第九十九話 如月前線北上中 -前編-
北海道への便に間に合うように余裕を持って家を出た如月兄妹は全員が集合しているという神田朝陽の家へと向かっていた。もしかしたら昨日も酒盛りなんかをしていた場合に道中で飲み物を買うかもしれないと考えると、到着がギリギリだった場合面倒な事になりそうで計画的な行動を好む大我も珍しくルーズなスケジュールを作成していた。
いざ神田家の前に到着してみると誰一人姿を見せない。連絡してみても返事なんかある訳も無く…最悪な想像が頭をよぎるが、どうか神様と祈りながら二人は神田家のインターフォンを鳴らした。
中からは物音一つ返ってくる事は無く、この家の中にはコミュニケーションを図る事の出来る生命体が存在していない事を暗に示していた。それが犬や猫の場合もあれば、もっと現実的な事を考えると…目の覚めていない眠ったままの人間なんかもそこに含まれるだろうか?
もの凄い勢いでインターフォンを連打し扉をガンガンと叩きまくる。これで起きてくれれば苦労はない、更には四名の携帯に満遍なく電話をかけ続け誰かが反応して起きてくれる事を期待する。大我達にはそれしか選択肢が残されていないのだ
この家に住んでいたイズミならどうにか打開策を…とも考えていたのだが鍵っ子だった学生時代ならまだしも、別居してしまっている娘の為に予備の鍵をどこかに隠しておくほど流石の朝陽さんもバカではなかったらしく…もう手詰まりの所まで来てしまい、いよいよ神に祈りながら同じ事を繰り返すしかなかった
その時、微かだが中から物音がして俺達が発するサインも激しさを増した。近隣の住民たちは借金取りでも来たのかと勘違いするだろう、こちとら時間とチケット代に加えホテルの予約まで取っているのだから、借金取りと言われてもそれほど的外れではないのだ。とにかく誰でも良い気付いてくれ!その願いが届いたのか扉の向こうからいかにも体調の悪そうな大田さんが顔だけこちらに覗かせた
「なんですか…警察呼びますよ…」
「警察呼びたいのはこっちの方だよ! 生きてんなら早く支度して出て来いよ!!」
「うるさいなぁ…まだ朝じゃないですかぁ…」
「もう朝なんだよ! 一体何時まで飲み会してたんだこの馬鹿どもは!!」
俺の大声で次第に意識がハッキリして来たのか、それともイズミを視界に捉えた事で覚醒したか大田さんの目にみるみる生気が宿って来た。と、ともにみるみる顔は青ざめていき…
「あの…今何時ですか…?」
「あと三十分で飛行機出るぞ!! とにかくここ開けてあいつらも起こせ!!」
アメリカの特殊部隊みたいにドアをぶち破り部屋の中に突入すると、それはもう凄惨な有様で漫画の様に一升瓶を抱えて寝ているカガリ、またもやほぼ全裸の様相で寝転がっている晴香、なぜかキッチリ自分の部屋で寝ている朝陽さんが気持ち良さそうに眠っていた。まさかここまで人間として終わっているとは思わなかった…もしも俺が予定通りに家を出ていたらどうなっていた事だろう?そんな事を考えるよりも今はこいつらを叩き起こす事が先決だろう
「起きろキサマらあああ!! 殺すぞおおおおお!!!!」
「たたた、大変だー!! 朝陽さん!! カガリさーん!!」
「んむぅ…ふがふが…」
「おいイズミ!! こいつらに水ぶっかけろ!!」
「分かったわ」
容赦なく晴香やカガリの顔面にコップ一杯の水をぶっかけるとようやく二人は現実世界に帰ってきたようだが、それでもまだ状況は掴めていないようだ。とにかく車に乗る様に怒鳴ると近くにあった荷物らしきものを持たせると半ば放り込む様に車の中へ押し込んだ。後は朝陽さんだけだが…なんと朝陽さんは枕元に今日の荷物を、そして布団の横には今日の着ていく服までしっかり用意していたらしく、ここまで周到なのに何で目覚ましだけは掛けなかったんだろうか?今日もまた朝陽さんの事が分からなくなる
大田さんに起こされた朝陽さんはなぜか冷静で、はいはい今行きますよ。と支度していた物を持って車の中へと乗り込んだ。大田さんには上半身裸の晴香の服と、パンツ丸見えのカガリに履かせるズボンを持たせて同様に車へ…何を考えてるのか説教の一つでもしてやりたいところだが、こんな状態の奴等に何を言っても響かないだろうと現地に到着するまでこの怒りは胸に秘めておく事にした…
空港に到着すると残り五分で飛行機は離陸するという、まだ昨日の酒が残っているのかボーっと俺達の後をついて来るだけの晴香とカガリを朝陽さんと大田さんに任せ、俺達は手続きを済ませに行く。不備が無ければ何とか間に合いそうだが…こういう時には得てして何か問題が起こる物だ。それを先程までのアイツらが身をもって証明しているのだから、まだまだ気を抜く事無く神経を張り詰めながら事に当たる
まずは金属探知機に引っかかりそうな物を頭の中でリストアップすると晴香のしているベルトなんかは今すぐにでも外さねばならないし、カガリも厳密には分からないが体のどこかになんか金属を持っていそうだし…考えれば考える程余計にあの無駄な時間が悔やまれる。イライラしている俺を見て空港のスタッフは勘違いしたのか少し表情に余裕が感じられなくなっている。まぁ急いでくれる分には御の字だが、事情が事情なだけに申し訳なさの方が上回る
空港のゲートを通る前に晴香のベルトを外し、セルフでカガリのボディーチェックを済ませると問題なくゲートを通る事が出来た。やはり備えあれば憂いなしだ、かもしれない運転でなんとか最大のピンチは乗り切る事が出来たと言えよう…
ビー! ビー!
嫌な予感がした…頼むから全員通り過ぎていてくれ…そんな願いも空しく不思議そうな表情で身柄を拘束されている朝陽さんに駆け寄ると、別室に連れていかれる手間を惜しんだ俺はまたしてもセルフボディーチェックを済ませ、朝陽さんの胸元に埋まっていたシルバーのアクセを取り出す事に成功した。無駄な脂肪に包まれて老化の影響で感覚も鈍くなっているんだろう、またいつもの様に卑猥な事でも考えているのかNTRを終えた人妻の様な視線で俺の事を睨んでいる。元はと言えばお前らのせいだろう、と喉元まで出かかった言葉を俺は必死に飲み込んだ
酷い二日酔いのままバタバタと走り回った反動か四人の顔色はもう土気色になり、もう搭乗目前まで迫っているにも関わらずその足取りは鉛の様に重たい。引き摺ってでも機内まで入れてしまえばこっちの物なので本人たちの意思など関係なく抱えながら全力で走った…そしてようやくミッションコンプリート、北海道へと旅立つ飛行機に間に合わせる事が出来たのだ
なんという疲労感、これだけでもう帰りたい。今から行くというのにこんな日がこれからも続くのか…という陰鬱な気持ちが俺の胸中を埋め尽くす
そしてその杞憂を現実のものとするのが俺達の後ろに存在している奴等な訳で…まだ離陸もしていないのにエチケット袋の中に酒臭い嘔吐物を巻き散らし続ける迷惑な乗客に、他人のフリをしながら顔を逸らすので精いっぱいだった。せっかく匂いに気遣って持って来たイズミの機内食は意味をなさなかったが、自分の隣がイズミで心の底から良かったと思う。
このままどこか二人で逃げてしまいたいと思う程に恥ずかしかったが、それを許さんとするこの鉄の塊は無慈悲にも逃げ場のない空の旅へと我々を連れ去るのだった…
無駄だとは分かっていても、どうか現地では俺の手を煩わせないでくれと再三三度、神に祈りを捧げた




