瞬きの先 1
『それでも、私は私のできることをやりたいと思うので』
くだらないことでうだうだ悩むくせに、あきらめなくて。
信じてくれる人のために頑張りたいとか、いい歳して青春かよ。
所詮お前に何ができる。何かしてやったような気になって、お前が満足したいだけだろ。
いつもならへらへら笑って流せることが、今日は無性に許せない。
ゆっくり六秒数えてから、頬に軽く手を当て、口角が上がっていることを確認する。
頭の中が青臭い花畑の新田屋や、甘いものにしか興味のないミツエはともかく、仄里や二階堂は目敏い。下手に詮索されるのは面倒だから、いつも通りを装わなければ。
「……ほんと、イラつくな」
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「先生、おはようございます」
「おはようございますーー瑠夏さん」
後ろから声をかけられ、振り返りながら挨拶を返す。声から判断した通り、佐藤瑠夏とその母が立っていた。
「先生……あの、ちょっとよろしいでしょうか」
「これから出席確認なので……少しなら」
恐縮した様子ながらも、否とは言いにくい雰囲気で話しかけてきた佐藤母は、たしか四十を少し過ぎた頃だったか。年齢に見合った落ち着いたスーツ。ベースメイクはしっかりめに、アイメイクはベージュゴールドでまとめている。ゆるりと下された髪の先まで計算され尽くしたような格好だった。
「あの、瑠夏の……まばたきのことなんですけど……他の子に指摘されて傷ついたり、本人が苦しんでいる様子はないですか?」
瑠夏が教室へ入るのを見送ってから、佐藤母が口を開いた。きちんと梳かされて結われた瑠夏の髪が左右に揺れながらままごとコーナーへ消えていく。
「今のところ、そういった様子はありませんよ。何かご家庭で変わったことでもありましたか?」
またかよ、この間もご説明差し上げましたけどねぇ、というセリフは素早くぴっちり蓋をして仕舞う。
何事も真面目、神経質、融通がきかない。そんな特徴が服を着ているのが佐藤母だ。
もともと佐藤瑠夏は新田屋のぱんだ組にいた。前世は二十代の商社勤めの独身女性。本人が言うには、ごく普通のOLだったそうだが、死因が付き合っていた男のDVだというから、普通とは言い難いだろう。
瑠夏の覚醒時は、もう思い出したくもないほどの騒動になった。
なにせ担任である新田屋はほのさと保育園に来たばかり。瑠夏は苛烈な暴力で命を落とした前世持ちだったのに、下手を打った新田屋のせいでぱんだ組は崩壊寸前。覚醒前の子どもの口伝えで一部の保護者にも騒動が伝わってしまったのだ。
火消しには仄里が奔走することになったし、神谷や二階堂も駆り出されることになった。
本来なら、新任の新田屋が前世組を受け持つことがまずあり得ない。通常の保育業務に加えて覚醒者の対応までしなければならないのだ。だが、仄里は問題ないの一点張りで、今年度はまさに異例のクラス配置だった。
仄里は新田屋のフォローに関してねぎらいはしてくれるものの、そんなものが欲しいわけではない。好みのタイプの女子にねぎらわれ慕われるなら頑張りがいもあるが、がっちりのおっさんに頼りにされてもあまり嬉しくはない。
こちらに面倒ごとがまわってこないようにしっかりやってくれや、と新田屋には思う。
思いはするものの、そこを助けてやる義理はないのだ。
むしろ、うまくいかない経験をつんで、早く退場してほしい、などという思惑もあったりする。
「いえ……その、特にこれということはないのですけれど」
「でしたら、お母さんの不安は瑠夏さんにも伝わってしまうので、あまりチックにばかり目を向けず、ゆったりと構える方が良いと思いますよ」
治療法も薬もないんだからさ、とは口に出さない。
話半分で聞き流しながら、あんたもこのくらいの適当さで生きていければ楽なのにな、と思いながら笑った。
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「ゆう先生、部屋の掃除終わりました」
明日の製作の準備をしていると、樺山から声をかけられた。
掃き掃除、モップがけ、おもちゃの消毒と毎日行う一通りの仕事に、神谷たちであれば一時間程度かかる。壁の時計を確認すれば、取り掛かってから一時間半は経っている。
どうせ家の掃除も碌にしたことがない実家暮らしの実習生にしてはマシだと考えるのか、どうか。
「丁寧にやって時間がかかることと、効率が悪いことは同じじゃないからね」
言われた意味がわからなかったのだろう。ぽかんと口を開け、樺山がやにわに羞恥に頬を染めた。すみません、を繰り返す樺山に微笑み、休憩をとるよう促す。
ぼんやりと教室を出る背中を見送っていると、こあら組との共用である洗面所から声をかけられた。
「神谷、体調でも悪いのか」
「別に、なんともないっすよ」
「実習生への当たりが強い。それと、朝礼のとき新田屋のことを睨んでなかったか」
二階堂の指摘に内心汗が出た。
新田屋への苛立ちを悟られないよう気をつけたつもりが、甘かったらしい。実習生への当たりの強さも、自覚はなかった。
「……やだなあ、睨んでなんかないっすよ。ただ、抱え切れるんかなって気になっただけで」
すでにこじれ始めている覚醒者二名。そこにさらに一名関係者が増える。海千山千のミツエならばともかく、新田屋が対応し切れるとは思えない。
「そのための、私たちのフォローだからな」
「……」
ほのさと保育園はその特性上、関わる人間が最小限で済むようになっている。そのため、仄里が抱える仕事は多岐にわたる。次長として仄里を補佐する二階堂も同じだ。新田屋のフォローなどする暇があるのか。
「なんつーか、れい先生はあみ先生のこと買いすぎじゃないっすかね」
いつもだったら口にしなかった皮肉がするりとこぼれた。
しまったと思った時にはもう遅い。この言い方では、まるで自分が構ってもらえないと拗ねる小僧のようではないか。
「そうだな……。機会があれば聞いてみたらいい。だが少なくとも、いい加減な振りをしているよりも、新田屋のようにぶつかるほうが、精神衛生上良い気がするがな」
「……っ」
ひらり、と手を振り踵を返す二階堂の背中は、それ以上何も言わなかった。