西班牙5
「峻平くんが仲良くしてくれるみたいで、娘も喜んで登園できてるんです」
にこにこと鮫島母が言うのに、良かったですねぇと相槌を打つ。
予想していた通り、アドルフォはすぐに美月がカロリーナの記憶を持つことに気づいた。恋人同士だったというし、まさか無体はしまい、と口は出さずに様子を見ていれば、ほぼ美月についてまわりながらかいがいしく世話を焼き、今ではすっかり小さなカップルだ。
美月はカロリーナの記憶はあるものの、あくまでも情報としてもっているだけだ。それでも峻平が親切にして構ってくれることは嬉しいようで、口をひらけばシュンくんシュンくん、だ。
峻平も、侑芽を捕まえて過去をほじくり返すより、今の小さな恋人と仲を深める方が大事なのだろう。話し合いの場を設ける、と言った私のことばもすっかり抜け落ちている様子で、私に近寄っても来ない。
「……クリスティアナさんは、しんどそうだけどねぇ」
保護者の迎えを待つ子どもたちの中に、ぼんやりと空を見つめる侑芽がいる。
私の視線に気づいたのか、一瞬身体を強張らせた後、何事もなかったかのように視線を逸らし、隣の子どもに話しかける。
こっちに来てくれるな、という雰囲気が満載だ。
どうしたもんだか、と悩んでいると、壁の内線電話が鳴った。
「はーい。ぱんだ組、新田屋です」
『仄里だ。多田侑芽の母から、車がパンクして迎えに遅れると連絡があった』
「……なるほど。ありがとうございます。大事に時間使います」
受話器を置く直前に、任せた、と言ってくれた仄里に、なんとか報いたいーー。
振り向いた私を見つめる#侑芽__クリスティアナ__#の目には、悲しいあきらめが映るようだった。
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ふう、と手元のココアに息を吹きかける仕草は、子どもそのもの。だが、どこか芝居じみて見えるのは、私が穿った見方をしているからか。
「さっき確認したところ、アドルフォさんは、随分混濁が起きているようで。美月さんに惹かれるのが峻平くんとしてなのか、アドルフォさんとしてなのか、よくわからなくなってるようです」
ココアは他の子には内緒ですよ、と口止めしてから言うと、侑芽は苦く笑った。
「満たされて、忘れていけるならそれがいいと思います」
「……それで、あなたはいいんですか?」
三人の中で、おそらく一番前世に囚われているのが侑芽だ。取り乱すことも、大きく輪をはみ出ることもないが、もう限界が近いのでは、とは二階堂の見立てだ。きちんと昇華をしないと、大きな反動がきそうだぞ、と。
「カロリーナさんは、なぜ亡くなったんでしょう。病気ではなかったし、事故でもなく……、アドルフォさんは覚えていなかったみたいですし、美月ちゃんはそのあたりが曖昧みたいですね」
「思い出してはいけないと、ブレーキがかかっているんだと思います。カロリーナの死は……壮絶だったから」
あえてお天気の話でもするように軽く切り出せば、侑芽はゆるゆると長い息を吐き出した。
目の前で口を開くのは、確かに四歳の侑芽なのに、重く暗い影を背負う、ひとりの女性がそこに座って見えた。
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クリスティアナがそれと気づいたのは、自身の父親の様子からだった。妙に気がそぞろで、どことなくクリスティアナを避けているような様子もある。
極め付けは、つい数ヶ月前に仕立てたばかりだと言うのに、また王都から職人を呼びつけて新しくドレスを作れという。
クリスティアナの父は商才に優れ、たった一代でその名を国中に知られるほどの剛腕だ。その娘であるクリスティアナの身につけるものには糸目をつけるわけもないが、それにしても頻回すぎる。
これが、今季の社交シーズンにあわせて、ということならまだわかるが、今季は体調を崩した母についていたいと、社交を見送った娘になぜこれほどドレスが必要なのか。
「お母様……何か隠してらっしゃるわね?」
生地選び、デザインの打ち合わせ、細かな採寸、とドレスを作るのには長い時間がかかる。一旦休憩を、と職人が退室したところでクリスティアナは自身の母に問いかけた。
「何を、かしら?」
元々身体のあまり強くない母は、青白い顔をふわりと扇で半分隠し、目元だけで笑った。
商売だけを考えれば、王都に本拠地を置く方がいいのに、この田舎に屋敷を構えるのは、すべて病弱な母のためだ。母が緑に囲まれたのどかな地で安寧と暮らすためには、馬車で王都まで往復七日ほどかかろうとも、大したことではないーー。そう臆面もなく言い切るほどに、母は父に愛されている。
すでに父の商売の三分の一ほどを担う兄は、貴族の妻を迎え王都に屋敷を構えているから、父がどこにいようとも構わないのだ、とは本人の談だが。
「お父様が私に関係することであちこち動いていらっしゃるのは、気づいているの。……もしかしたら、縁談かしら?」
「まあ」
クリスティアナと同じ色の瞳が丸く開かれる。どの意味の、まあ、かしらと思っていると、母は笑う。
「あちらから聞いたのかしら? あなたにとっても、悪い話ではないと思うし、私としてもクリスティアナが嫁いでからも近くにいてくれるのはとても心強いわ」
「……あちら、ですって?」
ひやり、と母のことばに、嫌なものが背を走る。
王都から離れた片田舎に引っ込んで、社交も控えめにしかしていない商家の娘。そんなクリスティアナが見知った年頃の男性ーー。しかも嫁いでからも近くにいてくれる、と。
「まさか……アドルフォ?」
「あら、聞いたのではなかったの?」
無邪気に首を傾げる母に、苛立ちが湧く。
アドルフォとは幼い頃から知った仲だし、現時点で恋愛感情はないものの、人として好ましくは思っている。もし夫婦となってもうまくやれるだろう。アドルフォはやや視野が狭く思い込みが激しい面はあるが、補えないほどではない。彼が次期領主として務められるよう、支えていくだけの教養は身に付けている自負もある。
ーーだが、それはすべてカロリーナのことを抜いた場合だ。
明るく、人を疑うことを知らないカロリーナ。素直で、無邪気で、直向きで。
彼女のありように救われたことは数知れず、それはアドルフォとて同じだろう。アドルフォとクリスティアナが顔を合わせる機会は一年に何度かしかないのに対し、アドルフォとカロリーナはしょっちゅう会っていたようだ。その親密さは隠しても隠し切れるわけもなく、領民は皆知っているはずでーー。
「カロリーナは、私の親友よ」
ようやく絞りだした声は、やけに遠く聞こえた。
母の瞳は片方すがめられ、ふわりと扇が風をそよがせる。
「そうね。でも彼女もまさか、領主夫人におさまろうとは考えてはいないはずよ。アドルフォ様だって……もし、本当に妻にと思うのであれば、根回しがなさすぎるわ」
「それは……そうだけれど」
田舎領主とはいえ、国から爵位をいただいて領地領民をおさめているのだ。好きな相手がいるから結婚する、などと簡単に済む話ではないことは、アドルフォにはわかっているはずだ。
だがそれを、カロリーナがわかっているのかどうか。アドルフォから愛を囁かれ、直向きに彼を愛しーーその先に行くために何が必要か、どんな困難があるのか。それを理解できているのか。
シーズンが終わって父とアドルフォたちが戻り次第、婚約を結ぶことになるだろう、と告げる母のことばに、何と返したのかクリスティアナは覚えていない。