せっかくの夜景が見える鉄板焼き屋もこいつらからしたらぼったくりバー程度の認識なのかもしれない…
未だにホタテの焼かれている鉄板を訝しげな眼差しで見つめている二人だが、残念な事にここからホタテが増える事は無く、一人一枚分のみだ。この店も目の前のシェフは何も悪くない、それが相場で構わないという者のみがこの店を訪れるのであって、更には他人の金でご相反に預かろうという人間が言えた立場かと俺の方が憤りを感じている。そして食前酒のワインがグラスに注がれるとその少なさにも目を丸くして、本当に恥ずかしい奴等だ…
「おい…大我ここって…b」
「ぼったくりな訳が有るか…お前らがこのランクに順応してないだけなんだよ…!」
「にしたって…まさかこんな少量が続いて腹を満たせって事かい…?」
「隣の二人みたいに雰囲気も楽しめ…」
よく磨かれたステンレス製のヘラを巧みに使い油を敷いたり掃除したり、時にはそれで食材もカットするというショーも込みでの値段なのだから、これを楽しめないという人にはそもそも向いていないんだろう。その点大田さんと朝陽さんはまるで手品やサーカスでも見ているかの様にシェフの一挙手一投足に注目し、なんなら熱中しすぎて今は何の食材を調理しているのかも理解していないまである。今考えてみればこの人達なんか俺の親に比べるとレズと淫乱なだけでまともな方だったんだな…
実の息子に蔑まれている事も知らない当人たちはまだ納得しないのか、鉄板の上に放置されているホタテを眺めて怪訝な表情だ。まるで「もしかしたらこのまま放置して冷めた物を食べさせられるのか…?」とでも言いたげな表情だが、このハメ込み式の鉄板にはそれぞれ保温用の場所と加熱用の場所が存在し、現在のホタテの状況は付け合わせの野菜が出来るまで一旦蓋をかぶせて保温中。なんて説明をしている間にパプリカともやしが出て来た
「ホタテ、パプリカ、もやして…」
「野菜の分だけホタテを増やしてバター醤油で焼くんじゃだめなのか…?」
「もう帰れよお前らは」
自分が損した訳でもあるまいし結局食うくせしてなんでもかんでも文句ばかり言って、まるで現代のネットをそのまま擬人化したみたいな厄介な客どもだよ。これだけ高級な店では野菜一つとっても無農薬野菜だったり提携農家から直に買い付けたりしてるものだ。後程ステーキの付け合わせに出て来る玉ねぎやにんにくも、俺達が買おうとすればスーパーの何倍もするくらい高級な物だったりするんだよ
見てみろイズミなんか黙って出て来た物を口に運んでいるだけで一言も喋らない。まぁ…別に美味しいとか一言くらい言えればもっと良いのかもしれないけれど、四十にもなって文句しか言えないおばさん達に比べれば随分と利口だ。本当はイズミだってこんなちまちました調理を見たくも無いしもっと量を持って来てくれと思っている筈だが…いかんいかん、これでは店にネガティブなイメージだけが付いてしまう…大田さん達を見て落ち着こう。
前菜のホタテと野菜が目の前の皿に盛りつけられ、大田さん達は女子らしく写真なんか撮っている。いつもならこういう光景も「無駄な事してないで冷める前に食えよ!」なんて恫喝している所だが、流石の俺も身内には甘いらしく楽しんで貰えて何よりだとさえ思っている。それもこれも目の前に出された料理の少なさに、白目を剥きそうな勢いで驚いている隣の奴等が原因かもしれないな…
「おい…マジかよ…これで千円以上…」
「居酒屋だったらこれ三皿頼めるよ…? 大我クンこれって…」
「だから正当な値段なんだよ…食ってから言え」
震える腕で貝柱を口に運んだ二人は目を見開いて驚いていた。そう、食ってみれば普段自分達が食べている冷凍のホタテとの違いに気付き、予想していた振れ幅の分だけ驚いてしまうんだよ。
「うっわ…マジで普通のホタテだ…正気かよ…」
「大我クン…問題にしたくないんだったら私達から言おうか…?」
「正気じゃないうえに問題なのはお前らだよ」
やはり頭同様、味覚も相当逝っちゃってるらしくこいつらには違いなんか微塵も分からないそうだ…隣に居る大田さん達はそれはそれは目を輝かせているというのに…たとえ違いが分からなかったとしても自分の息子が金を払って食べさせてくれる料理なんだから、バカな振りして素直に美味しいと言いながら食えば良いじゃないか。なんだか怒りを通り越して悲しくなって来たわ
こんな奴等の話を真面目に聞いてたらバカになってしまうので閑話休題。ここから料理はメインに移るのだが、海鮮コースでは伊勢海老を一尾丸ごと使って海老味噌のソースで食べる鉄板焼きだ。これには流石に文句の一つも言えないだろうから俺も安心して自分の料理に手を付けられる
北海道で採れた大ぶりなホタテの身を四等分されており、調味料はシンプルに塩胡椒だけで味付けされているのも前菜としての役目をしっかりと果たしている。高級な塩と自分達で挽いた胡椒を使っているんだろう、ホタテ自身のポテンシャルが高い事に加えフランベもしているから貝類独特の臭みは一切ない。彼女らはこれ以上何を望むと言うのか?一料理人として改善案を聞いてみたいよ本当に
そして今日はたいへん静かで大人しく、気付けばメインディッシュの和牛を既に貪り終えたイズミは悲しそうな顔をして俺の方を見つめていた。それはこの場に似つかわしくない迷惑な母親たちの戯言に頭を悩ませる俺を同情しての事ではなく、シンプルにお腹が空いてるからもう店を出たいという表情だった。ほら見ろいつもは暴君のイズミだってこんなにも可愛らしくアピールをするだけじゃないか?それがこいつらみたいな年増にもなると口をついて出てしまうんだろうな!なんてみっともないのかと腸の煮えくり返る思いだ
「兄さん、もう出ましょう」
口に出しちゃったよイズミちゃん…もう少しも我慢できなかったのかな?人間の三大欲求の中で最も重きを置いている食事に関しては、流石のイズミもこんな畜生共と同じ土俵に立ってしまうという事か。これは勉強になったが兄さんもまだ前菜しか食べてないし、君の同級生とお母さんも海老を前にカメラ構えて固まったままだよ。もう少し我慢してくれないか妹よ
イズミに右腕をぐいぐい引っ張られながらも俺達はこれからデザートまで食べなければならなく、いくらイズミの頼みと言えどもコースの途中で帰るなんて失礼だし…本当に苦肉の策ながら急遽イズミの為にもう一度コースを作って貰えないかと頼むと、店側から快く了承を頂きなんとか事なきを得た。長年ここで働いているベテランシェフでも流石にコースのおかわりなんて聞いた事が無かったのか「は、はぁ…」と完全に困惑していて、金を払っている立場にも関わらずなんだか申し訳ない気持ちになってしまう
「うわ…なんだこの海老うめぇぇ…これが伊勢海老か…」
「豆知識だけど伊勢海老って伊勢湾では取ってないらしいね」
「マジかよ…じゃあこれ本当は何海老なんだ…?」
「さぁ? 美味しければ私は何海老でも構わないけどね」
「正真正銘"伊勢海老"だよ!」
殻付きのまま縦半分にカットされた伊勢海老は、更に食べやすいように身もほぐした後に再び殻の中に収められている。箸を使って食べたい人への配慮も行き届いていて益々高評価だが、未だにはしゃいでいる大田さん達は相変わらず写真撮影にお熱らしく、先程までは微笑ましく眺めていた俺も流石に早く食えよと手が出そうになる。落ち着け俺、はるばる東京から旅行に来ているのだから正しいのは彼女たちの方ではないか。俺も写真撮っちゃおうかな?なんてな
それからは料理もそこそこに何の遠慮も無く一本数万円の高級ワインを追加で注文する母親たちに、まぁなんだかんだで楽しんでいる姿を見られたと心のどこかで満足していた。イズミは二度目のコースもぺろりと平らげると多少満足したのか今度は帰ろうと口に出す事無く、運ばれてきたデザートに舌鼓を打っている。なんとか無事にホテルに帰る事は出来そうだなと安心した所で会計の時間だ
とてもじゃないが口に出す事も憚られる金額に俺の後ろで伝票を見ていた面々は引いていたが「これがお前らの胃の中に入っているんだぞ」と言うと一様にどういう訳か歩く姿も慎重になっていた。なるべく胃の中を刺激しない様にしているのだろうか?どうせ帰ってから酒を飲んで忘れるくせに…
まぁ折角の北海道旅行で"想い出らしい想い出"が出来た事を嬉しく思うとしよう。と綺麗に纏まりそうだったのだが、帰り道で風情も何もなくコンビニ弁当とお菓子を買い込むイズミを見て(本当にそうか…?)と俺の中で疑念が生まれた事は言うまでもない。




