瞬きの先 3
「金森さん!」
廊下に飛び出してみれば、誰かに馬乗りになる佐藤瑠夏が見えた。
「アンタ! 何してんの! 降りなさい」
ミツエが厳しい声を出すと、ゆっくりと振り返った美晴が笑った。視線はひたと私に据えられている。
「あみ先生。持ってきてくれた? 調べ物。カズトがまだあそこに住んでるのかどうかーー」
うわあん! と高く大きな泣き声が美晴の下から響く。馬乗りになられているのは、前世が丁稚の畑中 惣太だった。
よく見れば美晴の手は惣太の耳に当てられていて、その手にはーー。
「か、なもりさん。ハサミを離して」
笑えるほど震えてかすれた声だった。
握った小さな手からはみ出たハサミの先端は、間違いなく惣太の耳の中に吸い込まれている。
あのまま思い切り突き立てたら、子どもの力でも大怪我は免れられないだろう。先端の丸い子ども用のハサミではまさか脳までは至らないとは思うが、耳は急所だ。
「……どういうつもり。男の話を聞いて、どうすんの」
先ほどよりはずいぶん落としたトーンでミツエが問いかける。じり、と彼女の足がずれたのを見遣り、美晴が冷たく応えた。
「オバサン。動いたら、グサッだよ」
あんたも動かないでよね、と頭上から言われた惣太が、うわあ、と再度泣き声を上げた。
覚醒前の子どもなら、訳もわからずパニックになってもっと暴れただろうから、丁稚とはいえ前世を思い出している子どもで良かったのかもしれない。
「ねえ、あみ先生。どうしてあたしたちはここに集められてるの? どうしてここを出たら忘れちゃうの。せっかく思い出したなら覚えてたいよ」
美晴の視線はこちらを向いているが、どこか宙を彷徨うように覚束ない。
せめて神谷か仄里を呼びたいが、下手に動いて刺激してしまえばどうなるかわからないので、ミツエも私も縫いとめられたように身動きできない。
「それは……」
「のんのんの木があるからよ」
私が言い淀むのにかぶせて、どこか吐き捨てるようにミツエが言う。
「あの木は、前世を呼び覚ます木だから、園の敷地ーー木の領域に入れば前世を思い出す。子どもは前世に近いから引きずられやすいってだけよ」
初めて聞く話だった。
仄里が何か良くわからない直感なのか超能力なのかで、前世持ちの子どもを識別して入園させているものだと思っていたのだ。
あの、なんだか気味の悪い楠が、そんな得体の知れないものだったなんて。
「へえ。じゃあ、あの木の枝でも持って出たら、忘れずにいられるかな」
嬉しそうに美晴が瞬きをした。対するミツエ応えは、否。
「やってごらんなさいよ、折れないから。アンタ程度の小娘が考えられることを、今まで誰も考えつかなかったとでも思うわけ」
「……ふうん。じゃあやっぱり、誰かに助けてもらうしかないのか」
残念そうに唇をとがらせて、美晴がつぶやく。私を振り仰いだ瞳には、苦しくなるほどの願いが見えた。
どうしてそこまで、と腹の底が熱くなる。そんな思いをしてまで、せっかく新しい人生を始めてなお、あんな男に何を捧げたいというのか。
聞けば聞くほど最低の男。美晴は直向きで良い子なのに、彼女を暴力と甘言で洗脳して支配して、殺してしまったクズ。
「ねえ、あみ先生。あたしもうすぐ消えちゃうんでしょ? 一番長かった子で一ヶ月半くらい。あたしは明日で丸一ヶ月。もう時間がないの。ただカズトがどうしてるのかーーあたしは気にしてないよって言いたいだけなの」
「あんなの、ただのDV男でしょ! 金森さんのこと、少し優しくすれば思い通りになると思ってたから、物に当たるみたいに傷つけてーー」
やめなさい、とミツエに腕をつかまれたが、堰を切って溢れ出したことばは止まらない。
「金森さんがそんなことしてまでその男に会う価値ーー」
「あんたに、何がわかるのよ!!」
悲鳴のような叫びと同時に額に痛みが走る。ハサミを投げつけられた、と理解した時には、ぬるりと生温かい感触を指に感じた。
「カズトはねえ! あたしにとってすべてだった。仕事でつらい時も、友達にそっぽ向かれても、カズトだけはあたしが必要だって泣いてくれた! あんたにわかる? 大事な人と今こうして離れてて、あたしはもうすぐまた消えちゃうんだって怖さが!」
わからない。
咄嗟に浮かんだのはそれだった。
美晴のように、血を吐くようなつらい思いをしながら誰かを愛したこともない。よくわからないうちに命を失い、よくわからず戻り、また消えていく理不尽さも、ふわふわとした想像の域を出ない。
錆びの香りが口元へ流れてくる。痛みはほとんど感じないが、深く切れたのかも知れない。
美晴の視線は私の顔にそそがれていて、ひどく怯えたようなーー痛みを堪えるようだった。
一登に会いたかったからとはいえ、美晴は人を傷つけて平気でいられるタイプではない。私の傷を見て、誰より今動揺しているはずだ。
なのに、どうして。
どうしてそこまでして。
「……私、今ハゲができてて……」
「は?」
ハンカチで乱雑に私の顔を拭っていたミツエがぎょっと目をむく。
「全然……金森さんの苦しさも、想像することしかできなくて、ハゲるほど悩んでも……今も、これからも何ができるんだって言われたら何もできないんだけど……」
一登は本当に碌でもないクズだと思う。
六年前の冬、一登は酒に酔って美晴をしたたかに殴り、浴室へ美晴を放り出し眠った。起きてから冷たくなった彼女を見つけて、慌てて逃走しーー彼女の銀行口座から現金を引き出そうとしたところを捕まったあたり、救いようのないクズだと思う。そんなクズに献身して、命までささげてしまった美晴も、どうしようもないのかもしれない。でも。
「金森さんが、羨ましいと思う。そんなに一人のことを思って、戻ってきてからも思い続けて……そんな風に誰かを思えることがすごいし、思われる人が羨ましいと思う。でも……こんなことはしてほしくない。一登は俺のためにって喜ぶかもしれないけど、私は嫌だよ」
「…………」
美晴が、惣太の首根っこを掴んでいた手をゆっくりと外し、そのまま顔を覆う。
「……まだ、消えたくないの」
それに返せることばは、どうやっても見つけられなかった。