第三話(最終)
この作品はこれで完結です。
最後までお読み下されば幸いです。
よろしくお願いします。
最期は海に行こう。
今朝方、茜色に染まり始めた空をカーテン越しに感じながら、私は思った。施設にいた頃に行楽イベントかなにかで幸也と共に行った、数少ない思い出の場所。
ただ、どこの海かまでは憶えていない。
貸し切りバスに乗って日帰りした記憶があるから、そう遠くはないはずだが、高速道路を使った気もする。もしそうなら、市外どころか県外という可能性も出てくる。
「海っていわれてもねぇ」
バックミラーに映っている私に、タクシーの運転手が困惑した声を投げる。今しがた立ち寄った海は、明らかに記憶と違っていた。
「このあたりの海はどこもあんなもんだよ」
幸也と行った海は、岩場じゃなくて砂浜だった。近くの高台の周囲を電車が走っていたのをぼんやりと憶えている。
運転手にそう告げると、だったら隣の県かもしれないね、と生返事が返ってきた。
「心当たりはありますか?」
「まあ、なくもないけど。でも道、混んできちゃってるよ」
腕時計に目を遣ると、すでに午後五時を過ぎていた。帰宅ラッシュの時間帯だろう。対向車のヘッドライトの数も確かに増えている。
今から車を走らせても、今日はもう遅すぎる。
それでも、できるだけ近くまで行っておきたかった。
「向かって下さい」
私がそう言うと、運転手はすでに上がっている料金メーターに目を走らせて、次にバックミラーを不審げに睨んだが、どんなにタクシー代が高額になろうと、私にはどうでもいいことだった。
タクシーを降りると、微かだが耳に潮騒が届いて、心が弾んだ。澄み渡る夜空は、そこから届く月明かりの冷たさが肌に心地よかった。
タクシーが逃げるように去っていき、何号線だか知らないが大きな国道沿いにポツンと取り残された私は、少し思案したのち、海岸とは反対方向に足を向けた。目の前を行き交う乗用車やトラックの合間から、ファミレスの看板がチラついていたからだ。
ここまで来れば、もう急ぐ必要はない。
ファミレスの重たい扉を開くと、店員が笑顔でやってきて、席へ案内してくれた。
そこは窓際の席だった。暗闇の中にも遠くに海が霞んで、運がいい、とも思ったが、たとえこの辺りが観光地であっても今はオフシーズンのはずで、国道を走る運転手がフラッと立ち寄る程度の客しか来ないなら、別段、運がいいわけでもないのだろうと思い直した。
外の景色を眺めながら、時間をかけて食事を済ませる。済んだ皿と引き換えに熱い紅茶が運ばれてくると、ようやく私は一息ついた。
始まりからして定かでない長い一日が、この紅茶を飲み干すことによって終わりを告げる。
私は奇妙な満足感を得て、紅茶のカップを口に運ぶ。湯気に口元を湿らせつつ、一口、二口と嵩を減らしていく紅茶に、今度は緊張のさざ波が立ち始めた。
このカップが空になったら――
私はおもむろにバッグを手繰り寄せ、中の携帯を手に取る。電源は切ったままだが、職場の仲間からのメッセージくらい入っているだろう。煩わしいな、と思いつつ、携帯を起動させる。
もう一度だけ、聞いておきたかった。彼の声を、あの言葉を。
携帯を耳に当て、留守電を再生する。
掠れた声が聞こえてきた。
「エリカ、俺だけど。教員採用試験、受かったよ。来春からは小学校の先生。場所はちょっと遠いけど」
今年に入ってすぐ、職場の青果市場に幸也が現れた。中学二年の放課後以来、六年ぶりの再会だった。
来春、無事に大学を卒業できそうなこと、卒業後は教職に就くつもりであること、そのために勉強中であり、多忙な日々を送っていること、などを話してくれた。
別れ際、私は応援の気持ちを込めて市場の中でも高級なリンゴを幸也に手渡し、同時に連絡先も交換し合った。
それから半年ほど経った梅雨時の一日、彼から電話があった。ちょうど三月ほど前だ。
私は仕事中で電話に出れなかったが、この留守電が残されていた。
「……エリカ、待ってて。迎えに行くから。俺、約束を果たすよ。あの日、エリカを残していったこと、許してもらえるように……」
前半の明るい調子とは打って変わって、後半は重々しく響く。
その重さは、私と彼にしか量れない。
たとえるものすらないだろう。
このメッセージが残されて二週間ほど経った日の夕方、彼は道端で遊んでいた少女を助けようとして、自らを犠牲にした。
お客様、と何度か呼びかけられて、自分がまどろんでいたことに気付く。いや、窓越しの空はすでに青みがかっているので、眠っていたのだろう。昨晩は寝ていなかった。
「モーニングの準備がありますので……」
愛想笑いを浮かべる店員に、私は軽く頭を下げて、彼女を安心させるつもりで素早く伝票を掴む。
レジに向かいながら、ここが二十四時間営業であったことに今更ながらに感謝した。少し眠れたおかげで、頭の中がすっとしている。
目的地まであと少しだ。
店を出ると、会計時に店員から教わった道をたどり、駅に向かう。私の記憶にある高台かどうかは不明だが、それらしい場所を回って海岸へと走る電車あるらしい。
しとしとと降り始めた雨に打たれながら、私は歩く。
十分もたたないうちに白い木造の駅舎が見えてきて、この時ばかりは駆け足になった。もし停車中の電車が始発なら、それに乗りたいと思ったからだ。
ホームに到着した私は、すでにドアの開かれている車両に飛び移り、床を雨で濡らしながら座席に腰を下ろす。
車両の回りには白い煙が立ち込めていて、ライトの明かりが雨の軌道を見せている。その煙が小さく吹き上がると、にわかに出発の気配が濃くなって、やがて電車は動き出した。
実際に車窓から見てみると、高台だと思っていた地形は意外に低く、ちょっとした山間部を抜けると、すぐに海が広がった。
やはりここは、記憶の中の海ではないのかもしれない。
そんな意識が芽生えはしたが、それは失望や絶望とは異なり、なんだ、と自嘲すれば萎んでいく程度のものだった。
そういえば昔、どこの海も最後は一つに結ばれていく、と教わったことがある。施設を訪れた牧師さんの言葉だったかもしれない。
もしそうなら、と胸が高鳴ったが、一瞬でも宗教的な救いにも似た安堵感を覚えた自分に、私は再び自嘲した。
海はまっさらな青とはいえず、間断なく雨を受ける水面は白く泡立っている。そんな情景を誰を憚ることなく、うつろに眺めていられるのは、ほとんど乗客のいない始発の特権に違いない。
私はバッグからオルゴールを取り出す。
私以外、行き場のなかったオルゴール。
膝の上において、そのネジを巻いてみる。巻いていくとだんだんきつくなってきて、最後まで巻き切るには思いのほか力が要った。
巻き終わって指を離すと、その宝石箱にも似た錆びた小箱から、聴き慣れたメロディーが流れ始める。
有名な《あの素晴らしい愛をもう一度》だ。
オルゴールはカタカタと震えながら必死に音を絞り出す。とても苦しそうで、次の瞬間にとまってしまっても、誰も文句は言えないだろう。
もう、とまってくれてもいい。
十三年間、動き続けてきたのだ。
眠りにつこう。
一緒に。
電車が小さな駅で停まった。この先、線路はカーブを描いて再び山間に入っていくので、ここが一番、海辺に近いはずだ。この機を逃すまいと、私は急いで降車した。
狭い割には天井の高い改札を抜けると、私の視界は一瞬にして白の砂浜に覆いつくされた。奥行はなくて、ただ無限の広がりをみせる静止画に似ていた。
あれが水平線か、と感動を覚えながら砂を踏んでいく。雨空と海面を綺麗に切り分ける姿は、横に伸びた虹を思わせた。
私は来るべき場所に来たことを確信し、嬉しくなった。この幸運を誰かに謝したいとすら思った。もしかすると、幸也の放った青い鳥が私をここまで運んでくれたのかもしれない。
全身で細雨を感じながら、沖を目指して歩く。
波がすぐに私の足元を濡らし始めた。屈んで海水を掬ってみると、無数の泡が弾けて、貝殻が一枚、手のひらに残った。薄い半円形の輪郭に掠れた親しみが湧き、私ももう、同類なんだ、と思って逃がすように海に返した。
バッグが海水を含み、含んだ分だけ重くなる。それでも強い波にはさらわれそうになるので、私はしっかりと肩に掛け直して、海の中を進んでいく。
どこが終わりなのか、わからない。
この海が別の海に結ばれているなら、そもそも終わりなどないのかもしれない。
私はふと、雨がやんでいることに気付いた。
空を見上げると、冷たい雨粒ではなく温かな日差しが落ちてくる。
それは水面のいたるところに反射して、眩しくて、嬉しくて泣きたくなった。
私は半ば駆け出すように手足を動かし、より遠くを目指す。
水をかき分け、時に潜りながらも泳いでいると、どこからか幸也の声が聞こえてくる。
あの時、土手に咲いたコスモスを見て、彼は美しいと言った。
そして私も、同じ花を見て、美しいと言った。
確かに言った。
それは再会の歌のはずだった。
私は込み上げてくる期待にどうしようもなくなって、大きく息を吸った。吸いながら、海の中で仰向けに倒れたら、遠くでさざ波が輝いていた。
この世界が美しいと思った。
出典「あの素晴らしい愛をもう一度」(1971年)
作詞:北山修 作曲:加藤和彦