瞬きの先 2
え? ああ。これはフォークでぐさっとね。穴が四つあいてんの。あはは! 見た目ほど痛くないよ、血もあんまり出なかったし。
ちょっと仕事がうまくいかないときとか、あたしが部屋を片付けてなかったときとかに、時々ね。
……うん、まあ、嫌だけど。本当は優しい人だって知ってるし、落ち着くといつもごめんって泣きながら謝るんだよね。それ見ちゃうとね。あー、一番辛いのは彼なんだよなって。
え? そういえばそんなこともあったね。仕方ないよ、ごはん食べながら泣いたあたしが悪かったんだし。確かに目の前に泣く女がいたらメシマズだよねぇって思うし。割れちゃったお皿はお気に入りだったから、それは悲しかったかなぁ。
やだなあ、なんであみ先生がそんな顔するの? うーん、でもさ。あたしみたいなのと付き合ってくれて、ゆくゆくは結婚しようなんて言ってくれるのは、カズトくらいしかいないんだよね。全然友達もわかってくれなくて、気づいたら気軽にお茶したりできる子はいなくなっちゃった。
あは! 大丈夫大丈夫。カズトもそういうの嫌がってたし、ちょうどいいの。あたしは彼がいないと生きていけない。彼も……同じ。だからいいんだ。
ーーーーーーーーーー
微笑みながら、彼女にしか見えない傷を撫でていた佐藤瑠夏が、意識の浮上とともに消えた。
一瞬、自分がどこにいるかわからず身じろぐが、すぐに慣れ親しんだ寝具の匂いがして、ほっと息を吐く。
霞む目で見たカーテンの向こうは、まだ暗い。
そのまま首をめぐらせて壁の時計を見れば、午前四時をまわったところ。起きてしまうには早すぎるが、二度寝を決め込む気分にはなれなかった。
初めて私が受け持った覚醒ケース。佐藤瑠夏の前世は、金森 美晴という私と同い年で亡くなった女性だった。
美晴は、今から三十年前に関東地方で生まれた。ごく普通の家庭で育ち、就職とともに実家を離れて暮らし始めたそうだ。
友人の紹介で知り合った北村 一登と付き合い始め、ほどなく美晴の部屋へ一登が転がり込む形で同棲が始まった。
記憶にある限り、はじまりはごく小さなものだったという。軽く頭をはたかれたーーそれは学生同士がじゃれあって叩き合うような親愛のふれあいともいえるようなーーそんなものだった。
やだなあ、痛いじゃない。冗談めかしてそう言えば、ごめんごめんと一登も笑いながら応じてくれた。
だが、一年が過ぎる頃には、美晴の身体には生傷が絶えなくなった。青痣が黄色や黄緑になる頃には、また新しい青痣が違うところにできた。
誤解しないで、と美晴は何度も言っていたが、一登が理由なく手を上げることは一度もなかったそうだ。
理由があれば殴っていい理屈なんてないでしょ。間髪入れず切り返した私に、美晴は笑ったのだ。そう言われれば、そうかもなぁ、と。
きっとそんなつもりはなかったのに、自分が死んでしまって、一登はどうなったのだろう。まさか傷害とか過失致死とか、罪に問われたりしてないか。
最初はごく小さなつぶやきだったのに、それは次第に一登の現状を知りたいという懇願へ変わっていっていた。
まずいところまで来ているーー。そう気づく頃には私の気持ちはすっかり美晴へと傾いていて、その上最悪なことに、ほのさと保育園の職員とは今ほどに関係ができていなかった。
「あ、返して下さい!」
「……これ、なに?」
オレンジの髪の下からのぞく、たっぷりのマスカラで縁取られた瞳にぎょろりと睨まれて、思わず肩が跳ねた。
ミツエの手には、私ができる限り調べた美晴の情報をまとめた紙が握られている。美晴が亡くなってから六年経過しているためか、めぼしいものは多くないが、当時の新聞記事、真偽の怪しいインターネット掲示板、思いつく限り探してやっとのことまとめたものだ。
「没収」
「あっ!」
止める間もなく、びり、と嫌な音がした。
何時間もかけてまとめた紙がびりびりと無惨に紙片へと変えられる。
何をする、と抗議しようとしたところ、隣の席から強い眼差しが飛んできた。
「新田屋ちゃん、ルール覚えてるの?」
「……前世の話は持ち出し禁止、外からの持ち込みも禁止……」
よくできました、と言いながら、ミツエが私たちの間に置かれた屑入れの上で手を叩く。紙片が大粒の雪のように舞い落ちる。
「んで、なんでそんなルールがあるかは、わかってるの?」
「それは……やっぱり奇妙な目で見られたり、ご家族のこともあったりするから」
私だって、この目で実際覚醒者を見てもにわかには信じられなかった。
虚言、妄言……もしくは新手の詐欺か宗教か。そんな疑いが晴れたのは、美晴も一登も確かに実在していると自分の手で確かめたからに他ならない。
「まあ、それもあるけどね。もーちょっと想像しなさいよ。アンタが死んで生まれ変わったら、もとの家族とかカレシとか、どうしてるか気になるわね」
ミツエのことばに頷く。美晴の願いがまさにそれだ。自分の死はどう処理されたのか、今一登がどうしているのか。
美晴が亡くなったのが二十四歳、たった六年前のことだ。前世として処理するには、あまりに最近すぎる。
「そんで、知ったとしてよ。さらに欲が出ないって言える? アンタが死んで仏壇前で毎日泣いてる親にここにいるよって言いたくならない? カレシがアンタの友達とくっついてたら、文句の一つも言いたくならない? ぜーんぜん違う人間がアンタを殺したことになっててムショ入りしてたら、違いますぅって言いたくならない?」
「そ……れは」
言いたくなるだろう。自分が退場することで空いた穴がどうなったのか。知ればさらに欲が出てーーそして?
「ここを一歩出れば、前世の記憶はパッと消えちゃうけど、外へ持ち出す裏技はいくらでもあるからね。アンタみたいなピヨピヨをそそのかして情報を集めてーーたとえば手紙を書くとか」
「……そんな、だって瑠夏に切手を用意したりは」
「切手を貼らずに出せば、差出人に戻されるか受取人に不足分が請求されるでしょうねぇ。つまり両方に、届けたい住所を書けばいいのよね。瑠夏を動かすことが難しそうなら、門をくぐる前に母親に頼んでしまうこともアリよね」
だって、器は幼児でも中身は大人だからいくらでも考えられるわよ、と。
異世界や江戸時代などの前世なら、たいした問題にはならない。なにせ持っている知識や常識がそもそも通用しないから。外と関わろうとしても限界はあるし、関われたとしても子どものかわいいごっこ遊びで終わるだろう。
だが美晴のように現代の、それもごく最近の前世となるとまずい。
「わ、私はただ彼女の願いを叶えることで心置きなく消えていけるならと……」
「いーい? 新田屋ちゃん。人ってのは煩悩の塊なわけ。心置きなく死ねる人間なんて、どんだけいると思ってんのよ」
ごそごそとミツエがカバンをあさり、スティックタイプの羊羹を取り出す。つややかな小豆の写真が、照明でさらに鮮やかに光った。
「ここでできるのは、それぞれが過去を受け入れて今を生きるお手伝い。約一ヶ月のタイムリミットの中で、話を聞いてやったり整理してやったりがせいぜいよ。……それ以上は職分を超えていると弁えなさい」
ぐい、と押し付けられた羊羹に礼を言おうと口を開けたときだった。
きゃあ、と高い子どもの悲鳴が響いたのだ。