西班牙6
「侑芽! ごめんね、遅くなって」
ばたばたと多田母が、足早に廊下をかけてきた。
多田母をここまで送ってきたのだろう、後ろには二階堂がいたが、私と目が合うと軽く頷き、そのまま戻って行く。
すみません、こんな遅くまで、と私に詫びながら侑芽の顔を見た多田母が、ぎょっと目を見開く。
「やだ、泣いてたの? そんなにママが遅かったのが悲しかった?」
侑芽の顔は、先程きれいに洗って拭きはしたものの、赤くなった目も腫れた瞼もいかにも泣きました、というものだ。
「……うん。もう、大丈夫。あみ先生がお話聞いてくれたから」
「……侑芽ちゃん、一生懸命頑張ったんですよ」
前世も今も、こんなに高潔にいられるのは、間違いなく彼女の頑張りだ。誰も理解してくれなくても毅然と顔を上げていたい、という彼女の想いが痛いほど伝わる。
アドルフォが気づかなくても、彼女の前世を知らない多田母が気づかなくても、せめて私だけは返したい。
「ちゃんと見ていましたよ。みんなのことを考えて本当に頑張ったって」
礼を言いながら扉を出て行く母のうしろ、侑芽が振り返る。晴れやかな、でもどこか悲しい大人びた笑顔で。
「あみ先生、ありがとう。……さようなら」
「……はい。さようなら」
ーーーーーーーーーー
「結局、そのアドルフォという領主の息子がダメ男だったということか」
「そう言ってしまうと身も蓋もないんですけど」
二階堂のこあら組に顔を出すと、部屋の隅にキルトマットを敷いてくれた。
有り難く上靴を脱ぎ、マットの上に体操座りして、顔をうずめる。行儀が良くないなと思いながらも、頭が重くて仕方がない。
ぐるぐる、見たこともない三人の顔が浮かんでは消える。
「アドルフォのお父さんは、カロリーナと結婚したい、っていう彼の気持ちは否定しなかったけど、そのためにどう彼が動くのかを黙って見てたんですよね」
「まあ、あれがしたいこれが欲しいと言うだけなら、寝言でも言えるからな」
田舎領主とはいえ、貴族。爵位を持たなくても、クリスティアナの家のようにうなるほどの財と国中に知られる名があれば、さほど問題はない。実際二人の結婚はとんとん拍子で進んだそうだし。
だがカロリーナは、平民。持参金も、未来の領主夫人としての教養も、女主人として家を切り盛りする力も、社交界を渡り歩ける人脈も、何も持たない。
「クリスティアナが言うには、抜け道はあったようなんですけど、アドルフォはそれには気づかなかったし、カロリーナはクリスティアナの話から現実を知って追い詰められていったみたいですね」
実際、次期領主であるアドルフォが動かなければ、カロリーナの嫁入りは叶うはずもない。アドルフォはといえば、仕事さえちゃんとして、ごねつづければ父親が折れると思っていたあたり、随分とおめでたい。
クリスティアナは、婚約話を聞いて動揺するカロリーナと何度も話をしながら奔走しーー現領主の思惑と、抜け道に気づいた。
そこでクリスティアナの足が止まる。
今ここで力を尽くして間に合ったとして、それは本当に二人のためになるのか。カロリーナにはこの先の道を歩む覚悟が果たしてもてるのか。
形だけ整えアドルフォに嫁いだとしてーーカロリーナはこれから貴族社会の中で差別と侮蔑にまみれながら、優雅に微笑むことができるだろうか。
アドルフォはあてにならない。現に未だに領地で起きていることに気付きもしないのだから。
愛している、君だけだ、もう少しで一緒になれるーー。もうそんな愛のことばさえも、カロリーナの首をじわじわと締めていることに気付けないのだ。
もう一度話をしよう、と約束していた朝。カロリーナは炉に半身を突っ込むような形でーー一酸化炭素中毒だったのかーー絶命していた。
煤けた前掛けのポケットには、誰に何がとは触れない詫びのことばと、皆の幸せへの祈りが記された手紙が入っていた。
「抜け道とは? 鍛冶屋の娘が領主夫人になるのは、茨の道どころではないと思うが」
「当時アドルフォは父親から任されて、隣の領地との境で干拓事業をしていたそうです。隣の領地よりも多くの技術者を持っていて、クリスティアナの家が資金提供も惜しみなく行った。アドルフォとしては自分の手腕を父親に認めてもらったと思ったようですが……」
そこでアドルフォはさらに動かねばならなかった。こちらにおんぶに抱っこの形になった隣の領主に働きかけ、カロリーナの身元引受先を探す、彼女に教育を施してくれる教師を探すーー。
何より前にカロリーナとその父に茨の道を共に歩む覚悟を決めてもらうことをしなければならなかった。
「よそから見れば、力の不足した青二才が豪商に助けられた……その結果、豪商の娘との婚姻が結ばれた、ということだな」
二階堂が皮肉げに口の端を上げた。
息子の、領主としての器に不安があった現領主。
娘を、利のある家へ嫁がせた後も、なるべく病弱な妻の近くに置きたい豪商。
互いのメリットはうまくかちあって、置き去りになったのはただ、若い三人の気持ち。
「クリスティアナは、孤立無援で……。幼なじみを死に追いやって領主夫人に収まった悪者にされて。亡くなったカロリーナが一番の被害者といえばそうなんですけど……。今も黙ってひとりで消えていこうとしているのを見てたらなんか」
うぐ、と喉が詰まる。
何が、死に追いやってひとごとのように、だ。
誰が殺したかは、今世でもアドルフォには永遠にわからないだろう。クリスティアナがただ一人、口をつぐんで消えていこうとしているのだから。
ーーやるせない。悔しい。
「また、ハゲるぞ」
「それは、やです」
シュッ、と箱ごとティッシュが床を滑ってきた。顔をあげないまま、一枚つまんで目元を強くおさえる。
「もしものときは、こあら組でしっかり癒すさ。あとは任せろ」
「……はい。ありがとうございます」
関係者以外の私に泣く資格などないのに、と思いながら、二階堂の男前な優しさにティッシュが次々ダメになった。
ーー願わくは、どうか。
クリスティアナが望んだ幼馴染二人の幸せを。
そして、クリスティアナ自身にも安らかな眠りと幸せを。
西班牙編はこれで終わりです。
次のエピソードまで、お待ちください。
お読みいただき、ありがとうございます。