瞬きの先 4
泣いて震える惣太、だんまりの美晴。そして、流血した私。
騒ぎを聞きつけた仄里がその場を引き取ってくれ、私は医務室へ押し込まれた。
ハサミが当たった傷は範囲こそ広いものの、あまり深くはなかった。非常勤の看護師が丁寧に処置してくれたおかげで、大袈裟な見た目にはなっているが。
当然、そんな見た目で保護者の前に出るわけにはいかず、通常クラスを二階堂が一人で対応し、仄里と神谷でぱんだ組を対応してくれたそうだ。
帰り際に神谷に言われた、「あみセンセーはやる気の使い方考えた方がいいよね」というのは、絶対嫌味だろう。
でもそれに腹を立てることも、言い返すこともできない。
静まり返った事務所の中、秒針の音がやけに大きく聞こえる気がした。
ふと、甘い香りがして顔を上げると、コトリ、と目の前に置かれたカップから湯気が立ち上った。
「糖分、とっておけ」
ほとんどホットミルクと言ってもいい割合の、熱いカフェオレ。いただきます、と口をつければ、ほんのり蜂蜜の甘味が広がった。
「……蜂蜜なんて、キッチンにありましたっけ」
「私物だよ。さすがにミツエ先生には負けるが、糖分は大事だろ」
自分のカップを傾けながら、仄里が静かに微笑む。
壁の時計を見れば、十八時をまわったところ。神谷とミツエはすでに帰宅し、二階堂は部屋の修繕をすると言っていたため、事務所には仄里と私しかいない。
「傷は痛まないか?」
仄里が自分の眉の上あたりを指す。
こくりと頷くと、そうか、と仄里の目が細められ尻が下がった。
「……佐藤瑠夏……金森さんは、消えたくないと言っていました」
そうだな、と低く仄里の応えが返る。
なんとなく、顔を見ていられなくて視線をカップへ落とす。
たくさん言いたいことはあるのに、泡のように浮かんでは消える。どれも今の気持ちを表すには不似合いで不十分で。
最後に残ったのは、私には無理だという諦めだけ。
「あの……私やっぱり、ゆう先生が言うみたいに前世組は無理なんじゃないかって、思うんです。今回だって、ミツエ先生ならもっと……」
入職の時、神谷は最後まで私がぱんだ組を受け持つことに難色を示していた。最初こそ、なんでそこまで無理無理言うのかとプライドも傷つけられたものだが、蓋を開けてみればそれも当然だったと思う。
そもそも、なぜ仄里は私に声をかけたのか。保育士としての経験も浅い、人生経験だってつんだとは言えない、何も持たない私を。
言い切ってから顔を上げれば、仄里の眼差しをまともに受けることになった。
「悔しくないか? ここで逃げて……次は違うところへ行って、うまくいかなければ、また逃げるのもいいかもしれないが」
ぐうっ、と喉の奥が締まるような気がした。図星すぎて何も言えない。そして、そんなことばを向けながら、仄里の視線は恐ろしく優しく甘かった。
「く……やしいですよ! もっとできるようになりたいし、やっててよかったって思いたいです! でもどうすればいいかわからないし、今回だって空回ってみんなに迷惑かけて……」
「迷惑とは、考えなくて良い。そのための仲間だし上司だ。クラスを一つ任せているとは言え、それが二階堂でもミツエ先生でも、責任を一人だけに負わせるつもりはない。共有すれば良いし、頼れば良い。……それに、今回が怠慢の末に起きたことなのか、手を尽くした結果なのかは、皆わかっている」
今度こそ、ぐぅ、と喉から変な音が出た。
なんでこんなこともできないの、大学で何勉強してきたわけ、給料もらってわからないできないは許されないのよ。
前職で先輩たちにかわるがわる言われたことばが響く。
手を尽くしたとわかっている。ただその一言が、これほど欲しかったなんて。
「ひとの受け売りだが……自分一人の力で他人をどうにかできるなどと思うのは思い上がりだそうだ」
大人が相手でも、子どもが相手でも。自分がどうにかしてやろうなどとは、烏滸がましいのだ、と。
「窓を開けておく、おはようと声をかける、手を握る……一つ一つに、大きな意味がなくても、積み重ねたときに相手が意味を見出せるときがくる。私たちができることは、それだけだ」
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そこまで思い出してしまって、枕に顔を埋めたまま、布団の中で足をばたつかせる。
本当、なんというか仄里の人たらしは半端ない。
思えばあの日、仄里にああやって労ってもらえたから、今までやってこられた気がする。
(……本格的にやばい、なあ)
金森美晴のことから半年経った今では、みんなともそれなりにコミュニケーションもとれ、やりがいも感じている。長く勤めたいなと思うし、ほのさと保育園が好きだなと思う。大事にしたいと思うからこそ、仕事場に色恋を持ち込むのはあまり良くないと思うのだ。
(でも……)
単なるファンのようなものなのか、大先輩への憧れなのか。
今はまだ曖昧なまま、仕事の励みにするくらいは良いのではないか。
「うし! 今日もがんばるぞー」
気合いを入れて起き上がり、カーテンを引く。今日の気分は何色のエプロンだろうと思いめぐらせながら。