第102話 酒盛り至上主義 -前編-
昨日のカラオケ監禁地獄から解放されたのは延長を二度繰り返した午後十時だった。一応直帰したとはいえ別室の女どもは疲労が残ったままなのか気絶したように寝入っている。そらあんだけバカみたいに歌ってたら次の日は疲れるだろって感じだが、毎日の早起きが癖付いた俺とイズミはすっきりした目覚めのままホテルの朝食バイキングに来ている
この朝のホテル特有の人が入り乱れているのになんとなくだらっとした雰囲気が不思議な感覚だ、もしも街中で同じだけの人が居ればもっと違った表情をしているだろうが、旅行先という環境がそうさせるのか?それとも完全なプライベートの時には皆もこれくらいのんびりと過ごしているのか?全体的に落ち着いた時間がこの空間を支配している様に感じる
出来たての料理の前に少しばかりの列を作り、対照的に冷えて平べったくなったオムレツや一杯分しか残されていない酢豚の前には人っ子一人寄り付かない。この自由さがバイキングの醍醐味というか、普段の日本人なら譲り合い精神とかもったいない精神を見せる場面でも朝の寝惚けた思考回路で本能のまま動いている所が実に好感を持てる。他人に干渉しない完全プライベートな食の空間、この場の誰もが孤独のグルメを味わっているのだろう
しかし思った以上に子供が多いな、やはり無尽蔵なスタミナ貯蔵庫を持つ子供は前日にどれだけ遊ぼうとも早起き出来るのか?あのグータラな大人達にも見習わせたい所だよ。大人になるとたまの旅行も出来なくなるが、その事にまだ気付いていない純朴な少年少女のくすんだ未来を想像すると今日も朝から飯が美味いな。大きくってから君達のご両親がどれだけ優秀だったか思い知り感謝をすればいい。少なくとも朝は寝て夜は酒を飲みながら文句を言うだけな俺の親よりもよっぽど優秀だろうからな
* * *
もしもあなたが旅行先のホテルに悩んでいる時にはバイキングの品数を見ると良い。朝食バイキングという宿泊客の一日を始める時間がどれだけ多くのリスクを抱えているかはご存じだろうか?その日の気分によっては朝食を食べない事もままあるだろうが、ホテルの人間はそんな人達の気分に合わせてコックや料理を配備しているんだから毎日が戦争だ。
例えば手間のかかる料理が朝から並んでいればそれを売り切る自信があるという事だし、実績ももちろんあるんだろうから「ここはいいホテルに違いない」と俺は思ってしまう。実際に目の前の光景が物語っているというか、朝から酢豚に煮物まで出て来るなんて想像していなかった…珍しい物を見つけた嬉しさからついつい皿に取り分けてしまって、俺が今まさにホテル側の術中にハマっているのは言うまでもないだろう。
それでもバイキングの醍醐味はこういうちょっとした出会いにあると思っているのだ、隣にソーセージとオムレツで皿を山盛りにしている妹も居るがこんなのは論外だ。納豆と生卵に味海苔、焼き鮭とみそ汁だけを持って「理想の朝食セット」とかを作る楽しさとかも知らないんだろうな…ゆで卵と白米も山ほど取ってまるでプロレスラーの合宿じゃないか
そんな粗暴なイズミとは打って変わって俺は野菜もしっかり摂取しよう。ドレッシングも複数から選べるのが嬉しい、肉じゃがも久しく食べてないしこっちにはポテトサラダもあるのか…しかしそれではサラダばかりが大半を占めて…どんだけ楽しいんだよオイ!女の人が服や宝石を選ぶ感覚がいまいち分からなかったけれどこれなら長すぎる買い物時間も理解出来る。目の前に並べられているだけで楽しくて仕方がない、そして隣のイズミがめんどくさそうにしているのが伝わって来て買い物を待っている彼氏とはこういう物か…とも思った
ようやく選別した選りすぐりの精鋭たちを食べてみても別に逸脱した美味しさを得られる訳でも無いのは知っていた。それでも少しだけしか食べられない朝の時間に沢山の味を感じる事は多幸感を得られるものだ。朝食バイキングの会場に行くのが面倒だと感じていた人もこの機会にぜひ足を運んでみてはいかがだろうか?ちょっとした環境の変化が一日を豊かに過ごさせてくれるかもしれないのだから
満腹とも言えない腹八分の状態で部屋まで帰ると奴等はまだ起きてないみたいだ。今日の予定はどうしようか?残り二泊もあるのだから少しゆっくり…いやいやもう何度来られるかも分からないんだから全力で楽しむべきか…俺の中でリトル大我達がせめぎ合っていると珍しくイズミから提案があった。なんでも前回来た時に立ち寄ったジンギスカンの店で昼食を済ませたいとの事だ。確かに昨日の青空の下で食べたのも良かったが、折角なのだから本場の味も楽しみたい。俺達以外はまだ食べた事も無いし喜ばれるかもしれないな
そうだ!まだまだスタミナのある今日のうちに前回出来なかった食べ歩きをしてはどうか?もしも最終日なんかに決行してしまえばまた死んだ様に寝てチェックアウトに間に合わない!なんて事になりかねない。それに今日歩かせまくって筋肉痛にでもなってくれれば明日から俺達は自由の身、ホテルの中でうねうね蠢いて居ればいいと考えイズミの案を採用した。ともなれば今すぐ起こしに行かねば時間がもったいないと俺達は晴香とカガリの部屋に押し入った
入り口付近で雑多に脱ぎ捨てられた衣服の数々にダメ人間さが伺い知れて、これが自分の親だと思うと心底嫌な気持ちになる。案の定ベッドの上には全身を布団で覆う事もせずに下着姿で夢の中にいる二人の姿が…誰に向けたサービスシーンなんだこれ。突如として襲って来た頭痛と吐き気は昨日飲みすぎた余波だとは思えなかったが…
ベッドの間に挟まり二人の頭を掴むと枕に叩きつける様にして上下にシェイクする。驚きと気持ち悪さで仰向けになった亀のように暴れる二人、その様子を観察している時間が何よりも幸福を感じる。苦しめ、もっと苦しむと良い…と邪悪な笑みを浮かべながら朝が来た事を伝えてみる。当然返事は無く苦しみに喘いでいる様なので隣室の二人も同様に起こしてあげる事にした
入り口には何も散らかっていないが最悪なのは机の上に置かれた数枚のカード、これはホテルの有料チャンネルを視聴するために必要な一枚千円の魔法のカード。酔った勢いとはいえ複数枚買う物でも無いだろう…ていうか服じゃなくて下着が散乱している事からこいつら全裸じゃね…?という疑惑が。してないよな?何もいかがわしい事は行われてないよな…?
最悪の事態を想像してしまいとんでもない動悸に襲われ布団を捲る事も怖かったが、二人の直接的な関係者であるイズミは事も無げに二人の布団を剥ぐとしっかり寝間着を着ていた事に一安心…こんな所で大田さんに新しい扉を開かれてはたまったものではなかったし、二人の事を一ミリも信用していなかった自分をいっそ清々しく思った。何はともあれ一応シェイクはしておいた
「おはようございます」
「・・・」
あれからしばらくして皆には俺達の部屋に集まって貰ったがどうやら朝から不機嫌らしい、低血圧なのか二日酔いなのかは分からないがご自愛ください。今日のスケジュールを告げると各々で行ってみたい店をリストアップして貰い一軒ずつ巡ってみようと提案する。最終的にこのホテルまで戻ってくるために遠い場所から徐々に潰していき、満腹感と酔いの合わせ技で最終的には死んだように眠るという算段だ。旅行ならではの無茶苦茶な企画に年寄りたちは内臓との対話を試みている様だ…こうはなりたくないなと心の底から思った
まだ余力は残されていると返事が来たのか、それともまだ自分が若いと勘違いしているのかは分からないが全会一致で可決とされた。そうと決まれば早速迎え酒を嗜む一同は空きっ腹にアルコールが染みるのだろう、喉の奥から唸り声にも似た声を上げ旅行用のパンフレットに視線を落とす姿は競馬場のおっさんかと思ってしまうくらいくたびれて見えた
やはり海鮮は欠かせないだろうと早々に海鮮居酒屋を抑え、昼はイズミの希望通りジンギスカン。夕方から夜にかけてはどこか落ち着いて飲める場所を探し、夜になれば正常な判断なんか出来ないだろうからその場のノリや俺とイズミに任せると投げやりになっている。とにかく飲みたくて仕方が無いのは俺も同じなのでじゃあそんな感じで…と会議もそこそこにホテルを出る支度をした。
警察のお世話にならなければいいが…と最悪の事態も想定しつつ動かなければならない。第一に大人と飲み歩く時に考える事ではないがこいつらをまともな大人だと思った事は一度も無いので、最悪トカゲの尻尾切りをする準備だけはしておこうとイズミと二人で相談しておいた
何事も無く東京に帰る事が出来ればいいが…そればかりは神のみぞ知るというか、俺とイズミだけは大丈夫という安心感から深く考える事はしなかった…
つづく!!




